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ヒロイズム教本  作者: 胤田 一成
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閻魔帳

 夜も更けたので軒先(のきさき)暖簾(のれん)を下ろそうと支度(したく)をしているとカウンターの隅に一冊の手帳が取り残されていることに気が付いた。

 ―また、酔っ払いの失せ物か―

 居酒屋(いざかや)(あきな)っていると、こういった忘れ物を目にすること自体は少なくない。安酒ばかり扱う店に訪れる客の(ふところ)事情(じじょう)など、たかが知れているから、わざわざ警察に届けようとまでは思わない。そういったものは山ほどある。

 いつもなら気にも留めない事柄ではあったが、今度の忘れ物だけは違った。今どきには珍しい黒革(くろかわ)手帳(てちょう)を手に取って滑らかな肌触りを味わった後に何気なく帳面(ちょうめん)を開いてみた。

 ―これは外国の文字なのかなー

 手帳の中身は見たこともない記号の(つら)なりで埋め尽くされていた。それらがどのような意味を示しているのかは全く分からないが、見る者を()きつける不思議な魅力があった。

 手帳のページを手繰(たぐ)って中身を確かめている間にずいぶんと時間を(つい)やしてしまったようだった。あくびを()(ころ)しつつも店じまいのために椅子から腰を上げた。

「もしもし、すみません」

 玄関に設けられた硝子(がらす)()りの引き戸に人影がぼんやりと(えい)じていた。先に暖簾(のれん)を下げておくべきだったな、と後悔しながら戸外(こがい)の影に声をかけた。

「今晩はもう店じまいなんですよ」

 招かれざる客はしばらく押し黙っていたが、(じき)に意を決したように息を飲むと切迫(せっぱく)した勢いで訴え始めた。

「実はそちらで忘れ物をしてしまったようなのです。カウンターに黒い革製(かわせい)手帳(てちょう)が置かれていませんでしたか。よろしければお店の中を少しだけ見て確かめたいのです。どうかお願いします」

 机上(きじょう)に置かれている黒革(くろかわ)手帳(てちょう)一瞥(いちべつ)した後に仕方(しかた)がなく引き戸の手を掛けた。不用心だとは理解していたが得体(えたい)()れない人影と戸越(とごし)の問答を続けたくはなかった。

夜分(やぶん)(おそ)くに大変失礼いたします」

 引き戸の向こうには枯れ木のように()(ほそ)った男がスーツを(まと)って立っていた。手狭(てぜま)な店だから客の姿は嫌でも覚えてしまうのが常である。しかし、このような痩身(そうしん)長躯(ちょうく)な男を見た記憶がない。

「あんたが探している物はこれじゃないか」

 カウンターに残された黒革(くろかわ)手帳(てちょう)を手に取って見せると痩身(そうしん)の男は喜びの声を上げた。胸を()()ろして安堵(あんど)している男の姿を眺めているうちに、かねてから疑問に思っていたことを口走ってしまった。

「それにしても日本人にしか見えないな」

 (てのひら)を合わせて感謝していた男の青白い顔が途端(とたん)に固まった。男は姿勢もそのままに(かす)かに震える声で訊ねた。

「もしかして手帳の中を見ましたか」

 言葉を(にご)して(なん)(のが)れることも考えたが、男の有無(うむ)()わさない静かな声風(こわぶり)に恐怖を感じて、正直になることを決めた。痩身(そうしん)の男は興味本(きょうみほん)()で手帳の中身を垣間見(かいまみ)てしまったことを聞くとしばらく思案(しあん)した後に、次のような事情を話し始めた。

「信じてはもらえないでしょうが、私の正体は悪魔なのでございます。その手帳は私たち悪魔にとってはとても大切な仕事道具の一つなのです。書かれている文字は悪魔が使うものなので(せい)ある者が()()くことは決してできません。悪魔の仕事にも守秘義務がございますので、書かれている内容を明かすことは固く禁じられているのです。したがって生者(せいじゃ)にとってはまことに無用(むよう)品物(しなもの)でございます。どうか返してはいただけませんでしょうか」

 悪魔を名乗る男は真剣な面持(おもも)ちで述べると深々と頭を下げた。奇妙な話ではあったが長々(ながなが)と(こうべ)()れて頼んでみせる男の様子を観察している間に、それは本当なのかもしれないと戸惑(とまど)いながらも考え始めていた。いずれにせよ、大人が平身低頭(へいしんていとう)してまで取り戻したい品物であることだけは確かなようだった。

 ―ただで返すのは惜しい気もする―

 これが真実なら少しばかりの報酬(ほうしゅう)があっても良い気もした。なによりも悪魔を名乗る男の人並ならぬ腰の低さが、それを与えてくれるかもしれないという希望を抱かせた。

「望みを叶えてくれるなら返してもいい」

 断られてしまったのならそれまでである、という気持ちで訊ねてみたつもりだった。恐る恐る男の様子を窺ってみると意外にも喜色(きしょく)満面(まんめん)な笑みが待ち構えていた。そして……。


 居酒屋の主人から手帳を取り戻した悪魔は軽やかな足取りで寝静まった夜の街を歩く。

「やれやれ、それにしても迂闊(うかつ)だった。まさか魂の価値を見定めに出向いた先で肝心(かんじん)帳簿(ちょうぼ)を失ってしまうとは思わなかった。だが、無事に閻魔帳(えんまちょう)を取り戻せたうえに契約を結ばせることもできた。私にしては上出来だな」

 月明りの下で悪魔はそう呟くと、黒革(くろかわ)手帳(てちょう)(ふところ)にしっかりと()き、にやりと微笑(ほほえ)んだ。


 (了)


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