ラジエルの書
学生の頃から世話になっていた古書店が店じまいするらしいという噂を聞きつけて、仕事の合間を縫うようにして駆け付けた。雑居ビルに脇を支えられるようにして、ようやく建っている小さな店であるが、蔵書の量は確かなもので有難い場所であった。
飴色に染まった木造の扉を押し開けるとベルの音が店内に響き渡った。カウンターの奥から、ひょっこりと顔を出した店主の顔色は青ざめている。僕はそこにどうしようもなく逼迫した生活の臭いを感じ取った。
「店を閉めると聞いてね。こんなことになってしまって残念だよ」
思わず悔やみの言葉がこぼれた。店主は青ざめた顔色もそのままに、見舞いに来たことへの礼を呟くと、カウンターに設えた椅子に力なく腰を下ろした。店主の周りを囲む膨大な数の書物は、もはや彼の財産ではなかった。
「商品の整理をしていたところです。何か必要な本があったら持っていってください」
店主は虚ろな声でそう言うと、机の引き出しからタバコを取り出して火をともした。紫煙は蛍光灯の辺りをしばらく漂った後に、やがて霧散していく。壁に貼られた「火気厳禁」という紙が空々(そらぞら)しかった。
「もちろん、欲しい本はあるけれど、タダで持っていったりはしないよ。然るべき金を払って頂戴するつもりだ。マスターには世話になったからね。多少なら吹っ掛けてもいいよ」
息詰まるような重苦しい雰囲気を誤魔化すための冗談は不発に終わったようだった。店主は天井の隅を見詰めたまま微動だにせず、その顔に嘲笑を浮かべる事すらしなかった。何か思案に耽っているようにも、呆然自失しているようにも見えた。
――まさか、首でも吊ってしまうつもりではないかしら――
店主の落ち込みようは見ている者を不安にさせずにはいられなかった。金銭で解決できる問題ではないと知っておきながらも言わずにはいられなかった。
「それじゃ、その本をいただこうかな」
カウンターの隅に置かれた赤い背表紙が美しい一冊の本を指さして言った。店主は僕の何気ない提案に明らかな反応を示した。虚空を見詰めていた双眸をカッと見開いて僕を睨みつけたのである。
「悪いですがこれだけは譲れません。他の本なら構いませんがこれだけはいけません」
店主の剣幕に驚きながらもカウンターの上の謎めいた本について興味が湧いてきた。店主は初めこそは頑なに口を閉ざしていたが、最期には精も根も尽き果てたようになって、ポツリポツリ、と本の由来を語り始めた。
「君は神を信じますか。この本には世界の全ての知識と記録が書かれています。そうですね、神の台帳のようなものだと考えていただけたら結構です。私はこの本をとある外国人に譲られてからずっと守ってきたのです。
君は自分が大いなる存在の前でどのような位置に立たされているのか気になりませんか。己が世界においてどのような存在意義を持って生まれ落ちたかを知りたいとは思いませんか。誰だって最後には己の事を調べるに決まっています。
この本はそういった全ての記録が恐るべき正確さで示されています。自分はなぜ生まれて、どのように死ぬのか。また、死後にはどのような裁きが神の前で執行されるのか。この本だけは誰にも譲るつもりはございません」
店主は訥々(とつとつ)とそんなことを語った。僕は粗末な机に広げられている立派な装丁が施された赤い本を凝視した。あそこにはこの世の全ての知識と記録が記されているという。咥内は乾ききって粘着質な唾液が舌にまとわりついている。苦労してその唾を嚥下したころには件の本が欲しくて堪らなくなっていた。
僕はそろりそろりと年老いた店主に近寄っていく。老人の手から一冊の本を奪い取ることなどわけないことだ。その結果、老人がどのような目に会おうとも知ったことではない。そう、どのような目に会おうとも――。
そこまで読むと、私はカウンターに広げられた本を静かに閉じた。これから起きることを知ってもどうしようもなかった。医者からは余命幾ばくもないと聞かされていた。
私は私自身の運命について知ることを最後になって放棄した。私の生涯はどのような意味を持っていたのか。それを知ったところで私は決して納得はしないだろう。それならば暗中に残された一本の綱を手探りでも手繰り寄せながら歩みを進める方が満足するに違いない。人とはそういうワガママな生き物に出来上がっているのかもしれない。
飴色に染まった木造の扉が開かれ、寂しかった部屋にベルの音が響き渡った。私は本に記された私の物語に逆らうように声を張り上げた。
「いらっしゃいませ」
(了)




