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ヒロイズム教本  作者: 胤田 一成
18/20

帽子屋からの贈り物

「あなたは妖精の存在を信じますか?」

 ナイトクラブのカウンターでウイスキーグラスを傾けていると、隣に腰掛けていた身なりの良い老人が奇妙なことを訪ねてきた。

「それは素敵な質問ですね」

 イエスともノーとも捉えられる曖昧(あいまい)な返事で誤魔化(ごまか)した。(はな)やかな夜の店で寂しく酒を飲み続ける僕の姿を見て、彼なりに気を使ったつもりなのだろう。孤独は伝染するものだから、不愉快に思ったのかもしれない。

「妖精はいますよ。私たちのごく身近にね」

 老人はグラスに注がれた(いろど)(あざ)やかなカクテルで枯れた(くちびる)(うるお)した。変哲(へんてつ)もない酒も彼が手にした途端(とたん)に魔力を帯びた霊薬(れいやく)に変わったようだった。夢物語を真剣に話す老人は不思議な魅力で僕の中の(うつ)ろを満たしていく。

「私はしがない帽子屋(ぼうしや)でね。ずいぶんと長い間にわたって色んな帽子(ぼうし)を作ってきた。初めはかなり苦労もしました。西洋式の帽子(ぼうし)がまだまだ馴染(なじ)(ぶか)くない時代でしたからね」

 老いた帽子屋(ぼうしや)は手にしたカクテルを(かか)げて、その不可思議な色合いを光に透かして、()めつ(すが)めつ眺めながら語る。

「それである夜に悪魔と契約を交わしました。魂を明け渡すことを条件に三つの願い事を叶えてもらったのです」

 豪奢(ごうしゃ)装飾(そうしょく)された室内に上品な音楽が流れ始めた。帽子屋(ぼうしや)の穏やかな声が(かな)でられるピアノの音色(ねいろ)に溶けて消えていく。今や僕の心を(さいな)んでいた孤独はどこかへ失せていた。

「一つ目は誰しもを魅了する帽子(ぼうし)づくりの腕前を願いました。二つ目はその帽子(ぼうし)に妖精を宿(やど)す力を願いました。三つめは帽子(ぼうし)()いた妖精を操る力を願いました」

 老人が正気を(いっ)していることは確かだったが、酒に酔ったあげくに言葉を(もてあそ)んで他人をからかうような意図は認められない。彼は心の底からこのおとぎ話を信じているようだった。

「契約のおかげで商売は大いに繁盛(はんじょう)しました。それに(ともな)って多くの人々が妖精を宿(やど)した帽子(ぼうし)をかぶるようになっていきました」

 帽子(ぼうし)(ふち)に座って薄羽(うすば)を震わせる妖精の姿を思い浮かべた。僕もどこかで老人の手によって()()された帽子(ぼうし)を目にしたことがあるのかもしれない。

「妖精たちは実にお(しゃべ)りでね。帽子(ぼうし)の上から見聞(けんぶん)したことを知らせてくれるのです。中には政治家の謀略(ぼうりゃく)や大企業の秘密なんてものもある。一介(いっかい)帽子屋(ぼうしや)が悠々(ゆうゆう)と暮らしていけるのも妖精の力あってのことなのですよ」

 帽子屋(ぼうしや)の誇大妄想めいた述懐(じゅっかい)は際限なく広がっていくようだった。この老人は確かに気が狂っているに違いない。その話を一笑(いっしょう)()してしまうことは容易(たやす)い。しかし、僕はまるで子どもが絵本の朗読をせがむように帽子屋(ぼうしや)の物語に執着しているのも事実だった。

「私はいずれ妖精を使役する力でこの世界をも(てのひら)におさめるつもりです。いかなる秘め事も私には通用しない。全ての(はかりごと)を意のままにすることができるのです」

 そう言うと老人はカクテルグラスの霊薬(れいやく)を飲み干した。帽子屋(ぼうしや)を名乗る老人の小さな頭蓋(ずがい)の内で巨大な悪意が渦を巻いていた。人間の脳髄(のうずい)が生み出した(いびつ)な世界を(のぞ)()むあまりに、(みずか)らも穴へと頭から落ちていくような危険を冒していることに気が付いた。

「老人の戯言(たわごと)に付き合ってくれてありがとう。私はそろそろ失礼させていただくよ。あなたも早く家に帰った方がいい」

 壊れた脳髄(のうずい)の主は椅子から腰を上げると不思議な物語に幕を下ろすかのように告げた。僕は(あな)(ふち)で踏みとどまれたことに安堵(あんど)しながらも老人の()(ほそ)った手を握った。

「そうそう。あなたの恋人の帽子(ぼうし)()いている妖精から報告を受けていた。これを彼女に渡しておやりなさい」

 老人は店主に預けていた鞄から丁寧に包装(ほうそう)された小箱を取り出した。柔らかなリボンで修飾(しゅうしょく)された小箱はいかにも僕の恋人が好みそうな代物(しろもの)であった。謎めいた注文とともに手渡された贈り物を、僕は素直に受け取る他にしようがなかった。訊ねたい事は山ほどあったが、そのどれもが曖昧(あいまい)微笑(びしょう)を前にして無駄(むだ)に終わるのだろうと予感させた。呆然(ぼうぜん)(たたず)む僕に一礼すると老人は酔いを感じさせない足取りでナイトクラブを後にした。


「妊娠したみたいなの」

 見ず知らずの老人からの贈り物を持て余しながら家路(いえじ)についた。扉の前で僕を待っていたものは熱い抱擁(ほうよう)とキスの嵐だった。彼女は嬉しさに涙しつつも懐妊したことを告げた。

 (ほお)を伝う(しずく)を指ですくいながら帽子屋(ぼうしや)からの贈り物を思わずにはいられなかった。腕を(から)ませて甘える彼女を片腕に抱いて、僕は老人から託された小箱の包装(ほうそう)(ほど)いていく。

「あら、素敵ね」

 謎めいた箱の中にはレースで飾られた小さな帽子(ぼうし)()められていた。クスクス、という笑い声が耳朶(じだ)(かす)かに震わせた気がした。



 (了)


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