夢の心
夢と現実をシンクロさせて、桃源郷を目指す主人公を描く。
夢が道になる。
道が夢になる。
そんな話しを私は過去ある女性と交わしたことがある。
その記憶も遥か遠い昔の出来事で定かに覚えていないのだが、夢そのものが道に成り、毎日変わればどうなるのか、それがこの物語のテーマとなることは間違いない事実だろう。
一
その女性が夢の迷路を指し示しているのか、夢の迷路がその女性を指し示しているのか私には分からないまま私はこの物語に同期して行くのを感じている。
その道を私が行けば夢となり、閉じた径となるのか開いた径になるのか分からないのも事実だろう。
「貴方の夢が私の夢なのよ」
一人暮らしの女性の部屋らしからぬがらんどうの
部屋で私は女性と会話を交わしている。
「道が毎日変わるのが僕の定めなのか?」
「道が貴方の夢だから変わるのよ」
私は反論した。
「僕は夢で道を歩いているのか、現実で道を歩いているのか、どちらなんだ?」
女性が微笑み答えた。
「貴方の脳はゲームのやり過ぎで、ゲーム脳になってしまったのよ。だから現実なのか夢なんだか私にも分からないのよ」
私は反論を繰り返す。
「ちょっと待ってくれ、慣れ親しんだ道が毎回変わったら気が狂ってしまうではないか?」
女性が再度謎めいた微笑みを湛え答えた。
「狂気は正気で、正気は狂気でしょう、違うかしら?」
「ならば僕は正気だと言いたいのか?」
「当然その通りでしょう、違う?」
二
私は女性の部屋を後にして帰路に着いた〟
大勢の人が行き交う中、右手にガソリンスタンドが見えて来たのに、何故かそのガソリンスタンドにいるはずの店員がいない。
それに妙な違和感を私は感じながら足早にそのガソリンスタンドの傍らを抜けて行った。
そして上空を烏が飛んで行くのを目にした後、私は異変に気がつき、驚愕した。
あるはずの家がないのだ。
私は瞬きを何度もして、目を凝らしたのだが、私の住む家は確かになくなっている〟
強烈な不安感に私は思わずうずくまってしまった。
人は衣食住、家族あって始めて生活が成り立っている、それが失われれば心身共に破綻、死ぬ憂き目が待っているのも事実なのだ、
私はうろたえ途方に暮れた。
脂汗が滲み動悸が高鳴る。
頭が真っ白になり、その白さが女性のがらんどうの部屋に滲み、女性の声となり、語り掛けて来た。
「目を覚まして」
私はその声に目を覚ました。
「夢が道になって僕を恐怖させたのか?」
女性が無機質な口調で答えた。
「その夢は現実でもあり、夢でもあるのよ」
私は戸惑いを顕にして言った。
「僕はもう家に帰れないのか?」
女性が微笑み無機質な口調で続けた。
「貴方の家は必ず見つかるわ〟貴方は道の夢に疎外されただけなのよ」
私は疎外という言葉に不安感を募らせ、言った〟
「夢に疎外されたら僕は眠る事からも疎外され、死んでしまうじゃないか?」
女性が答えた。
「いえ、貴方は夢から疎外されても、眠る事から疎外される事はないのよ。それは太陽の顔が月にならないのと同義なのよ」
私は苛立ち言いはなった。
「訳が分からない事を言わないでくれ。僕は家に帰れるのかどうかを尋ねているのだ。答えてくれ?」
女性が事も無げに答えた。
「当然貴方は家に帰れるわ」
私は気持ちを落ち着かせるために一度深呼吸をしてから尋ねた。
「君は何故そんなことを言い切れるのだ、君は何者なのだ?」
女性は微笑み答えた。
「私は私よ」
私は女性を睨み付け言った。
「君は僕の夢に現れる夢の精だろう?」
女性が動じる事なく答えた。
「私の姿は現実そのものであり、夢うつつとはかけはなれているでしょう。第一貴方は私に街中で声を掛けて来て、意気投合したのを覚えていないのですか?」
