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ヒロイズム教本  作者: 胤田 一成
10/20

籠められた思い

 寒々(さむざむ)とした部屋にくしゃみが響いた。積もった(ほこり)が隙間風に(いざな)われて小さな渦を巻いて宙を舞っている。

 ――これも一つの不孝のうちだよな――

 父親にはあまり良い記憶がない。中学二年生のころに母が急逝(きゅうせい)してから(のち)、父は人柄(ひとがら)が変わったように思える。親子の交流は失われ、仕事にもいい加減に取り組むようになった。父は街で小さな居酒屋(いざかや)を営んでいたが、それまで毎晩、律儀(りちぎ)にも提灯(ちょうちん)に火を(とも)していたはずが次第(しだい)間遠(まどお)になっていった。

 高校受験を機に叔母の家に移り住んでからはますます父と疎遠(そえん)になった。子どもができなかった叔母夫妻はずいぶんと優しくしてくれたが、父の話となると一様(いちよう)渋面(じゅうめん)して口を(つぐ)んでしまうのが常であった。

 高等学校を卒業すると大学には進まずに働きに出ることにした。いつまでも叔母夫妻の厄介(やっかい)になることが申し訳なかったのだ。職を転々(てんてん)としながらも四、五年は何事もなく平穏(へいおん)な日々が続いた。しかし、不幸はいつだって背後から突如(とつじょ)として現れるものである。

「お父さんが亡くなったわ。それで、税務署(ぜいむしょ)の方がいらっしゃっててね」

 父の訃報(ふほう)は叔母によってもたらされた。父が(のこ)していったものはあばら屋と成り果てた生家と山のように()まった負債(ふさい)だった。しばらくは法律事務所と裁判所を行き交う日が続いた。なんとか債務整理に目処(めど)がついたころには(せい)(こん)も尽き果てていた。

「生まれ育った家が人の手に渡る前に見納めに行った方がいいわ」

 幽霊屋敷のようになってしまった生家を訪れる気になったのは叔母の(すす)めによるものである。世話になった叔母の忠告を無碍(むげ)にするわけにもいかない。いわば義理を果たすためにも、生家の鍵をもう一度、(ひね)ることにした。

 ――親父は仏間で寝起きしていたのか――

 さんざん苦労は掛けられたが、やはり生前の父親の影を追ってしまう。(まん)(ねん)(どこ)だったのだろう畳の部分が青々としていた。引き取られて(から)になった仏壇が妙に寂しく感じられる。なんだか無性(むしょう)に母が恋しくなった。

 (きびす)(かえ)して仏間を出ようとした途端(とたん)、カタリ、と押し入れの(ふすま)が鳴った。

 金目(かねめ)の物は一切(いっさい)ないが泥棒(どろぼう)が入ったとも限らない。空き家であることをいいことに子どもが遊び場にしているのかもしれない。いずれにせよ、父が母を(した)いながら晩年を過ごしたのだろう場所を(けな)されたようで腹が立った。

「誰かいるなら出てこい」

 怒鳴(どな)ってはみたものの返事はない。しびれを切らせて勢いよく(ふすま)を引いた。

 夕闇も色濃い空間の奥に、(くち)(おお)いのされた(つぼ)が置かれている。畳に膝をついて手繰(たぐ)()せてみると、存外(ぞんがい)な重さに少し驚いた。

 ―こんなもの(うち)にあったかな―

 釉薬(ゆうやく)が美しく斑紋(はんもん)を映し出している(つぼ)はずいぶん古い物であるらしい。(くち)(おお)いの布は汚点(しみ)が目立つが元は立派な織物(おりもの)だったのだろう。息を吹きかけると(ほこり)(おうぎ)を描いて宙を舞い、夕陽に照らさながら散っていった。

 (くち)(おお)いの布を()いてみたものの、(つぼ)の内にはどんよりとした闇が()めているせいでよく見えない。(さか)さにしてみたが何かが入っている気配もない。

 ――誰かの悪戯(いたずら)かもしれないな――

 ()せた畳の上に(つぼ)を倒して、そのまま自分も横たわった。夕暮れの中で母が存命(ぞんめい)していたころの記憶を辿(たど)ってみようと努めたが、(かすみ)がかかったようで容易(ようい)には思い出せそうにない。

 (まぶた)()ざしているうちに浅い眠りの()(ふね)()いでいたらしい。(かす)かに聞こえるすすり泣くような音に目を覚ました。(かたわ)らに古風な一人の女が(ひざ)(そろ)えて座っていた。

 (あかね)(いろ)の闇に(まぎ)れて()()むような薄紅(うすくれない)の着物に身を包んだ姿は、息を飲むほど美しい。(くちびる)には上品に(べに)が引かれている。艶々(つやつや)とした髪は島田(しまだ)()われ、飾りは(はな)やかに揺れていた。

 女は起き上がろうとする僕を優しく(なだ)めては、(ひざ)(まくら)にしてしきりに寝かせようとする。涙で(うるお)う眼に見下ろされつつも再び床に就いた。

 黒々(くろぐろ)とした瞳からは()()なく涙が(あふ)()し、慈雨(じう)となって顔に降り注ぐ。温かな(しずく)を浴びながら深い安堵(あんど)を覚えた。女の双眸(そうぼう)から(したた)()ちる涙を受けるごとに(なつ)かしい記憶が不思議にも一つ、また一つと(よみがえ)ってきた。

 ――母さんなのかい――

 心の中でそう語りかけると、女は穏やかに微笑(ほほえ)んでみせた。とめどなく(こぼ)()ちる涙を数えているうちに意識は手元を離れ、いつしか安らかな眠りへと落ちていった。

 深い眠りから()めると女は煙のように消えていた。夜は次第(しだい)(しら)み始めて、鳥の(さえず)りが庭を(にぎ)わせている。一陣の風が頬を()ぜた。

 朝日の差す畳の上に(つぼ)が転がっている。(つぼ)の口からは扇状(おうぎじょう)古紙(こし)が広がっている。手に取ってみるとすべて艶書(えんしょ)であった。

 長い歳月を経て()められていた思いが清廉(せいれん)()だまりの中で風に吹かれて(よろこ)びに打ち震えていた。


 (了)


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