帽子屋からの贈り物
「あなたは妖精の存在を信じますか?」
ナイトクラブのカウンターでウイスキーグラスを傾けていると、隣に腰掛けていた身なりの良い老人が奇妙なことを訪ねてきた。
「それは素敵な質問ですね」
イエスともノーとも捉えられる曖昧な返事で誤魔化した。華やかな夜の店で寂しく酒を飲み続ける僕の姿を見て、彼なりに気を使ったつもりなのだろう。孤独は伝染するものだから、不愉快に思ったのかもしれない。
「妖精はいますよ。私たちのごく身近にね」
老人はグラスに注がれた彩り鮮やかなカクテルで枯れた唇を潤した。変哲もない酒も彼が手にした途端に魔力を帯びた霊薬に変わったようだった。夢物語を真剣に話す老人は不思議な魅力で僕の中の虚ろを満たしていく。
「私はしがない帽子屋でね。ずいぶんと長い間にわたって色んな帽子を作ってきた。初めはかなり苦労もしました。西洋式の帽子がまだまだ馴染み深くない時代でしたからね」
老いた帽子屋は手にしたカクテルを掲げて、その不可思議な色合いを光に透かして、矯めつ眇めつ眺めながら語る。
「それである夜に悪魔と契約を交わしました。魂を明け渡すことを条件に三つの願い事を叶えてもらったのです」
豪奢に装飾された室内に上品な音楽が流れ始めた。帽子屋の穏やかな声が奏でられるピアノの音色に溶けて消えていく。今や僕の心を苛んでいた孤独はどこかへ失せていた。
「一つ目は誰しもを魅了する帽子づくりの腕前を願いました。二つ目はその帽子に妖精を宿す力を願いました。三つめは帽子に憑いた妖精を操る力を願いました」
老人が正気を逸していることは確かだったが、酒に酔ったあげくに言葉を弄んで他人をからかうような意図は認められない。彼は心の底からこのおとぎ話を信じているようだった。
「契約のおかげで商売は大いに繁盛しました。それに伴って多くの人々が妖精を宿した帽子をかぶるようになっていきました」
帽子の縁に座って薄羽を震わせる妖精の姿を思い浮かべた。僕もどこかで老人の手によって織り成された帽子を目にしたことがあるのかもしれない。
「妖精たちは実にお喋りでね。帽子の上から見聞したことを知らせてくれるのです。中には政治家の謀略や大企業の秘密なんてものもある。一介の帽子屋が悠々(ゆうゆう)と暮らしていけるのも妖精の力あってのことなのですよ」
帽子屋の誇大妄想めいた述懐は際限なく広がっていくようだった。この老人は確かに気が狂っているに違いない。その話を一笑に付してしまうことは容易い。しかし、僕はまるで子どもが絵本の朗読をせがむように帽子屋の物語に執着しているのも事実だった。
「私はいずれ妖精を使役する力でこの世界をも掌におさめるつもりです。いかなる秘め事も私には通用しない。全ての謀を意のままにすることができるのです」
そう言うと老人はカクテルグラスの霊薬を飲み干した。帽子屋を名乗る老人の小さな頭蓋の内で巨大な悪意が渦を巻いていた。人間の脳髄が生み出した歪な世界を覗き込むあまりに、自らも穴へと頭から落ちていくような危険を冒していることに気が付いた。
「老人の戯言に付き合ってくれてありがとう。私はそろそろ失礼させていただくよ。あなたも早く家に帰った方がいい」
壊れた脳髄の主は椅子から腰を上げると不思議な物語に幕を下ろすかのように告げた。僕は穴の縁で踏みとどまれたことに安堵しながらも老人の痩せ細った手を握った。
「そうそう。あなたの恋人の帽子に憑いている妖精から報告を受けていた。これを彼女に渡しておやりなさい」
老人は店主に預けていた鞄から丁寧に包装された小箱を取り出した。柔らかなリボンで修飾された小箱はいかにも僕の恋人が好みそうな代物であった。謎めいた注文とともに手渡された贈り物を、僕は素直に受け取る他にしようがなかった。訊ねたい事は山ほどあったが、そのどれもが曖昧な微笑を前にして無駄に終わるのだろうと予感させた。呆然と佇む僕に一礼すると老人は酔いを感じさせない足取りでナイトクラブを後にした。
「妊娠したみたいなの」
見ず知らずの老人からの贈り物を持て余しながら家路についた。扉の前で僕を待っていたものは熱い抱擁とキスの嵐だった。彼女は嬉しさに涙しつつも懐妊したことを告げた。
頬を伝う雫を指ですくいながら帽子屋からの贈り物を思わずにはいられなかった。腕を絡ませて甘える彼女を片腕に抱いて、僕は老人から託された小箱の包装を解いていく。
「あら、素敵ね」
謎めいた箱の中にはレースで飾られた小さな帽子が篭められていた。クスクス、という笑い声が耳朶を微かに震わせた気がした。
(了)