私は眉をひそめ反論した。
「でも君が夢の化身だからこそ、夢の道そのものが変化しているのではないのか?」
女性が冷静な態度を崩さず答える。
「でも現実の道を貴方は歩いたからこそ、自分の家がなくなったのに貴方は気がついたのでしょう?」
それは確かな事実なので私は黙り込んでしまった。
三
女性が続けた。
「貴方は今夢と現実の狭間にいて、その区別がつかない状況なのだけれども、それでも貴方は家に帰りたいのでしょう?」
私はしきりに頷き答えた。
「そうだ、僕は家に帰りたい、今はそれしかない」
女性が私をまじまじと見つめてから言った。
「貴方にとって家に帰る事は命なの?」
私は即答した。
「夢の中にいようと、現実にいようと、家があることが僕の中心であり、命はそれしかないと断言出来ます」
「それが貴方の道?」
「そうです、それが僕の道です」
「貴方は家に何を求めるのですか?」
私は一拍置いてから答えた。
「愛と絆ですね」
「家族愛ですか?」
「そうですね、家族が僕にとっては全てです」
「貴方は家族で自分の孤独と不安を癒すのですか?」
私は恭しく頷き答えた。
「その通りですね」
「でもそれは家族以外でも出来ますよね?」
私は否定した。
「いや、他人で孤独や不安を拭えば、余計孤独や不安は募るばかりでしょう」
「それは絆がないから、信用出来ないという言われですか?」
私は一拍置いてから言った。
「そうですね、身内以外は信用出来ませんから」
女性が目を細め言った。
「それが夢の道の家族であっても、そうなのですか?」
私は明瞭に頷き答えた。
「夢も現実もありません。僕には家族が全てです」
四
夢の中にいるという自覚がないままに、私は己の帰るべき家を探している。
通り慣れた交差点を左折したところで、私は立ち止まり目を見張った。
見える筈のない一陣の風が見え、それが矢に姿を変えて、私に襲いかかって来たのだ。
瞬間的に私はその矢をよけたのだが、矢は私の腹に命中したのに、涼しい感じがしただけで、痛みはなく、私は肩を落としてため息をついた。
風の矢は言わば夢うつつの代弁者であり、現実世界を侵食する存在である事は間違いない事実なのだが、その正体はようとして分からない。
私は歩き出す前に夢の精たる女性に心の中で声をかけてみた。
「君は一体何処にいるのだ?」
暫く待ったが返事はない。
返事がないので私は再び歩き出した。
道に変化はない。
僕は家へと歩を進めた。
家に帰りたいという切望が強くもたげて来る。
そして風の矢が何故自分に刺さったのか、その意味を考えたのだが、皆目分からないので、私は思考停止して歩を進めた。
郷愁をそそる道のり。
家に帰れるのは言わば当たり前の事なのに、それが出来ない事が否応なしに心を蝕み、不安を募らせる。
やはりあるべき家はなかった。
そしてそ私の心の中に家の郷愁としての影が伸び、その影が伸びた先に涙となって私は嗚咽した。
その嗚咽に応じるように女性が声をかけて来た。
「そこは青い迷路エリアよ。その奥に行けば、貴方の家はある筈よ」
私は疑問符を投げ掛けた。
「ここは青くなんかないし、僕の家はなかったじゃないか?」
女性が答えた。
「いや、青く見える筈よ。そして貴方は青い自分の家を見つけ、その中をさ迷い、奥に進むのよ」
私は再度疑問符を投げ掛けた。
「さ迷うならば、そこは僕の家ではないだろう?」
少し間を置いてから女性が答えた。
「貴方は現実の道に疎外されて、心が壊れて、その壊れた心が夢の道をも壊してしまったから、そこにいるのよ」
私は心の中で声を限りに反論した。
「何を言われているのか、さっぱり意味が分からない。僕は家に帰れるのか帰れないのかどちらなのだ?!」
