一
……俺は、見知らぬ空間に立っていた。
目の先にコンロがあり、鍋にフタがされている。火はついていない。
何かいい匂いがする。中を開けると、ドロドロに溶けたカボチャの甘い匂いが
食欲をそそる。微かな熱を感じた。
隅では、換気扇が静かに回っている。
――右手は、包丁を握っていた。
柄の曲がり具合が、あまりにもフィットしていた。
目の前には、何も乗っていない月桂樹柄のまな板。
そのどちらも、大学卒業記念に新調したお気に入りだ。
ああ、そうか。俺は片づけをしていたのだ。
戸棚に閉まおうとすると、メモが目に入った。
「技術が記憶。一度覚えたら、衰えはしても、決して忘れない」
……俺の字だ。
何のために書いたのだろうか?
すまん、俺が何か伝えるべく一生懸命残してくれたのだろうが、俺は薄情者だ。
さっぱりわからん。
……何か視線を感じる。
窓側に目を向けると、バストアップに彫られた木像が置いてある。
1,2……6体。
中心にベッドがあり、それを囲むようにして木像が置かれている。
その両脇に、申し訳程度に通れるスペースが確保してある。
窓際一、二畳分くらいのスペースにテーブル、そしてその上にパソコンが乗っている。
窓はベージュの、これまた月桂樹の柄のカーテンで遮断されている。
今は何時で、何日だ?
少しずつ思考がはっきりしてくる。
テーブルの下からは、何やら黒いコードが延びている。
木像を避け、コードをたどりよせる。
携帯電話だ。
開いて、ディスプレイを覗く。
6月6日 午前10時16分
これが、今の時間だった。
ざっざっざ、少しだらしないような、靴の底を引きずるような足音が近づいてくる。
俺の部屋のドアの前で止まる。
新聞の勧誘や、NHKや、電気水道の集金の足音とは違う。
勧誘や徴収は、真っ先に呼び鈴を押し、独り言のようなあいさつを始める。
集金はテキパキと作業を終わらせ、支払い票を置いていく。
真っ先に浮かぶそれらとは違い、俺はこの足音を知っている。
誰の足音か思い出す前に、呼び鈴が鳴った。
「……はい」
「……よう、俺だよ。時間より早く来たけど、ちょっと寄ってもいいか?」
「ああ」
あいつだった。
ドアを開けて確認すると、フレームを作ったあいつと、目の前のこいつが合致する。
「よう、上がれよ」
「スマンね、予定より早く来た。と言っても、これから用があるから、
あいさつだけ来た。夜、また迎えに来るよ」
「夜?」
「飲みだよ、飲み。8時集合って、お前のうちに入るの久しぶりだな~、1年ぶりくらいか?
ってうわ! なんだそれ!? お前、まだそんなことやってたんだな」
野辺は靴も揃えず、視界に入ったそれに向かって進んでいく。
「何が?」
「彫刻だよ。しかもなんだ? 中心にベッド? よくこんなので眠れるな」
――よくこんなので眠れるな。
この言葉で、俺が何を言えばいいのか、急速にネットワークが広がる。
「そういうのがないとさ、眠れないんだよ」
「よくわからんなぁ、そういうの。テレビつけとかないと眠れないとか、
そういうもんか?」
「まあ、そういうところだ」
「カーテン、開けていい?」
「暗かったか?」
「ちょっとな。って言っても、長居はしないけどさ。とりあえず、今日の飲み会に
参加する人の確認だけしようと思ってさ。メールで送ったので間違いないけどさ」
「ああ、これだな」
携帯を開き、画面のメールフォルダからこいつから送られたメールを、ざっと
チェックする。
「お前のことだから、1回見たらそれ以降は確認しないと思ってな。それで来た。
すっぽかしかねないもんな、お前」
「あいにく、興味がないんでな」
「興味なさ過ぎだろ、でも、断りはしないんだな」
「人付き合いだからな、割り切るさ」
「そう、その人付き合い。キャンセル代発生するから、それだけは頼むよ~……で、
今日はだな……」
コイツが説明している間、メールの内容を整理する。
またバイト先やその紹介で美大やら専門学校の飲みサークルみたいな学生たちと、
飲みになるんだろう。
コイツのうきうきした声と同時に、メールの文字を読むのも、めまいがしてきた。
俺を誘う時は気遣いからか妙な遠慮からなのか、男女合同を誘ってくる。
「……とまあ、そんなわけでまた迎えに来るから。今日も楽しく飲もうぜ。
お前は、これからどうするんだ?」
「俺か? 一日中彫刻だ」
「そうか。じゃ、頑張ってな」
用件が済むと、早々に踵を返し、ドアから出て行く。
俺もドアを閉める。
「さてと……」
彫刻器を取る。
彫刻とは、いわば主義や信念や、技術である。しかし、不思議なもので、
そのひたすら長い作業の前ではそれらは希釈化され、ただただ体力を要求する。
そうなると、極限まで体との対話に近づいていく。
ザッザッザ
適当に選んだ一つに向かい、木目に気遣いながらも、荒々しく削ぎ落とす。
CGが世に出始め釘付けになった、あの頃のグラフィックスをなぞるように。
ザッザッザ
手に、痛みが走る。
本来ならもっと大きな彫刻器や、あるいは工具を使用してもいい大きさだ。
しかし、ここはアパートの一室。ハンマー片手に刃を打ち付けたり、
電動工具を使用するのも迷惑になる。
美大に通っていたならばそれらの設備も器具も困らなかったが、あまりの地道な
作業に大半嫌気がさしてくる。
ザッザッザ
彫刻する音が、どこか遠くから聞こえてくる。
疲労で筋肉が痙攣している。のどが渇く。汗が辺りに落ちて行く。
手から流れた汗が、シャツから染み出た汗が接する木像に触れている。
本来なら温度、湿度、通気性の管理に体と接して汚さないよう注意を払うものだが、
これらはもう、誰かに見せるための、展示するための作品ではない。
汗が染みようと、染みれば染み込んだ分だけ、むしろ俺らしくなる。
そういうことはお構いなしの――
サクッ
勢い余って、指を少し切ってしまった。軌道を変えた刃から、
木材に血が鮮やかに降りかかる。
……調子が出ると、いつもこうだ。
瞬時に、一連の動作と映像が同時に頭で再生される。
こればかりは、染み込んでも俺らしくなるものではない。
俺はそこまで狂人ではない。
拭いて、削って、捨てる。
いったん中断だ。止血して、周りの木クズもほうきで集め、捨てる。
手痛いロスだが、このくらい随分マシだ。
ひどい時は、そのまま前の記憶との繋がりをなくす時もある。
作品を作るとは、果てしなく細長いのに、それとは割に合わないくらい、
いともたやすく、しかも不意に切れてしまう。
一通り処置を施し、ゴミ袋に木クズを入れ、部屋の隅に置く。
ザッザッザ
俺は、作業を再開した。
これはもう、誰かに見せるための作品ではない。
そういうことはお構いなしに、俺が安心して眠るための「装置」だ。
作業中も、作業を終えてからも。