第参章 異世界での飲料水の確保
それでは,いよいよ本題.異世界での飲料水の確保についてです.
ガイドラインP86の「表5.1 サービス水準と水使用量」を見ると,不衛生による公衆衛生リスクを低い状況にするためには一人一日当たり平均50Lの水の量が必要とされています.とはいえ,さすがにこのレベルは慣れない異世界でのサバイバル生活では難しいのではと思う方は,水分補給と食事用に必要な最低7.5Lのライン(p85)を目安に水の確保を考えるとよいでしょう.
それでは,これらの量の水をどのように確保するか.結論から言うと,安全な水源から水を取り,きれいな布でろ過して煮沸消毒,基本これでOKです.以下にその理由を書いていきます.
<参の壱 水の安全性とは>
まず水の安全性について説明します.ガイドラインにおいて水の安全性の観点は,微生物学的観点,化学的観点,放射線学的観点の3つが考えられています.その中で最も重要なのは微生物学観点となります(p4).
○ 参の壱ア 化学的観点が重要視されない理由
何故,化学的観点が重要とされていないのか.それは,化学成分に関わる健康上の問題は,長期暴露(暴露:有害物質や病原菌などにさらされること)の結果として健康影響が引き起こされるため,短期的には健康被害が起こるとは考えられにくいためです(p6,p161).もちろん,急性毒性や急性影響を持つ,ヒ素(p330)や銅(p201,p354),水銀(p400),フッ素(p382)そして,人工栄養児のメトヘモグロビン血症の原因となる硝酸イオン・亜硝酸イオン(p27,p409)などの化学物質もありますから,安心するわけにはいきません.特に,フッ素,硝酸イオン,亜硝酸イオン及びヒ素は自然水中で健康影響が最も大きい化学物質とされています(p182).しかし,異世界のように十分な浄水処理を行うことのできない状態では,これらの物質を飲料水から分離することがまず不可能です.そのため,後述する多段バリアの考えで,有害な化学物質からの汚染を防ぐことを第一に考え,汚染されてなさそうな水源を選択する方がいいわけです.それでも,汚染されていたら運が悪かったと思い諦めましょう.なお,1回の暴露が健康被害につながるような場合,すべてではないですが,多くの場合不快な臭味や外観により飲めるような状態になっていません(p6).つまり,受容性(p223)という,五感を使った暴露防止も化学物質については期待できます.
余談になりますが,水の硬度について気にする方もいるかもしれませんので,それについても記載します.ガイドラインでは飲料水中に健康上問題になる濃度では存在しないとして,基準は設けられていません(p387).ただし,受容性の観点で問題となる場合があるでしょう.硬水は加熱すると炭酸カルシウムスケールの沈殿物ができるため(p229),この沈殿物を除去することで水の軟化を行うことができます.硬度が気になる方はこちらの方法を利用するとよいでしょう.
○ 参の壱イ 放射線学的観点が重要視されない理由
放射線学的観点について.飲料水における放射線のリスクは基本的に低く考えられています.それは.飲料水に含まれる放射線核種によりもたらされる被ばく線量は,他の放射線源から受けるものよりもはるかに小さいからです(p207).自然線源からの平均的な放射線量を見てみますと,外部被ばくは宇宙線が0.39mSvで地殻放射線が0.48mSv,内部被ばくは吸入が1.26mSvで摂取が0.29mSvと,飲料による摂取は吸入に比べると低いものとなります(p210).そして,水中のラドンは岩石や土壌を通り過ぎる際に容易に外気に放出されるため,たとえ飲まなくても,ラドンの含まれている水に近づいただけで知らず知らずのうちに呼吸により吸入してしまうわけです.なので,あまり気にしない方がよいでしょう.
○ 参の壱ウ 結論(微生物学的視点が一番重要)
というわけで,化学的観点と放射線学的観点での水の安全性はあまり重要視されず,微生物学的視点が水の安全性を考える上でもっとも重要となるわけです.
しかし,本書では個別の微生物については特に紹介しません.塩素に抵抗力を持つクリプトスポリジウム(p283)や建築物の水供給システム(貯水槽や配水管)内でコロニーを作るレジオネラ菌(p57,p249),日本三大Wikipedia文学の地方病 (日本住血吸虫症)の住血吸虫(p302)など色々紹介しようと思えばできますが,そもそも本書の対象は異世界ですので……紹介するとしたら異世界の微生物ですが,残念ながら異世界の微生物は自分は一つも知らないため,紹介できないのです.ただし,微生物への対策については,共通するところもあるだろうということで,本書では微生物への対処法について書いていきます.