「帰れるわ」
そのまま女性の声は遠ざかり、私は道自体が青みを帯びた感じになるのを目の当たりにして、益々家への郷愁を募らせつつ歩き出した。
見知らぬ人達が青みがかった色を帯びつつすれ違って行く。
どういうわけか私は人に親しみを全く感じない。
心が理屈抜きに痛み疼く。
私の心は人に傷つけられ、現実逃避したのは間違いないと思う。
心の傷が夢の道を作っているのも同様に感じる。
この心の痛みが道の広がりなのだとも思う。
心の嵐がこの道を形作っているのならば、ここは正に迷路そのものだとも言えよう。
他人によって自分がどのように傷付いたかは私には分からない。
だがその傷の疼きが、家への郷愁を募らせているのは間違いない事実だと思う。
心的外傷というのは伝染病だと私は捉えている。
私は心の傷を癒す為にひたすら家族を求めてさ迷っている。
それがこの夢見行と言えよう。
だが私は家族の構成や顔を思い出せないでいる。
私は自分の心の傷を幻のように思い出せない家族の面影を手繰り寄せ癒そうとしているのだ。
しかしあるべき家は見当たらない。
と言うか、家のあった場所にはレンガ作りのビルが建っていて、私はそれを見ながら眩暈がして蹲ってしまった。
少しづつ変わる情景こそが、迷路としての私の家ならば、それは私の心の家に違いないのだが、私はいたたまれない孤独感と不安に苛まれている。
不意に私の脳裡に草笛の音が聞こえ出した。
その音は脳裡の内にあって、拡散して行き、青みがかった情景を深めつつ聞き慣れた女性の声に変わった。
「余り深く考えないで、家を見つければいいのよ」
私は反論した。
「でもこの不安はどうする事も出来ない」
女性が答えた。
「だから考えないようにするのよ」
私は反論を重ねた。
「でも不安を感じるのだから、どうする事も出来ないではないか」
女性が間を置いてから言った
「とにかくその不安感を拭わないと、貴方の家にたどり着く事が出来ないのです」
私は怒鳴り反論した。
「でも家がないのだがら、不安感は拭えないでしょう!」
「それを何とか拭えないと、家にたどり着けないのですよ」
私はろんばくした。
「そんなのは無理難題だ、ふざけるな!」
「私の言いたいのはそれだけです」
私の声を無視するように女性の声が遠ざかった。
私は再び嗚咽した後立ち上がり、来た道を引き返して女性がいる部屋へと戻ろうとしたのだが、今度はその女性がいる部屋が何処にあったのか思い出せなくなっている。
ここで私はふと考えた。
自分の草笛たる心的外傷が迷路になっているのならば、家になんか帰れるわけがないと。
夢の迷路の中で私は自分の心的外傷たる迷路について考えるが、混乱するばかりで何も結論が出ない。
不安と憔悴感に私は再度嗚咽した。
その私を慰めるべく女性が話し掛けて来た。
「貴方の傍には私がいるから不安がらないで」
私は矢継ぎ早に質問をした。
「僕の心的外傷が君の声になっているから、この迷路はあるのか?」
女性が答えた。
「違うわ。貴方の心は確かに壊れているけれども、それがこの迷路を作っているわけではないのよ」
私は怒りを顕に怒鳴り返した。
「僕は家に帰りたいと言っているのだ、早く家に帰せ!」
女性が穏やかな声で言った。
「心配ないわ。私が導いて上げるから」
私は再度怒鳴り返した。
「草笛の鳴る心的外傷の心になんか、帰る家なんかないじゃないか!」
「あるわ」
「無い、無い、無い!」
「落ち着いて、私の言う事を聞いて?」
私はひとしきり己を落ち着かせる為に息を吐き出してから答えた。
「分かった、僕はどうしたらいいのだ?」
女性が答えた。
「貴方が通い慣れた病院に行けばいいのよ」
