ナザレ印の赤ワイン
町はずれの原っぱに建てられたあばら家。打ち付けられた板の隙間から、蝋燭の灯火が漏れ出て、芝草の上に色濃い影を落としている。妖しく揺らめく火に誘われて秋の虫たちが翅を打ち振るわせて鳴いている。
吹けば倒れてしまいそうなほど粗末な小屋だったが、これがエフ博士の持つ研究所であった。その昔はこの国でも指折りの資産家でもあったが、今となっては見る影もない。老齢のエフ博士は残されたわずかな財産をつぎ込んで、このあばら家で神秘術を究めようとしていた。その目的はたった一つ。
――寿命を延ばしてもらうことで、失ったはずの人生を取り戻すのだ――
エフ博士は勇名をはせた実業家であり、また慈善家でもあった。かつては多くの資産を投じて、貧しい国々や恵まれない子どもたちに施しを与え、世間から称賛されてもいた。しかし、この虚無感は一体全体、どうしたことか。余命いくばくもない老人になってみて彼が感じるもの後悔ばかりなのだった。
エフ博士は知らぬ間に腹の底に溜まり、泥のように泡を成していた欺瞞を許して、受け容れることができなかったのだ。彼は人一倍の潔癖な性分をしていた。
――これまで他人のために実に多くの金と時間を費やしてきたが、それは結局のところ世間に良い顔を見せようと見栄を張っていたに過ぎないのではないか――
エフ博士が事業に失敗しても、世間は一向に彼を顧みることはなかった。それどころか、世界平和の実現のために多大な貢献をしたにも関わらず、金を失ったと聞くと世の人々はエフ博士を指さして笑いものにすることすらあった。エフ博士が社会に背を向けて郊外のあばら家にこもるようになったのは、少なからずそういった経緯も関係してるだろう。誰かに嘲り躙られるのをエフ博士は大いに怖れていた。彼の性分がそれを許さなかった。
――生命を取り戻したら、今度こそは自分の望んだ通りの人生を歩むのだ。誰かに与える側ではなく奪う側になってみせる――
香の匂いが立ち込める小屋の中でエフ博士が額に玉の汗をにじませながら祈祷を続ける。長い年月をかけて研究を重ねたエフ博士は、とうとう天使を呼び出す呪術を編み出したのだ。古今東西の呪いを調べ上げたエフ博士には降臨術を成功させる確固たる自信があった。
やがて床に描かれた複雑怪奇な魔法陣が輝き始め、空中の一点が奇妙に歪んだと思いきや、部屋の調度品が一斉に浮かんだ。蝋燭の火は安普請の天井を焼かんとするほどに激しく燃え盛っている。エフ博士は次々に起こる怪現象に負けじと祈りの声を張り上げる。目もくらむような光がほとばしった。
エフ博士が祈りのために伏せていた頭を上げると、そこには背中にきらびやかに輝く白羽を持った美しい女性が静かに座っていた。古文書の図版で見た通りの天使が静かに微笑を浮かべながら鎮座している様子にエフ博士は密かに満足していた。
「賢き人よ。私は神より遣わされた使者です。あなたのことは天からずっと見てきました。さあ、望みを聞かせてください」
エフ博士は乾いた唇を舌で湿らすと額ずきながら悲願を口にした。ここから先はエフ博士といえども予想はできなかった。
「ああ、天使さま。どうかわたしの寿命を延ばしてください。わたしは多くの人々を救ってきましたが、ついに生きるということの素晴らしさを知ることができませんでした。神の心は寛大だと聞き及んでおります。今一度の機会をわたしに恵んでください。わたしは昨日の収穫より多くの実を摘んでみせます」
エフ博士は自身の願いが神の不興を買うかもしれないことを承知していた。言葉を選びながらいかにして天使を欺くことができるか――それが問題だった。
「わかりました。神はあなたのために特別な葡萄酒を用意してくださいました。さあ、賢き人よ。受け取りなさい。」
エフ博士は震える手で天使が懐から取り出した一本の葡萄酒を受け取った。瓶には古紙が糊で貼り付けてある。書かれている文字はヘブライ語であったが、古今東西の文字を解するエフ博士には難なく読むことができた。
『キリストの血 製造年月日 三〇年四月』
エフ博士は思わずうめき声を漏らしてしまった。老人は全くの下戸である上にひどい不潔恐怖症である。神の子の血といえども得体の知れないものを口にすることはできなかった。しどろもどろしているエフ博士に対して天使は微笑みながら静かに言った。
「賢き人よ。あなたの信仰心が確かなら、その葡萄酒を飲みなさい。さあ、私はいつまでも待ちますよ……」
(了)