<参の弐 安全な水の作り方>
ここでは,安全な水の作り方を考えていきます.ただし,まず最初に安全な水の確保の上で重要となる多段バリアについて説明します
○ 参の弐ア 多段バリア
多段バリアとは,集水域から消費者までの間の汚染防止及び健康障害のないレベルまでの汚染低減を目的したシステムのことです(p4).主に水道インフラを構築する際の概念で,飲み水の元となる水源,水源の水を飲料可能にする浄水場,そして飲料可能になった水を給水する給水システム,これらのそれぞれのシステムにおいて汚染からの防止及び汚染の低減を行うことで,汚染からの多段のバリアを形成し安全な飲み水の確保をするものです.多段バリアの強みは,一つのバリアが故障しても残りのバリアが機能し続けることで,健康影響のおそれを抑えることができる点です(p53).
そして,多段バリアの考えは水道インフラ運用の話だけでなく,個人の飲み水確保においても,汚染の少ない水源の選択,ろ過等による汚染の除去,汚染からの飲料水の保護といった考えに応用可能です.水源,浄水処理,配水のどの場面でも水は汚染される可能性があることを理解し,飲み水の安全を考えることが重要になるわけです.よって,異世界で個人が安全な水の確保を考える際にも,汚染の少ない水源の選択,そしてろ過等の水の処理といった多段のバリアの考えでもって検討していきます.
○ 参の弐イ 水源の選択
飲料水の元となる水源の選択は非常に重要です.ここで汚染された水を避けることができれば,極端な話,後の水処理過程は必要なくなります.
水源の候補の一つとしては,雨水が挙げられます(p96).雨水は大気から吸収したものを除いて不純物が含まれないため安全な水源と言えます.ただし,その集水や貯水過程で汚染される可能性があります.例えば,集水用のパイプ等を使い水を集める場合,汚染されたパイプ等が途中にあれば,雨水と一緒にそれら汚染物質も流れ込みます.そのため,これらの汚染物質をまずは除去する必要があります.通常,雨水の初期流出時に高濃度の微生物が検出されるため(p97),初期の水は集水過程の洗浄用として割り切り,ある程度流してから水をためると良いでしょう.
その他の水源の確保としては,川などの地表水や湧き水といった地下水が挙げられます.これらの水を使う場合,最大の微生物学的リスクが動物からの糞便汚染とされており(p5),動物の排泄物中の窒素廃棄物から硝酸イオンが作られる危険もあることから(p407),まずは糞便汚染がされていないかを確認する必要があります.地下水は土壌の浸透により微生物や化学物質の除去が期待されるため安全のように思えます.確かに,被圧浸透地下水については微生物的学的,化学的に安定とされています.しかし一方で,浅層地下水や不圧地下水は浸透による汚染があるとして必ずしも安全とは言えません(p54).そして,水銀は鉱物の堆積によって地下水中の濃度が高い場合があり(p399),ヒ素も火山岩に由来する硫化鉱床や硫化沈殿物のある地下水中では濃度が著しくなる可能性があります(p329).また,フッ素も蛍石などのフッ素を含む鉱物が豊富な地域の地下水中において高い濃度で見つかる場合があります(p381).以上のことから,地表水や地下水を水源とする場合,糞便汚染がされていないかの確認,鉱山や火山周辺の水は避けるといった対策をする必要があります.
○ 参の弐ウ 個人で出来る水処理
ガイドラインでは,個人で出来る水の処理方法を「旅行者のための安全な飲料水」(p110)及び「家庭内水処理」(p146)にて説明しています.
「旅行者のための安全な飲料水」では,煮沸消毒,薬品消毒,フィルター(セラミック,膜(おもに逆浸透膜),活性体ブロックフィルター)によるろ過,といった方法が紹介されています.消毒薬やフィルターが異世界で容易に入手できるとは思えないため,検討すべきは煮沸消毒となるでしょう.
また,「家庭内水処理」では,化学的消毒,フィルター(膜,多孔質セラミック,サリー布のような布フィルター,または複合フィルター)によるろ過,粒状ろ材フィルター,太陽光による消毒,ランプを用いた紫外線照射,加熱処理(推奨は煮沸消毒),凝集沈殿(単純な沈殿含む)が紹介されています.消毒薬やいくつかのフィルターは入手困難であるため,検討すべきは,サリー布のような布フィルターによるろ過,粒状ろ材フィルター,太陽光による消毒,加熱処理,凝集沈殿となるでしょう.
以上より,検討すべき個人でできる水処理方法は,①煮沸消毒,②布フィルターろ過,③粒状ろ材フィルター,④太陽光による消毒,⑤凝集沈殿の5つとなります.以下,それぞれについてガイドラインp151の「表7.8 家庭内水処理技術で達成可能な、最近、ウィルスおよび原虫の除去率」にあるそれぞれの処理におけるベースライン除去率を参考に書いていきます.なお,ベースライン除去率とは熟練していない者による実施の際の除去期待値であり(p150),残存率を常用対数にしたものの正負を逆転したものです(例:除去率1の場合,残存率は10%となり90%が除去される).説明の際には,除去率から算出した除去の%を使用して説明していきます.