私は訝り尋ねた。
「僕は何の病院に通っていたんだ?」
女性が答えた。
「心療内科よ」
私は自分が心療内科に通っていた事を思い出せないまま答えた。
「僕は心療内科に通っていたのか?」
「そうよ」
僕は恭しく頷き言った。
「そうか、分かった。案内してくれないか?」
「ええ」
五
青みがかった女性の声が病院の待合室に変化して、私は自分の名前を呼ばれる順番を待っている。
心病んだ様々な人達に混じって私は自分が心の病の道を歩いているのを感じ、それに違和感を感じてはいない。
心の病の道を進むのが私の道であり、その先にある家に帰れるのを感じる。
私は医者にその事を告げた。
すると医者が微笑み言った。
「幻聴とか幻覚が見えるのですね?」
私は答えた。
「いえ、僕は家に帰りたいと思っているだけです」
医者が再度微笑み言った。
「貴方の家は当分ここですよ。しっかりと加療しましょう」
その言葉が女性の声に変わり言った。
「病院の中は貴方の心を惑わす迷路です。そこを抜けて貴方は家を探すしかありません」
私は己の心の中に向かって喚き言った。
「それじゃ何故君は僕をここに誘ったのだ?」
「それも貴方が家にたどり着く為の方便なのです」
私は固唾を飲み尋ねた。
「この病院が心の迷路になっているのか?」
女性が即答した。
「そうです」
「ならば僕は心の病の道を突き進めば、家にたどり着くのか?」
女性が間を置いてから答えた。
「そうです」
私は混乱しつつ言った。
「しかし完全に狂ってしまえば、僕は家を見出だすどころか、孤独と不安に滅亡してしまうのではないのか?」
「いえ、自信を持って下さい」
私は反論した。
「自信を持てないからこそ、僕はここにいるのだろう?」
「いえ、ここは貴方の心の道なのです、ですから真っ直ぐに進むしかなのですよ」
私は苦笑いを浮かべて答えた。
「狂った心の道を突き進めば家にたどり着くのか?」
「貴方は狂ってなんかいません。だからこそ心の道を突き進んでいるのですよ」
「狂った心の道こそが、家への道なのか?」
「ですから貴方は狂ってはいないのです」
その言葉を言って女性の声は遠ざかった。
そして病院が心の道そのものへと変貌して、私は病院にいるという自覚が失せて行くのを感じつつ又家を探す為に歩き始めた。
やはりあるべき場所に家はなく、今度は見知らぬ駄菓子屋があるだけで、私は混乱するままに踵を返した。
私は考える。
狂ったように変貌する街並みは私の狂気の証しなのかと。
そして自分が狂っているならば、自分は生きているのかどうかと。
分からない。
その分からない事実が益々不安感を増大させ、家に帰りたいという渇望が否応なしにもたげて来る。
そこで私はふと考えた。
自分の探している場所には家はなく、違う場所にあるのかもしれないと。
夢は不条理なものであり、ひっきょうこの迷路としての夢も不条理なものならば、当然自分が勘違いしている可能性は否めない。
つまり不条理な夢の綾を紡ぐ為には迷路の中をさ迷うしかないのではないかと考えたのだ。
その不意に浮かんだ考えに助言を請うべく私は女性に話し掛けてみた。
暫く待ったが返事はない。
そして私は息をつき夢の綾を手探りするように再び歩き始めた。
六
道は普遍的なものではないのだ。
そう考えた途端女性が話し掛けて来た。
「それは私も間違いない事実だと思います」
私は尋ねた。
「だが、迷路は迷路であって家にたどり着く保証はないだろう?」
女性が答えた。
「いえ、必ず貴方は家にたどり着きます」
私は混乱するままに言った。
「でもそれでは迷路の意味合いが失せてしまうではないか?」
その問いかけに女性は答えなかったので、私はため息をつき再び歩き始めた。
