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ヒロイズム教本  作者: 胤田 一成
12/20

夜半の虫取り

「お父さん、とうとう倒れたわ」

 親父が脳溢血(のういっけつ)で倒れたという(しら)せは、仕事を終えて家路(いえじ)につこうと支度(したく)をしている最中(さなか)にもたらされた。

 動揺はしなかったつもりである。親父の歳を(かえり)みる(たび)に、いつ倒れてもおかしくはない気がしていたからだ。電話(でんわ)()しに聞こえる母の声も落ち着いていた。

「こんな時間だけれど、あんたも来なさい。お母さん、先に病院で待ってるから」

 病院には一人で行くことにした。妻は自分も一緒に行くと言い張ったが、今年で三歳になる息子を家に置いていくわけにもいかなかった。心の(すみ)では親父ならきっと恢復(かいふく)してみせるだろうという根拠(こんきょ)のない信頼(しんらい)もあった。大事(だいじ)から()()らしていたのは僕の方であったに違いない。

 ※

 白く角張(かくば)ったベッドに一人のみすぼらしい老人が横たわっていた。それが病床(びょうしょう)()せる自分の父親の姿なのだと()()れるのにはしばらくの時間を(よう)した。認めがたい現実を叩きつけられ、僕は呆然(ぼうぜん)()()くすほかなかった。母だけが昏々(こんこん)と眠り続ける病人のためにかいがいしく働いていた。

 油蝉(あぶらぜみ)の声が病室の窓を打つ深夜。(くだ)(つな)がれた親父の顔に刻まれた(しわ)を数えながら、僕はぼんやりと(おさな)い頃の思い出を辿(たど)っていた。夜半(やはん)に響く蝉の声が遠い記憶を呼び覚ましたのだろう。

 親父は町で小さな居酒屋(いざかや)(いとな)んでいた。経営が()(くるま)だったのか、単純に(あきな)いが好きだったのかは(さだ)かではないが、とにかく親父はよく働いた。夜が(しら)むまで暖簾(のれん)()ろさないの常であったが、それでも夜中に何の前触(まえぶ)れもなく、ひょっこりと家に戻ってくることがあった。すれ違いがちな親子の関係を正そうと親父なりに気を使っていたのかもしれない。

「おい、坊主(ぼうず)。起きろ。虫取りに行くぞ」

 夏になると酒とタバコの臭いを漂わせながら親父はそう言って、(おさな)い僕を揺り起こしては深夜の虫取りに連れ出した。仕事熱心な父親を持ったがために滅多に遠出することを知らなかった僕は、(むね)(おど)らせながら自転車の荷台(にだい)に飛び乗ったものである。親父が馬鹿みたいにペダルを強く踏むものだから、小さい僕は振り落とされないようにするので精いっぱいだった。

 油蝉(あぶらぜみ)喝采(かっさい)()びながら闇夜(やみよ)()(めぐ)った遠い記憶に包まれつつ、僕は(しわ)(ぶか)くなった親父の顔を静かに見守(みまも)っていた。

「……ミツ」

 底知れぬ深い眠りについていた老父の(くちびる)(かす)かに動いたのを僕は見逃さなかった。不明瞭ではあるが《ミツ》とつぶやいたような気がした。なぜその二字が青ざめた(くちびる)から()()でたのかは分からないが、これが父の(のこ)最期(さいご)言葉(ことば)かもしれないと思うと寂しくて(たま)らなかった。母が医者を連れてきたときには老父はすでに意識を手放し、再び深い眠りへと戻っていってしまっていた。

 ※

 病人の意識が恢復(かいふく)しないため、一度家に帰ることを(すす)められた。職場から()()()のまま病院に駆けつけたため、足取りは(なまり)のように重かった。死の瀬戸際(せとぎわ)で親父は何を伝えたかったのだろうか。家路(いえじ)辿(たど)っている間も親父のうわ言が耳を離れることはなかった。

「お疲れさま。大変だったわね」

 妻が玄関で迎えてくれたのは有難(ありがた)かった。靴を脱ぐのも億劫(おっくう)なほど疲れ果てていたが、相変わらず頭の隅には親父が渇いた(くちびる)(ささや)いた《ミツ》の二文字が激しく明滅(めいめつ)していた。その言葉の意味を見出(みいだ)せないまま父を見送りたくはなかった。もしそれが、最期(さいご)の力を()(しぼ)ってまでして伝えたかった言葉であるのなら、なおさらのことである。なんだか無性(むしょう)に寂しくなった。

 妻に見守(みまも)られながら子供部屋の(ふすま)を引くと、小さな布団(ふとん)の中に(おさな)い息子がいた。汗ばんだ前髪を指で払ってやると、嫌がるように寝返(ねがえ)りを打ち、僕の腕から離れてしまう。突如(とつじょ)(くる)おしいまでの(いと)おしさが腹の底から()()でて、抑えきれなくなった。

「おい、起きろ。虫取りに行くぞ」

 気が付いたときには、安らかに寝息を立てる息子を激しく揺さぶっていた。幼子(おさなご)が眠い目を(こす)りながら父親である僕を不思議そうに見上げている。射抜(いぬ)くような熱い眼差(まなざ)しを一身(いっしん)()びているうちに、一つの考えが脳裏(のうり)(かす)めた。

 もしかしたら、親父はあのとき、夜更(よふ)けの山林を駆け回った遠い記憶を夢見ていたのではないだろうか。《ミツ》とは《(みつ)》のことであり、微かに意識を取り戻した際に、思わず夢の続きを口にしたのかもしれない。僕はそう思いたかった。

 窓越しに響き渡る油蝉(あぶらぜみ)の声が、僕に(おさな)き日の思い出を呼び覚ましたように、親父もまた我が子との邂逅(かいこう)を夢のうちに()たしていたのだとしたら、これほど幸福な夜はないだろう。



(了)

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