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ヒロイズム教本  作者: 胤田 一成
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闇市

 今年で十三歳になる茂雄(しげお)途方(とほう)に暮れていた。

 母のひどくあかぎれた手から渡された(わず)かな金。それを握りしめて茂雄(しげお)神奈川(かながわ)から東京(とうきょう)へとやって来た。茂雄(しげお)()せられた仕事は上野(うえの)闇市(やみいち)で米を買うことである。全てが順調に進んでいたはずである。鉄道に揺られ、人のごった返している上野(うえの)闇市(やみいち)をすり抜け、米を買うまでは茂雄(しげお)に落ち度などなかった。しかし、茂雄(しげお)はまだ闇市(やみいち)という恐ろしさを知らないでいたのも事実であった。

 茂雄(しげお)は母から手渡せられた(わず)かな金で一升(いっしょう)の米を買った。久しぶりに見る、白く()るような米を大事に(かか)え、後は家路(いえじ)を急ぐばかりのはずであった。しかし、事は上手くは運ばないものである。茂雄(しげお)の肩に手を掛けたのは、赤ら顔をした背の高い大人であった。茂雄(しげお)はその小さな身体(からだ)()かして必死(ひっし)になって赤ら顔から(のが)れようとした。だが、赤ら顔の指は茂雄(しげお)華奢(きゃしゃ)肩口(かたぐち)に食い込んで離れない。

 気が付いたときには茂雄(しげお)仰向(あおむ)けに倒れていた。鼻からは血が(おびただ)しいまでに流れている。茂雄(しげお)は自分が顔面を(したた)かに殴られたことに気づくまでに時間がかかった。赤ら顔が闇市(やみいち)雑踏(ざっとう)の中へと駆けて行くのを茂雄(しげお)は見た。そして、彼の片手には一升瓶(いっしょうびん)に詰められた米が握られているのも確かに見た。茂雄(しげお)は自分が強盗に()ったのだと理解するまでにしばらくの時間を要した。当たり所が悪かったのだろう。茂雄(しげお)の意識は徐々に遠のいていった。

 茂雄(しげお)が目を覚ましたのは、それから十五分ほど経った頃であった。茂雄(しげお)は自分の腕に抱えられているはずの米がないことを(あらた)めて知った。赤ら顔はもう闇市(やみいち)雑踏(ざっとう)へと身を隠してしまったに違いない。目前(もくぜん)(ひか)える人の群を()()けて、人ひとりを探し出すのは不可能に近かった。茂雄(しげお)は泣き出してしまいそうな気持ちを押し殺して(ひざ)に力を入れて立ち上がった。()()ぎされたズボンのポケットには幸いなことに、まだ(わず)かばかりの金銭がまだ残されている。茂雄(しげお)は自分の失態(しったい)を恥じながらも、方々を駆けまわって、電話が置いてある店を探した。戦禍(せんか)(まぬが)れて生き残った電話を見つけるのは至難(しなん)だった。だが、失態(しったい)失態(しったい)である。母に電話をかけねば、(かえ)(ちん)すらままならないのである。

 ようやく、電話を貸してくれる店を見つけた頃には空は(あかね)(いろ)に染まっていた。しかし、安堵(あんど)(むね)()でおろすどころか、茂雄(しげお)は古びた三号自動式卓上電話を前にして途方に暮れてしまった。(なさ)けない、と茂雄(しげお)はまずそう思った。第一、自分の帰りを待ちわびている家族に対して面目(めんぼく)が立たない。申し訳が立たない。

 その上、みじめにも、母親に自分を迎えに来てくれなどとは口が裂けても言い出せそうになかった。しかし、このままでは闇市(やみいち)という人の群に()(つぶ)されてしまうのも明らかであった。飢餓(きが)熱気(ねっき)鬱積(うっせき)、そういった闇市(やみいち)を取り巻くものが茂雄(しげお)の背中をジリジリと焼いて止まないのであった。

 逡巡(しゅんじゅん)した末に茂雄(しげお)は遂に黒電話のダイヤルを回した。母はきっと憤怒(ふんぬ)するだろう。そうして自分は(おのれ)(いた)らなさや(なさ)けなさを()()めることになるだろう。茂雄(しげお)は自分の家の近所にある米屋の番号を急いで回した。米屋の主人とのしばらくのやり取りの後に、母は駆け足で電話口にやって来たようであった。息が上がっていた。

茂雄(しげお)、ずいぶんと帰りが遅いから心配していたんだよ。やっぱり、お前にはまだ早かったわね。母さんはずっと心配していたんだよ。お前にはずいぶんと苦労をかけるね。父さんが帰って来たのならどれだけ心強いだろう。早く帰っておいで。母さん、お前が帰って来るまでずっと起きて待っているからね」

 茂雄(しげお)はいつになく優しい母の言葉に胸を打たれた。十三歳になる茂雄(しげお)にはまだ闇市(やみいち)は早過ぎた。戦争はまだ続いているのである。茂雄(しげお)は懐かしい父の力強い腕を思い出しながら、鼻を(すす)って言った。

「母さん、俺、失敗しちゃったよ。米はどこかの野郎にすっかり持ってかれちゃった。ここではまだ、戦争が続いているんだね。俺がもう少し強かったら米も取られることもなかったのに」

「ああ、そこはまだ戦争が続いているんだよ。そんなところにお前を送ってしまってすまないね。米のことは気にすることはないよ。いいかい、あたしが今からそっちに迎えに行くから、お前は動くんじゃないよ。命あってのモノダネだからね」

 茂雄(しげお)は電話を切ると、みすぼらしいトタン屋根(やね)の下で(ひざ)(かか)えながら座り込んだ。怪しげな露店の前を奔流(ほんりゅう)となって()()う人々は、いまだに戦争の渦中(かちゅう)にいた。茂雄(しげお)は小さくなって、人々が必死(ひっし)になって戦う様を見守(みまも)るほかにしようがなかった。父はおそらく帰ってくることはないだろう。誰も口にしないけれど、誰もが分かっていることでもあった。今日、母はそれを初めて口にした。十三歳になる茂雄(しげお)目前(もくぜん)を流れゆく「戦後の戦争」を寂しく見詰(みつ)めながら一人、孤独を()()めた。


 (了)


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