見慣れた道が変化して行くというのは恐ろしい出来事だ。
ただ私はこれが夢であるという自覚があるからこそ、現在進行中の現実として受け入れている話しでしかないのだ。
更に私は自分が道について何も知らない事に気がつき驚愕した。
つまり一歩見知らぬ道に入れば、そこは全て迷路なのだ。
見慣れた道等ほんの一部であり、そこに見知らぬ道があれば、人の見慣れた感覚など瞬時に氷解してしまう。
その迷路の中で私は見慣れた家に帰ろうとあがいている。
あからさまに滑稽な話しなのだが,人は慣れた感覚の中でしか郷愁感を持てない生き物ならば、私もそれは同様であり、夢が見慣れ道を形作り、自分の郷愁感そそる家にたどり着くのを切に願っている。
ひたすら私は見慣れた道を踏み外さないように気をつけながら歩いて行く。
しかしその努力は私の意に反するように水泡に帰して行き、見慣れた道は刻一刻と変貌を遂げて行く。
空き地などなかったどころに空き地が出来、よそ見をしてその空き地に視線を戻すと、そこは青みがかった雑木林になっていて、私を再度驚かせる。
そんな事の繰り返しだ。
ただ私はふと考えた、
そんな繰り返しの中で偶然家にたどり着くのではないかと。
だから慣れを全く排除したこの迷路をさ迷うのには、それなりの意義があるのではないかと考え私はひたすら歩を進めた。
知り合いには会わない。
皆見知らぬ人ばかりであり、それが益々孤独感をそそる。
全体的に青みがかった感じが失せて行くのを感じながら、私は刻一刻と変化して行くが、その中に見覚えのある道の片鱗を少しずつ見出だしつつ歩を進めて行く。
見知らぬ土地は人に孤独感と不安しか与えない。
慣れた感覚の中でしか生きていけない情けない存在、それが人間なのだ。
だからこそ私は家に帰りたいと渇望しているのだ。
腹が減って来た。
ズボンのポケットにはそれなりに金が入った財布もある。その金で何か食べ物を買い食べることが出来ればこの空腹感は満たせると感じ、私はパン屋を探し始めた。
何故パンなのかは分からないが無性にパンを食いたいと私は感じたのだ。
だが、お目当てのパン屋は何処をどう探しても見当たらない。
パンではなく何か他の食べ物でもよいではないかと自問自答するが、私はパンを食べたいと切に願っている。
その食欲に根拠はないのだが私はその根拠なき食欲に従っている。
だがパン屋はなく、落胆してうつむき、顔を上げた途端目の前に祭りの風景が広がった。
異様な祭り風景だ。
祭り囃子がなく、音が一切聞こえない。
私はその祭りの人混みにもみくちゃにされながらも、空腹を満たす為にパン屋を探している。
金を払えば普通に焼き鳥や焼きそば等も買えそうなのだが、私はパン屋をひたすら探している。
祭りの最中でもパン屋はやっていそうなのだが、どうしても見当たらない。
そこで私はある考えに至った。
パン屋が自分の家なのではないかと。
そしてパンを食べて満足することが家に帰ることという考えから私は疑問符を抜いた。
要するに満たされれば良いのだ。
孤独や不安感は食欲を満たせば拭われると。
そして私はパン屋がある場所を阿波おどりをしている女性に尋ねた。
だが答えはなく、私は相手に見えていないのではないかと直感的に感じ、再度別の女性に声を掛けたのだが同じように答えはなかった。
祭りから抜けると目の前に唐突に田園風景が広がった。
その景色を見ている内に私を悩ましていた食欲が嘘のように失せて行った。
ここで私はまたしても深い寂寥にとらわれた。
それは阿波おどりをしている女性に無視されたのが原因の寂寥だと私は感じた。
目の前に広がる田園風景はただ
