序
――暗闇から、何やら聞こえる。
「……だったなあ、おい?」
「……え?」
気がつくと、隣の席の男が、俺に声をかけてくる。
張ったような野太い声に、クスクスと紙を漁っているような笑い声に辺りは包まれている。
俺に話しかけた男が、上半身を伸ばして俺の顔をうかがっている。
「寝てた? 何? もう酔ってんの?」
――酔ってんの?
この一言で、頭の中のネットワークが急速に広がっていく。
黄色い照明、茶色のテーブルの上に並ぶグラス、中の液体の輝きとははっきりした
グラスの底の影……辺りの光景が次々と目に入り、
俺は反射的に「何を答えればいいか、どう振舞えばいいか」が駆け巡ってくる。
「酔ってないよ。バカ言いなさんな。酒では酔わないっていつも言ってるだろ?
俺を酔わせることができるのは、病気と乗物だけだ」
……一瞬の間が空いて、周りから静かな失笑がする。
「すまない、お前はそんな奴だったよ」
男が呆れた顔をして言った。この男も、だいぶ酔いが回っているツラだ。
――で、と隣の男が話を続けようとした。
「卒業制作の“エンボス”のことだろ?
俺が『グループでエンボスをつくります』って言ったら、教授が驚いた顔してんの。
で、グループでって言ったもんだから、ゼミ生の半分以上が俺も、私も、みたいに
なったのはいいんだけど――」
「そう……それ!」
男は待ってましたと残ったビールを飲み干し、ジョッキをテーブルに置く。
「そしたら……コイツだけグループからハミ出しちゃったんだよ!」
――大きな笑い声があがった。
「違う違う! コイツもな」
俺が男を指さすと、さらに笑い声は大きくなった。
……飲み会の、いつもお決まりの内輪ネタだった。
「つっても、ちゃんと訳はあるんだよなぁ?」
「エンボスの意味を間違えてたってだろ?
俺はてっきり木像や石像とか“彫刻”って意味だと思ってたけど
“プラカード”なんてのもあるって、知らなかったのさ。
みんなで一つ一つ立体を掘って発表の時にフレームに合わせる、
てのを企画したんだが」
「誰も着いてこなくて、俺だけがコイツについたってわけ」
「お前が造ったのはフレームだけだけどな。
発表の時には噛み合わないコイツのヘンテコなフレームを後ろに、
俺の造った立体彫刻が前で、こんなことをやろうと思っていたんです、
おしまい。みたいな」
「その後は、すごい冷めた空気よ。教授陣のひどい品評と質問攻め。
共同制作や芸術そのものを勘違いしているとか、そんなの。
たまに気の毒そうに、彫刻自体の技術力は高いって人もいたっけ、くらい」
「最後なのに、いつ思い出しても地獄の時間だったな」
「問題はその後で、そのグループに企画だけは残ってたんだよな。
個人で作ったプラカードを並べて、パズルにするって。発表の最後がそれ、
俺らの次だったわけ。目の前で繋ぎ合わせるのを見て完成するや、拍手喝采よ。
で、質疑応答の時にコイツが言うんだよな」
「ああ、言ってやったのさ」
「コイツがマイク持った瞬間にさ、みんなハッと気づいたように、
静まったんだよ。『コンセプトが前の組のと一緒だ』って。
それどころか、俺のフレームの形ともそっくりなんだよな。
そんな中でさ、『私達のよりもチームワークも完成度も高いですね』って。
その後の教授のノリもよかったんだよな。
コイツね、そういうのを昔から、デキル子なの。寒暖差が売りなの。
教授らには『そういう寒暖差は寿命が縮むからいらない』って
よく言われてたけど」
……つい数ヶ月前のことなのに、随分と昔のことに感じる。
苦さと、妙な懐かしさに目が細くなる。
その時の一つ一つの情景が目の前に浮かび、ひたすら流し込むだけだったビールが
一層鮮明に感じた。
「その後美術展の展示でさ、おかしなことにそのグループと一緒にされたんだよな」
隣の男が話を続ける。俺も続けた。
「見てるやつらは、え? 何これ? みたいな反応でさ。
なんで何十枚ものエンボスのパズルの隣に、彫刻と変なフレーム立ってんの?
みたいな」
「作品の説明がこれまたウケるんだよな。」
「『二次元のエンボスの集合をやめた3次元の彫刻。
しかし、フレーム無しには語れない。繋ぎ合うフレームを探している』
って、書いたのは俺だけどな」
「って、お前だったんかい!」
ガラスにひびが割れそうな笑い声が響く。
「頼まれたんだよ。一緒にしたいから説明書いてくれって」
「無茶ぶりにもほどがあるだろ」
「そうだろ。それで、ああなったわけ」
「今知ったわ。なんで今まで言わなかったんだよ?」
「あの説明書きました、なんて言えるか。」
「言ってよ」
「ん、ん~! 『二次元のエンボスの集合をやめた』…って二度も言えるか」
「なんで、今ちょっとよさそうに聞こえるように咳払いした?
なんだかんだで気に入ってるんじゃないの?」
「あんなん生涯で一番恥ずかしいわ」
内外の、体のリズムをかき乱すような笑い声。
お決まりのうちわネタのおもしろみのない会話。そのどれもが内心、癪に障る。
黄色い照明。照らされるグラス、ビール瓶、注がれたビール、カクテル、水滴、
木製の小ざっぱりしたテーブル、ラミネート加工されたメニュー……
そのどれもが照明に照らされ、辺りは目が痛くなるばかりの光、光、光……。
話が一段落ついた所で、俺は隠れるように折りたたまれた携帯の液晶ディスプレイを開く。
これまた照明に照らされて見づらい。体で覆い、影に入れるようにして見る。
5月6日 22時16分……何か魔法でも切れたように、俺は今いる隣の男との体験に、
記憶はあっても実感がない。遠い、誰か別の俺がやってきたことのように思える。
「せっかくの席でケータイ見るのはマイナスだぞ」
隣の男が話しかけてくる。
「いや、ちょっと時間を見てただけだよ。
俺はカルーアミルクを飲みたいんだが、お前はビールでいいか?」
「またカルーアかよ。男でカルーア好きってそういないぜ。
見かけによらず甘いの好きだな、お前は」
「甘いのがないと意識が保てないんだよ。カフェオレでもいいんだが」
「カフェオレなんかねえよ。俺たちはそれでいいとして、君達は? 何か飲む?」
体を前の席に向けようと、携帯電話のディスプレイを折りたたむ瞬間
――俺の意識はここで途絶えてしまった。
まだまだこれからだった俺のゴールデンウィークの、ゴールデンタイムはここで閉じた。
言い足りねぇのに、何者かに強制的にシャットダウンされてしまった。
――いつもこうだった。
まだまだこれからだという時に、いつもふいに幕を下ろされる。
なにか、遠くから舌のもつれたような声が聞こえる。
「それでさ、卒業制作が終わってから俺らに声がかかることなんてなくってよ、
それで俺もこいつも、こうやってたまに誘ったりしてぶらぶらしてるってわけ……」
(……ブラブラなんてしてねーよ。
俺は、闘ってんだよ……俺自身と)
暗闇の中で、俺はひっそりと反論した。