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ヒロイズム教本  作者: 胤田 一成
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葡萄酒の記憶

 葡萄酒(ぶどうしゅ)には良い記憶がない。

葡萄酒(ぶどうしゅ)」と聞いて私がまず、思い出すのは母親の姿である。キッチンの前に椅子を()えて、()えた腰を下ろし、なみなみと葡萄酒(ぶどうしゅ)の注がれたコップを片手に、シンクに(ひじ)をついて物思いに(ふけ)る、その姿は「カラヴァッジオのバッカス」そのものである。ローマ神話に度々、登場するバッカスと同じくして彼女は酒を愛したが、皮肉なことに必ずしも酒は彼女を愛さなかった。

 葡萄酒(ぶどうしゅ)の酔いが脳髄(のうずい)(しび)れさせ、意識を(とろ)けさせるころになると、私の母親は誰彼構(だれかれかま)わずと(から)んでは毒を吐き、果てには(おのれ)境遇(きょうぐう)(なげ)かずにはいられないという(くせ)があった。(さけ)()みにも様々あるが、我が家のバッカスは一段と不憫(ふびん)であり、見る者、触れる者には(おの)ずと邪気(じゃき)を吹きかけずにはいられないといった、どうしようもなく陰気なものであった。

 彼女の悪癖(あくへき)を知る者達からはずいぶんと(うと)まれていたようでもある。彼女が参加することの(ゆる)された宴席(えんせき)はいつもキッチンに限られていたし、話し相手といったらアルコールの海が見せる(かす)かに揺らぐ蜃気楼(しんきろう)であった。そう――、我が家のバッカスはひどい酒乱(しゅらん)であった。

 私には二人の兄妹(きょうだい)があったが、そのいずれもが母親の悪癖(あくへき)から逃れるために成人を迎えると早々(そうそう)に家を飛び出していった。何事につけても優柔不断(ゆうじゅうふだん)で、腰の重い私だけがこの酒に()()かれた哀れな母親を見捨てることができず、何となく後ろ髪を引かれる思いで家に(とど)まっていた。だから、三人の兄妹(きょうだい)にうちで一番、母親に近く、またその悪癖(あくへき)の的にされ、良くも悪くも「母親」の姿を知っているのは私ということになりそうである。

 母はひどい酒乱(しゅらん)であり、ずいぶんと暴言も浴びせられたが、私に手を上げたためしは一度としてなかったのは不思議である。壁に向かって(いきどお)るように独り言を()(かえ)すようなことはあっても、そこには決して越えてはならない一線が引かれていたような気さえする。酩酊(めいてい)状態(じょうたい)にあっても彼女は確かに「母親」であろうとしていたのだろう。そこにははっきりとした矜持(きょうじ)があった。では逆に私の方は常に「子」として彼女と対峙(たいじ)していたかと問われると耳が痛いところである。私は他の兄妹(きょうだい)のように母を見捨てるつもりは毛頭(もうとう)なかったが、往々(おうおう)にして「子」という立場を忘れて反抗もした。

 高校三年生の時、私は葡萄酒(ぶどうしゅ)に酔った母を殴ったことがある。初めて両親に暴力を振るった事のせいか、あの晩の記憶は(あざ)やかに思い出すことができる。私はその日、初めて「お前なんて産むんじゃなかった」と母に指をさされて(ののし)られた。(こと)次第(しだい)はさておいて、「子」なら誰しもが一度はそうやって、「親」に(なじ)られるものであることは知っていた。それは一種の〈通過儀礼(イニシエーション)〉のようなものである。しかし、私は酒に酔って呂律(ろれつ)も回っていない母親からそれを宣告されることを(こば)んだ。怒りに鼓動(こどう)が早くなり、顔に血が集まっていくのを感じた。気が付いたときには「そんならお前は母親として失格だ」と叫びながら母親の頭を(こぶし)で思い切り叩いていた。

 眠っていたはずの父が寝室(しんしつ)から駆けて、私と母の間に割って入ってきた。父は寡黙(かもく)な男であり、それまでどんなに妻が酒に走ろうとも一切(いっさい)、口を出してこなかった。そんな二人の様子から、愛情が()わされる(さま)を想像することができなかったし、二人の間の愛はとうに()()っているものだとどこかで確信(かくしん)していた。

 しかし、そうではなかった。父は激昂(げっこう)する私を()きすくめると、何度も何度も私に耳元に口を寄せ、「ごめんな、ごめんな。俺が悪いんだ、全て俺が悪いんだ」と謝り続けていた。父は泣いていた。寡黙(かもく)不器用(ぶきよう)な男であるはずの父親の涙を見て、頭に(のぼ)った血が引いていくのを感じた。私が怒りに(まか)せて(さけ)ぶのを()めると沈黙(ちんもく)(おとず)れた。父は母の身体(からだ)を支えるようにして、寝室(しんしつ)の内へと消えていった。。

 父が母に対して不義(ふぎ)を働いたことがあると知ったのはずいぶんと後になってから知った。思うに、父は父なりに「夫」としての責任を確かに感じていたのであろう。たった一度の浮気ではあるが、もしもそれが妻を酒に走らせる原因であるのなら、父は十字架(じゅうじか)背負(せお)わねばならない身であった。勝手な想像ではあるが、あの晩、父はそれを覚悟し、私や母に対して(こうべ)()れたのであるまいか。

 その後、二人の間にどのような応酬(おうしゅう)があったのかは知らない。しかし、あの晩の母を支える父の姿から、私が到底(とうてい)介入(かいにゅう)することの(ゆる)されない敬虔(けいけん)な愛のようなものが、確かに二人の間に(かよ)っていたように思えてならない。あるいは、かつて愛を誓い合った夫婦である母と父の後ろ姿に私自身がそうあって欲しいと願っているだけなのかもしれない。いずれにせよ、あの時、私は置いてけぼりを食らった「子」の気持ちになったのを妙に鮮明(せんめい)に覚えている。

 

(了)


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