天井裏の子
富士山麓の写真を撮るために足が棒になるまで山間の道を歩き廻った。とっぷりと日が暮れてから辿り着いた民宿は、都会では滅多に見られないほどの古屋敷だった。取材のついでにいくらかの写真を撮らせてもらった後に、時計を見てみると長針はてっぺんを超えていた。
カメラに保存された風景写真を整理する必要があったが、明日になってからでも遅くはない。取材旅行の総括は翌朝にすることにして、宿の主人が用意してくれた布団にとりあえず横たわった。
糊のきいたシーツに身体の熱が染み入っていく心地良さを味わいながら、天井を仰いだ。木枠の組まれた天井を見るのは久しぶりだった。
――親父が死んでからどれくらいが経ったのかな――
竿縁天井を眺めているうちに死んだ父親のことを思い出した。父親を亡くしてからずいぶんと月日が流れているにも関わらず、こうして天井の木目を見詰めていると妙にゆかしく感じられる。しばらく考えた後に突如として、その理由に思い至った。
――むかし、こんな天井の家に住んでいたことがあったなあ――
転勤の多かった父親に連れられて土地を転々(てんてん)としながら暮らしていた時期がある。小学校に入学するころには止んだが、中にはずいぶんと鄙びた土地で過ごしていたこともあったはずだ。霧がかかって判然としないが、梁の組まれた天井の古民家で寝食していた記憶を取り戻した。
「それはきっとテンツルシの仕業だなあ」
昼間でも隅に影を残す木組みの天井が、何とはなしに恐ろしかった。板一枚を隔てた向こうには、知らない世界がぽっかりと口を開けているような気がしてならなかった。
今にも向こうの側の世界から異形のものが顔を覗かせるのではないか。そういった妄想は際限なく広がっていくものだ。
ある眠れない夜に喉の渇きを覚えて台所に行くと、仕事から帰って来た父親と鉢合わせしたことがある。
昔気質で厳格だった父親に夜遅くまで起きていたことが露見して、叱責されるものとばかり思っていた。だから、思いがけず、眠れない理由を優しく訊ねられた時は驚いた。
「それはきっとテンツルシの仕業に違いない。テンツルシはこの辺に住む妖怪でな。恐れることはないんだよ。悪さをするものではないからね。ただ、知って欲しいだけなんだよ。そして、人間のお前と遊びたいだけなんだよ。俺も幼いころに一度だけテンツルシと会ったことがある。可愛らしい童の姿をしていたよ。何一つ恐れることはないんだ」
朴念仁の父らしくないユニークな話だった。怯える我が子を慰めようと話したつもりだったのだろう。すると、父は父なりに子との接し方について考えるところがあったということになりそうだ。
――無関心だったわけではないんだ――
いつも黙然としていて、何を考えているのか分からない人だったが、失ってみてからようやく気が付くこともある。テンツルシは不器用な父親の優しさの現れだったのかもしれない。
――親父はテンツルシと出会ったと言っていたが、あれは本気だったのかな――
父は嘘をつけるような人柄ではなかったと記憶している。咄嗟に思いついた冗談にしては出来が良すぎている。「テンツルシ」はおそらく、「天吊るし」と書くのだろう。実際に存在する話なのだろうか。謎は深まるばかりだ。
――今なら素直に親父に訊ねられそうなのになあ――
途端に父親が恋しくなった。働きづめの人生だったに違いない。孝行をする間もなく父は脳溢血で逝ってしまった。膝をつき合わせて酒を酌み交わすぐらいの暇はつくれたはずなのにしなかった。後悔ばかりが思い浮かんでは消えていく。
天井裏の妖怪は幼い父の前に姿を現したのだろうか。天井の木目を眺めながら、どうか真実であって欲しいと願った。
父にも子どもであった時があり、それは楽しく幸せな思い出に満ちたものであって欲しかった。今となっては、そう願うことぐらいしか父のためにしてやれることはなかった。
父との間に結ばれた紐帯はか細く、頼りないものだった。僕はその糸の端を強く手に握り締めて祈っていた。そんなことに思いを馳せている間に一滴の涙が頬を伝って枕を濡らした。
父親との合間に交わされた、ささやかな思い出に浸りながら、沈むように深い眠りに落ちていく。意識の糸が途切れる直前に、コロリコロリという鈴を転がすような童の笑い声を聞いた気がした。
(了)




