二
ザッザッザ
時に汗や木クズが目に入っては痛がったり、時に刃で自分の指を切ったり、時に木像や彫刻器を床に落としたり、床に傷痕が入っては腹を立てたり、参考にする写真集を開いたり、手を休めたり。
台所へ行き、蛇口をひねってはグラスに注いで飲んで休む、洗面台で頭から水をかぶったり、作業に戻ると、木像と距離を取って正面から、横から、後ろに回って見たり、つかんで下からチェックしたりと、今日は彫刻に付きっきりだ。
――俺は、どれくらいこんなことをしているのだろうか?
窓から入る光が傾いている。彫刻をしている時間、陽が気にならなかった。
ふと、顔がほころんでしまう。
6体ある木像をよく見てみる。
――どれも未完成だ。
出来具合には、さほどバラつきはない。いいことだ。
強いて言えば、今日付っきりだったこの1体だけが、何時間分か進んでいる。
この1体を手本に、体に染みついた感覚と合わせて5体の作業は進めればいい。
5体が1体目に並んだところで、また1体目を彫り進めていく。
ふと、「技術が記憶」というメモに書いてあったことが浮かんだ。
もっとも、元はこういう意味で残したのではないのだろうが、こういう意味だろうということで、
刷新しておくことにした。
もっとも、これもすぐに忘れてしまうのかもしれない。
見通しを立てて納得させていたら、何か言いようのない不安に襲われる。
作業が終わり、確認しているといつもこうだ。
生体リズム・反応だろうか。とっさに、辺りを見回す。
テーブルのペン立てからマジックペンを取る。
――瞬間、携帯が鳴りだす。
メール受信だ。
すぐさま開き確認しようとするが、真っ先に目に入ったのは日付だった。
6/6 今日彫った彫刻に日付を入れることにした。
メールを確認すると、野辺から、迎えに来るということだった。
妙なところでまめな奴だ。俺は野辺が来る間に、切りクズや粉、汗やホコリで汚れた体を洗うことにした。備え付けの簡単なクローゼットから、衣類とタオルを選ぶ。
灯りのスイッチをつけた瞬間、彫刻に目が向かった。
今一度出来栄えを、今日の収穫を確認しておきたかった。
彫刻は何も言わずに、静かにベッドを見つめている。
染みついた汗も、血も、皮膚も乾き、さっきまでの体にこもっていた熱が、急速に冷めていく。
その熱を取り戻すように、俺は熱いシャワーを浴びた。
急に、鍋の中に入ったカボチャのシチューが目に浮かんだ。
(シャワーに入る前に、弱火で温めていた方がよかったか? )
軽く後悔の念に駆られた。
シャワーを浴びるとさっとふき取り、すぐさま着替え、ヒゲを剃り、ドライヤーで乾かす。
その作業をしている最中も、カボチャのシチューで頭がいっぱいだった。
備え付けの鏡で、自分の姿を確認する。
「……これが俺か」
鏡に向かってまゆをひそめたり上げたり、歯を食いしばらせて怒った表情をしたり、目を思いっきり開かせて驚いた表情をしたり、目や唇をめいっぱい細く横に広げて笑う表情をしたり、時に声を出すわけでもなく、適当に鏡の自分に話しかけるように口を開けて動かしてみる。
鏡に額をつけて目いっぱい近づき、目を見る。
洗面台に両手で支え、前屈みの体勢を維持する。
近づき、拡大された目には、更に鏡に映った自分が映っており、その鏡の中の中の目にも自分が映っており、延々と長蛇の列のように自分が映っている。
瞳の周りは黒い淵、微かにボヤけ、瞼には上下びっしりまつ毛が生えているが、1本1本の間には素肌が見える密度だ。時折、離れた所から生えているのもある。
白目には、赤い血管が数本、表面からわずかに浮き上がって見える。
一通り目を見終えると、体の胸部が鏡に納まるまで下がる。
つい今まで見ていた瞳のボヤけ、収縮、伸縮、まつ毛とまつ毛の間隔、白目に浮いた血管が気にならなくなる。
「これが俺か」
独り言を言ったその瞬間、シチューのことを思い出し、俺はユニットバスの電気を消した。
すぐに180度反対方向に体を反転させ、脱力した左手の、大腿部に接する高さの位置に、コンロのスイッチがある。右手のユニットバスのスイッチの高さは、キッチンの照明のひもの高さであり、それを引っ張る。ユニットバスの黄熱電球とは違い、白くてパッとしない蛍光灯がつく。
キッチンの引き戸からおたまを取り、鍋の中を確認する。
カボチャの色と香りはするが、水分が飛んで凝縮した分、癖の強い匂いになっている。
牛肉以外の具材、カボチャは言うまでもなく、タマネギ、ジャガイモ、ニンジンもかろうじてそれとわかるくらい、よく煮込まれている。少し水を足して、沸騰させる。
――頃合いになった。
火を止めて、食器棚から食器を取りに行く。
グツグツと気泡を放ち、湯気とカボチャの匂いが部屋中に蔓延していく。
換気扇は絶えず回転し、湯気を外へ排出している。
気泡が引くまでゆっくり混ぜ、器へ移す。
器のシチューに無造作にスプーンを突っ込み、固定させる。鍋のフタを閉め、彫刻達を汚さないように避け、テーブルへ運ぶ。
一口、スプーンを口へ運ぶ。
……目が醒める旨さだ。
カボチャのほろよい甘みと匂いを、ハーブとスパイスが刺激的に引き出し、牛肉の歯応えもよく、噛むことを反芻させる。ジャガイモの土っぽさ、ニンジンの芯も抜けて癖がない歯触り、繊維状に融解したタマネギが自然な甘味と共にのどを通る。
体に熱が伝導し、指先や足先の、ちょっとした動作も頭に届くような、そんな知覚を開いていく。
あっという間に、胃に流れ込んでいった。
食事を終え、食器を洗い、歯を磨き、一息ついたところでベッドに座る。
6体の木像彫刻の顔を見る。
トーテムポール……教養2年……ゼミ2年……卒業……ベッドに座る自分……目の前にある彫刻を見て、あらゆることが思い出される。