モグラの集会
「モグラ」と呼ばれていた時期がある。
僕の両親は町で小さな居酒屋を営んでいた。日が暮れると彼らは商いに出て、翌日の明け方まで家に帰ってくることはなかった。するとそれをいいことに、いつからか深夜になるとどこからともなく子ども達が集まってくる。アルバイト帰りの者、塾帰りの者、家族と不和を抱えている者。僕の家の戸を叩く連中は多かったが、その誰もが日の下での暮らしに鬱憤を抱き、またその捌け口を見出せぬまま、ふらふらと居場所を求めてさまよう、か弱く、哀れな者達であることは共通していた。
誰が提案したのか、記憶は定かではないが、いつからか僕達は自身のことを「モグラ」と称するようになった。陽の光を嫌っては地中に蠢く、奇怪で脆弱な生き物の呼称が実にしっくりと馴染むような気がしたのである。毎晩のように我が家ではモグラ達が集い、ささやかな宴を催すようになった。
「トランプをしようぜ」
「またかぁ。他にやることもないし、やるか」
僕達は酒もタバコもやらなかった。手を伸ばせば届き、いつでも堕落できる環境にありながら、誰もそういった悪行に関心を示さなかったのは不思議でもある。おそらく、「これ以上、落ちこぼれたくない」という意識が不文律となり、無法の中に法をもたらしていたのだろう。酒やタバコの代わりに、僕達が夢中になったものはトランプであった。
貧しい家庭であったとはいえ、我が家にもトランプぐらいなら置いてあった。だが、我が家を訪ねる連中は自身が持ち込んだトランプを好んで使いたがる傾向があった。まるでそれを持っていることがこの家を訪ねる資格ででもあるかのような風潮すらあった。彼らの薄っぺらな学生カバンの内には、教科書が忘れられることはあっても、トランプは忘れられることは、まずなかったといってもいい。中には僕の家の戸を叩いておきながら、それを怠ってしまったことに気づき、そのまま踵を返して帰ってしまう者もいたほどである。
「トランプ、忘れちまった。やることもあるし、今日は帰るよ」
そう言って街灯の乏しい光に照らされながら、暗い帰路を辿る者の後ろ姿はもの寂しく、子どもながらに哀愁を感じさせられるものであった。
陰気な宴ではあったものの、僕達はそこに喜びを見出していたのは確かである。傷の舐め合いと言い切ってしまったら終わりではあるが、訪れれば自身と同じような苦悩や葛藤を抱えている友人がいて、誰に気づかうこともなく気ままな振る舞いが許されている空間はこの上なく優しいものであった。僕の家は日陰者らの憩いの場であった。しかし、モグラ達の宴も直に幕を下ろすことになる。
高校三年生の秋、我が家は破産した。両親が居酒屋の経営に行き詰っていたのは知っていたが、終わりはあまりにも呆気ないものであった。多くのものを失うことになった。モグラ達の集会所も手放す結果となった。
「今晩中に荷造りを済ませないと。大きなもの以外は全部捨てなさい。朝になってご近所さんの噂になるのだけは嫌だから」
身を削るような痛々(いたいた)しい宿替えであった。悲しむ暇も与えられないまま、思い出の品は次々と処分されていく。何事にも穏やかで、どちらかといえば優柔不断な性格をしていた母もこの時ばかりは鬼気迫る勢いがあった。
夜遅くまでひたすら荷造りを行なった。両親は近所の目を憚り、一晩の内にどうしても宿替えの始末をつけたかったようであった。
しかし、一家が数十年かけて積み上げてきた膨大な量の家具や日用品の山は、容易に片づけられるものでないのは当たり前であった。
時計の長針が頂きを指すころには精も魂も尽き果てていた。夜明けまでに荷をまとめられるかどうか、いよいよ不安になってきた時分のことである。一匹のモグラが我が家の戸を叩いた。
「お世話になりました。引っ越しの手伝いに来たんですけど、やっぱり迷惑でしたか」
モグラなりの恩返しのつもりであったに違いないが、僕の両親は彼を歓迎しなかった。息子の友達に夜逃げの片棒を担がせるわけにはいかない、という名目の裏には明らかな羞恥と屈辱があったのは言うまでもない。
「少しでも力になりたかったなぁ。楽しい思いをさせてくれたからね。これは餞別」
そういってモグラは僕の掌を握って、傷だらけになったトランプを僕に手渡すと、肩を落としながら暗い夜道を辿り、去って行ってしまった。僕は彼の姿がすっかり闇に溶けてしまうまで見送ると、託されたトランプを誰からも奪われないようポケットにしまった。
あれからずいぶんと長い月日が経った。眠れぬ夜、僕は時折あの晩のことを思い出す。そして深夜になると、傷だらけのトランプをバッグから取り出しては、ソリティアを嗜むのだ。遠いモグラ達の囁きに耳をすませながら。
(了)




