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ヒロイズム教本  作者: 胤田 一成
15/20

容疑者・楠木悪平太による日記の抜粋

 ()()いた辞書によると悪の一字(いちじ)には「猛々(たけだけ)しく強いさま」と(しる)されている。「(あく)に強いは(ぜん)にも強い」という言葉があるように(あく)は必ずしも不道徳を表す一字(いちじ)ではない。

 悪平太(あくへいた)という俺の名前もそういった経緯(けいい)辿(たど)って命名されたのだろう。名付け親である祖父は非常な歴史狂(れきしきょう)であったし、何より莫大(ばくだい)な財産を一世(いっせい)(きず)()げた古強者(ふるつわもの)でもあった。(あく)一字(いちじ)()()わせることに両親は一応(いちおう)の反対をしたようであるが、祖父の(かたく)ななまでの拘泥(こだわり)の前には無力であった。

 この一風(いっぷう)()わった名前のせいでずいぶんと苦労もしてきた。どこへ行っても不良扱いされ、人格破綻者の烙印(らくいん)を押されてしまう。自分には罪はなく、(いた)って普通の子どもなのだ、と主張していた時期もあるにはあったが、今となってはまことに馬鹿馬鹿(ばかばか)しいまでの徒労(とろう)でしかなかったと思う。

 中学生のころに体育科教師に因縁(いんねん)()けられたときはさすがに頭に血が上り、ガンを飛ばされたことをきっかけに鼻を食いちぎってやった。うずくまる教師の股間(こかん)()()げて、廊下(ろうか)に伏してもんどりうっている(あいだ)に、顔面を滅茶苦茶(めちゃくちゃ)()()してやったとき、ようやく自分の宿命(しゅくめい)(さと)った気がした。(あく)背負(せお)った者として生きる覚悟(かくご)を決めたのだ。

 この暴行事件は祖父が教育委員会やらなんやらに手を回し、大事(だいじ)には(いた)らないように尽力(じんりょく)したらしいが、どうでもいいことだ。(こと)()()げれば祖父の責任でもあるのだから、当然(とうぜん)(むく)いであるとすら思っている。素行(そこう)(わる)さには(みが)きがかかり、名前に相応(ふさわ)しい人間であろうと(つと)め、当時は読書にもそれなりに(はげ)んだ記憶がある。

 喜子(よしこ)出逢(であ)ったのは高等学校に進学して()もないころだった。彼女は生来(せいらい)悪女(あくじょ)であり、そこから学ぶところも多かった。生まれ持った美貌(びぼう)()かし、数々の男を(もてあそ)んでは、金をむしり取って切り捨てる。小動物を麻袋(あさぶくろ)に入れて、(つか)()断末魔(だんまつま)を楽しむために、延々(えんえん)と金属バットで殴り続ける。彼女の悪行(あくぎょう)を数え上げたら枚挙(まいきょ)(いとま)がない。

 俺は名前に相応(ふさわ)しい人間になるために喜子(よしこ)に近づいた。俺達が交際するようになるまで、さしたる時間はかからなかった。喜子(よしこ)美貌(びぼう)見合(みあ)うだけの(ととの)った容姿(ようし)が俺にはあったからだ。今さら両親に対して何の感慨(かんがい)もないが、美しい面立(おもだ)ちを与えてくれたことだけは感謝している。喜子(よしこ)は俺の恋人であり、悪の道の(せん)(だつ)でもあった。

 喜子(よしこ)兇悪性(きょうあくせい)先天的(せんてんてき)なものであり、とても真似(まね)できるものばかりではなかった。次第(しだい)に過激化していく彼女を(かたわ)らで見ていて、(あらた)めて(あく)について考えを(めぐ)らせるようになったのも、ひとえに悪平太(あくへいた)という名前につきづきしい人間でありたいと思っていたからである。

 そのためにもずいぶんと多くの書籍(しょせき)紐解(ひもと)いたが、(あく)の裏側には必ず(ぜん)があり、(ぜん)の裏側には必ず(あく)(ひか)えていることをやがて(さと)るようになった。性善説(せいぜんせつ)を信じているわけでは決してないが、不倫(ふりん)不道徳(ふどうとく)の後ろには、倫理(りんり)道徳(どうとく)が前提として腰を下ろしているのだ。

 俺が少なからず混乱した。もはや何を目指せば良いのか皆目(かいもく)見当(けんとう)もつかない。波間(なみま)に揺られて、視界はぐるぐると目まぐるしいまでに回っているような感覚すら(いだ)く。(あく)(ぜん)ありきの存在なのだ。それならば、悪平太(あくへいた)という名前を負い、それに苦悩し、相応(そうおう)の努力をしてきた道程(みちのり)は何であったというのだろうか。切り立つ(がけ)(ふち)にたたずみ、前にも後ろにも行けず、(まど)うばかりである。

 喜子(よしこ)悪女(あくじょ)ぶりは(とし)()うごとに洗練されていく。自身の肉体を売り、非合法の薬を打ち、肉と欲に塗れた泥のような日々を送っている。彼女は俺のように(つと)めて(あく)であろうとしたためしはない。その徹底(てってい)した悪意(あくい)はすさまじいとすら感じるほどである。

 ただ、最近は喜子(よしこ)という存在が徐々(じょじょ)に(うと)ましく、(ねた)ましくなってきた。彼女は決して俺のように(ぜん)(あく)狭間(はざま)懊悩(おうのう)することはない。今や、俺の中で喜子(よしこ)という存在は大きな障壁(しょうへき)となりつつある。自身の信念を貫き通すためにも、自身の()(かた)(あらた)めるためにも、俺は喜子(よしこ)という壁を乗り越えなければならない。彼女は(はば)(もの)であり、(すす)むにも退(しりぞ)くにも彼女との決別は必至(ひっし)なのだろう。

 遠くないうちに俺は(おのれ)矜持(きょうじ)に従って彼女を殺すことになるだろう。(ささや)(ごえ)が聞こえるのだ。それは日毎(ひごと)に大きくなり、今となっては内から破裂(はれつ)しそうなほどに緊張(きんちょう)している。もはや何を信じれば良いのか分からない。背中を焼くような焦燥感(しょうそうかん)だけが俺を急き立てる。

 恋人であり、悪業(あくごう)()でもあった一人の女を殺す。それがこの世に(ぜん)をもたらすのか、己の(あく)を貫き通すことになるのかは分からない。ただ、俺は悪平太(あくへいた)という名前を背負(せお)って残された生涯(しょうがい)を歩むほかに仕様(しよう)がないのだ。


 (了)

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