籠められた思い
寒々(さむざむ)とした部屋にくしゃみが響いた。積もった埃が隙間風に誘われて小さな渦を巻いて宙を舞っている。
――これも一つの不孝のうちだよな――
父親にはあまり良い記憶がない。中学二年生のころに母が急逝してから後、父は人柄が変わったように思える。親子の交流は失われ、仕事にもいい加減に取り組むようになった。父は街で小さな居酒屋を営んでいたが、それまで毎晩、律儀にも提灯に火を点していたはずが次第に間遠になっていった。
高校受験を機に叔母の家に移り住んでからはますます父と疎遠になった。子どもができなかった叔母夫妻はずいぶんと優しくしてくれたが、父の話となると一様に渋面して口を噤んでしまうのが常であった。
高等学校を卒業すると大学には進まずに働きに出ることにした。いつまでも叔母夫妻の厄介になることが申し訳なかったのだ。職を転々(てんてん)としながらも四、五年は何事もなく平穏な日々が続いた。しかし、不幸はいつだって背後から突如として現れるものである。
「お父さんが亡くなったわ。それで、税務署の方がいらっしゃっててね」
父の訃報は叔母によってもたらされた。父が遺していったものはあばら屋と成り果てた生家と山のように貯まった負債だった。しばらくは法律事務所と裁判所を行き交う日が続いた。なんとか債務整理に目処がついたころには精も根も尽き果てていた。
「生まれ育った家が人の手に渡る前に見納めに行った方がいいわ」
幽霊屋敷のようになってしまった生家を訪れる気になったのは叔母の勧めによるものである。世話になった叔母の忠告を無碍にするわけにもいかない。いわば義理を果たすためにも、生家の鍵をもう一度、捻ることにした。
――親父は仏間で寝起きしていたのか――
さんざん苦労は掛けられたが、やはり生前の父親の影を追ってしまう。万年床だったのだろう畳の部分が青々としていた。引き取られて空になった仏壇が妙に寂しく感じられる。なんだか無性に母が恋しくなった。
踵を返して仏間を出ようとした途端、カタリ、と押し入れの襖が鳴った。
金目の物は一切ないが泥棒が入ったとも限らない。空き家であることをいいことに子どもが遊び場にしているのかもしれない。いずれにせよ、父が母を慕いながら晩年を過ごしたのだろう場所を貶されたようで腹が立った。
「誰かいるなら出てこい」
怒鳴ってはみたものの返事はない。しびれを切らせて勢いよく襖を引いた。
夕闇も色濃い空間の奥に、口覆いのされた壺が置かれている。畳に膝をついて手繰り寄せてみると、存外な重さに少し驚いた。
―こんなもの家にあったかな―
釉薬が美しく斑紋を映し出している壺はずいぶん古い物であるらしい。口覆いの布は汚点が目立つが元は立派な織物だったのだろう。息を吹きかけると埃が扇を描いて宙を舞い、夕陽に照らさながら散っていった。
口覆いの布を解いてみたものの、壺の内にはどんよりとした闇が占めているせいでよく見えない。逆さにしてみたが何かが入っている気配もない。
――誰かの悪戯かもしれないな――
褪せた畳の上に壺を倒して、そのまま自分も横たわった。夕暮れの中で母が存命していたころの記憶を辿ってみようと努めたが、霞がかかったようで容易には思い出せそうにない。
瞼を閉ざしているうちに浅い眠りの瀬で舟を漕いでいたらしい。微かに聞こえるすすり泣くような音に目を覚ました。傍らに古風な一人の女が膝を揃えて座っていた。
茜色の闇に紛れて溶け込むような薄紅の着物に身を包んだ姿は、息を飲むほど美しい。唇には上品に紅が引かれている。艶々(つやつや)とした髪は島田に結われ、飾りは華やかに揺れていた。
女は起き上がろうとする僕を優しく宥めては、膝を枕にしてしきりに寝かせようとする。涙で潤う眼に見下ろされつつも再び床に就いた。
黒々(くろぐろ)とした瞳からは絶え間なく涙が溢れ出し、慈雨となって顔に降り注ぐ。温かな雫を浴びながら深い安堵を覚えた。女の双眸から滴り落ちる涙を受けるごとに懐かしい記憶が不思議にも一つ、また一つと蘇ってきた。
――母さんなのかい――
心の中でそう語りかけると、女は穏やかに微笑んでみせた。とめどなく零れ落ちる涙を数えているうちに意識は手元を離れ、いつしか安らかな眠りへと落ちていった。
深い眠りから醒めると女は煙のように消えていた。夜は次第に白み始めて、鳥の囀りが庭を賑わせている。一陣の風が頬を撫ぜた。
朝日の差す畳の上に壺が転がっている。壺の口からは扇状に古紙が広がっている。手に取ってみるとすべて艶書であった。
長い歳月を経て籠められていた思いが清廉な陽だまりの中で風に吹かれて悦びに打ち震えていた。
(了)