① 煮沸消毒:細菌99.9999%除去,ウィルス99.9999%除去,原虫99.9999%除去
水を沸騰させるまで熱する方法.微生物に対し高い除去率を発揮する.ただし,芽胞となった細菌は熱による不活性化に耐性を持つため,それらの除去までも目的とする場合,十分な時間と温度を維持する必要とする.とはいえ,基本微生物学的観点が最も重要となる水の安全性において,煮沸消毒は最も有効な水の処理方法である.
② 布フィルターろ過:細菌90%除去,ウィルス0%,原虫0%
布により水をろ過する.当然ながら使用する布は清潔でなければならない.大きな原虫ならば除去できる可能性はあるが,いずれにせよ他の方法に比べ高い除去率ではない.ただし,除去率は高くないものの,水の濁りを除去することは受容性の面から推奨すべき事項であり,比較的容易にできるという利点もある.また,濁度は生物を保護し消毒効果を著しく妨げるため(p232),他の水処理を行う前処理として布によるろ過を行うのは有用である.
③ 粒状ろ材フィルター:細菌90%除去,ウィルス約70%除去,原虫99%除去
砂などの粒上のろ材を用いたろ過.珪藻土,バイオマス及び化石燃料ベース(活性炭,木質炭,石灰質炭,もみ殻炭等)による粒状ろ材フィルターは異世界での入手性が不明であるため,砂を使用したろ過の除去%を記載している.緩速で砂によるろ過をする緩速砂ろ過ではシュムッツデッケと呼ばれる生物膜が表面に形成され,生物処理的効果が期待できる.生物処理の結果,硝酸イオン及び亜硝酸イオンの除去も期待可能(p511).とはいえ,ガイドラインではどの程度の規模でどの程度の時間ろ過させるのか詳しい説明がなく検討材料が少ない.また生物膜の維持のため常時水を供給し続けることも家庭ではない個人レベルでは限界があるため,布フィルター+煮沸消毒にプラスしてこちらの処理を考慮することは現時点では保留する.
④ 太陽光による消毒:細菌99.9%除去,ウィルス99%除去,原虫99%除去
透明度の高い容器さえあれば,紫外線と熱効果により比較的容易に微生物の除去が可能.ただし,ガイドラインでは具体的な時間が記載されていないため,どの程度の時間太陽光に当てるべきなのか等ははっきりしないところが欠点.とはいえ,比較的容易にできるため,布フィルターにより濁度を下げ,その後太陽光消毒をすることは価値があるかもしれない.
⑤ 沈殿:細菌0%,ウィルス0%,原虫0%
微生物等を時間をかけ沈殿させる方法.凝集剤を用いて微生物等を集め沈める凝集沈殿は凝集剤の確保が異世界では難しいため,単純な沈殿の除去%を記載.除去できる%がベースライン除去率に基づくと0%とあり,また沈殿時間も最低でも2日は必要となるため(p149),時間に対する効果の期待値がとても低い.煮沸消毒できず可能な限りリスクを減らしたいなど事情がある場合を除き,行わなくてもよい.
上記以外に,化学的消毒の一つとして,ライムやレモンの柑橘系果汁を用いてのpHを4.5未満にしコレラ菌を不活性化すると言った方法も説明されています(p147).ただし,大量のライムやレモンを用意できるか,味は需要範囲内になるのかという問題点もあり,今回は考慮しませんでした.
また,銀による消毒も紹介はされていましたが(p499-450),現状適正に検証されたデータがなく,リスクについての検討も必要とのことで,こちらも考慮対象から外しました.
以上の処理の内容を検討するに,やはり安全性重視でいくのなら煮沸消毒は欠かせないでしょう.さらに,水の受容性を上げるため,前処理として他の処理と比べ比較的容易にできる布フィルターによるろ過を行い,濁度を下げておくことも,良いかと思います.
よって,安全な水を得るために行う処理は,布フィルターによるろ過,その後の煮沸消毒となります.透明な容器に入れている場合,太陽光による消毒を行えばさらによいでしょう.
○ 参の弐エ 結論(安全な水の作り方)
以上より,異世界において安全な水を得る方法とは,糞便汚染がされていないかの確認,鉱山や火山周辺の水は避けるといった対策をし水源を選択した後,布フィルターでろ過を行い濁度を下げ水の受容性を高め,煮沸消毒で微生物を除去する,となります.