夜半の虫取り
「お父さん、とうとう倒れたわ」
親父が脳溢血で倒れたという報せは、仕事を終えて家路につこうと支度をしている最中にもたらされた。
動揺はしなかったつもりである。親父の歳を省みる度に、いつ倒れてもおかしくはない気がしていたからだ。電話越しに聞こえる母の声も落ち着いていた。
「こんな時間だけれど、あんたも来なさい。お母さん、先に病院で待ってるから」
病院には一人で行くことにした。妻は自分も一緒に行くと言い張ったが、今年で三歳になる息子を家に置いていくわけにもいかなかった。心の隅では親父ならきっと恢復してみせるだろうという根拠のない信頼もあった。大事から目を逸らしていたのは僕の方であったに違いない。
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白く角張ったベッドに一人のみすぼらしい老人が横たわっていた。それが病床に臥せる自分の父親の姿なのだと受け容れるのにはしばらくの時間を要した。認めがたい現実を叩きつけられ、僕は呆然と立ち尽くすほかなかった。母だけが昏々(こんこん)と眠り続ける病人のためにかいがいしく働いていた。
油蝉の声が病室の窓を打つ深夜。管に繋がれた親父の顔に刻まれた皺を数えながら、僕はぼんやりと幼い頃の思い出を辿っていた。夜半に響く蝉の声が遠い記憶を呼び覚ましたのだろう。
親父は町で小さな居酒屋を営んでいた。経営が火の車だったのか、単純に商いが好きだったのかは定かではないが、とにかく親父はよく働いた。夜が白むまで暖簾を下ろさないの常であったが、それでも夜中に何の前触れもなく、ひょっこりと家に戻ってくることがあった。すれ違いがちな親子の関係を正そうと親父なりに気を使っていたのかもしれない。
「おい、坊主。起きろ。虫取りに行くぞ」
夏になると酒とタバコの臭いを漂わせながら親父はそう言って、幼い僕を揺り起こしては深夜の虫取りに連れ出した。仕事熱心な父親を持ったがために滅多に遠出することを知らなかった僕は、胸を躍らせながら自転車の荷台に飛び乗ったものである。親父が馬鹿みたいにペダルを強く踏むものだから、小さい僕は振り落とされないようにするので精いっぱいだった。
油蝉の喝采を浴びながら闇夜を駆け巡った遠い記憶に包まれつつ、僕は皺深くなった親父の顔を静かに見守っていた。
「……ミツ」
底知れぬ深い眠りについていた老父の唇が微かに動いたのを僕は見逃さなかった。不明瞭ではあるが《ミツ》とつぶやいたような気がした。なぜその二字が青ざめた唇から洩れ出でたのかは分からないが、これが父の遺す最期の言葉かもしれないと思うと寂しくて堪らなかった。母が医者を連れてきたときには老父はすでに意識を手放し、再び深い眠りへと戻っていってしまっていた。
※
病人の意識が恢復しないため、一度家に帰ることを勧められた。職場から着の身着のまま病院に駆けつけたため、足取りは鉛のように重かった。死の瀬戸際で親父は何を伝えたかったのだろうか。家路を辿っている間も親父のうわ言が耳を離れることはなかった。
「お疲れさま。大変だったわね」
妻が玄関で迎えてくれたのは有難かった。靴を脱ぐのも億劫なほど疲れ果てていたが、相変わらず頭の隅には親父が渇いた唇で囁いた《ミツ》の二文字が激しく明滅していた。その言葉の意味を見出せないまま父を見送りたくはなかった。もしそれが、最期の力を振り絞ってまでして伝えたかった言葉であるのなら、なおさらのことである。なんだか無性に寂しくなった。
妻に見守られながら子供部屋の襖を引くと、小さな布団の中に幼い息子がいた。汗ばんだ前髪を指で払ってやると、嫌がるように寝返りを打ち、僕の腕から離れてしまう。突如、狂おしいまでの愛おしさが腹の底から湧き出でて、抑えきれなくなった。
「おい、起きろ。虫取りに行くぞ」
気が付いたときには、安らかに寝息を立てる息子を激しく揺さぶっていた。幼子が眠い目を擦りながら父親である僕を不思議そうに見上げている。射抜くような熱い眼差しを一身に浴びているうちに、一つの考えが脳裏を掠めた。
もしかしたら、親父はあのとき、夜更けの山林を駆け回った遠い記憶を夢見ていたのではないだろうか。《ミツ》とは《蜜》のことであり、微かに意識を取り戻した際に、思わず夢の続きを口にしたのかもしれない。僕はそう思いたかった。
窓越しに響き渡る油蝉の声が、僕に幼き日の思い出を呼び覚ましたように、親父もまた我が子との邂逅を夢のうちに果たしていたのだとしたら、これほど幸福な夜はないだろう。
(了)