美しいだけであり、空腹や寂寥感は満たし癒してはくれない。
今私は確かにここにいて、夢の迷路と対峙しているのだが、夢の迷路は私の存在を完全に無視しながら厳然と横たわっている。
それは私の目の前に広がる現実が私の存在理由を完全に否定している証左であり、それゆえに私は計り知れない程の寂寥感に包まれている。
この目の前に広がる世界は夢の迷路だと私は痛い程に痛感しているのだが、今現在進行中のこの夢の迷路こそが私の対峙する唯一無二の世界であり、その世界に存在理由を否定されれば、私の存在はそのまま無に帰してしまう。
我が世界を思っても、世界が我を思わなければ、我が思いは一方通行のものであり、無に帰して存在そのものが瓦解してしまう。
だから私は堪らなく寂しいのだ。
そんな私の孤独感をなぐさめるように女性の声が直接心の中に聞こえて来た。
「貴方はその田園風景の中で家を探すべきなのです」
私は答えた。
「この田園風景の中にある家に行けば、僕は無視されずに寂しさもなくなるのか?」
「そうです」
私は憤りを込めて言った。
「君の言っていることは矛盾だらけではないか?‼」
女性が冷静な口調で答えた。
「いえ、私の言葉に矛盾はありません。私は貴方の歩むべき方向性を指し示しているのです」
私は喚いた。
「出鱈目を言うな!」
女性が怯ますに答えた。
「矛盾と混沌こそが夢の迷路の意味ならば、貴方はその中で目的たる家を探すべきなのではありませんか?」
私は尋ねた、
「こんな田園風景の中にある家はさぞのどかで、僕に安心感を与えてくれるのかな?」
女性が答えた。
「それはそうですよ。家に戻れば安心するのは当たり前ですからね」
私はその言葉に無上の喜びを感じ尋ねた。
「その家には永遠の安息が待っているのだな?」
暫く間を置いてから女性が答えた。
「そうです、永遠の安息が待っているのですから、早く家を探し当てて下さい」
私は再度無上の喜びにうち震えてから恭しく頷き答えた。
「分かった」
七
私は一人のどかな田園風景の中を歩いて行く。
何故人が誰もいないのかとふと考えたのだが、これは不条理な夢なのだから仕方ないではないかと自分に言い聞かせ、ゆっくりと歩を進めた。
しかし言い聞かせせても不安感は拭えない。
世界から疎外されている孤立感はどうにも拭い切れない。
早く永遠の安息が待ち受けている家に帰るしかない。
それに付け加えて私は考える。
今は女性の言葉を信じるしかないのだと。
どんなに女性の言葉に矛盾があろうとも、私が今頼れるものは女性の言葉しかない。
民家など何処にも見当たらず、田園風景はどこまても続いている。
夢ならではの不条理な情景。
そして私はその影が私の
内部を横切り、私の影そのものとなって、背後に立ち上がるのを感じとった。
自分の影なのに、その影には自分のものではない異質なものを感じ取り、私は眉をひそめた。
背筋に悪寒が走る。
当然なのだが、何故目の前の田園風景が己の影に変わり、背筋に悪寒を走らせているのかは分からないが、次の瞬間、影が私の肉体と分離して行き、別の生き物になるのを感じ取り、私は狂おしく悲鳴を上げて立ち止まり、蹲ってしまった。
そして私は自分の影がなくなったのを見て取り、その恐怖に震え出した。
そして次の瞬間私は影に殴られた。
影が私とは別の生き物となり、私を襲って来たのだ。
私は再度恐怖の悲鳴を上げて襲って来る影から逃げ惑う。
だが、どこに逃げても影からは逃げられない。
田園風景が影であり、影が田園風景なのだから、どこに逃げても逃げ場所はないのだ。
目の前に広がる田園風景が私の影を奪い、その影と同化して私を襲って来ているのだ。
私は影に殴られ、或いは蹴られ、血みどろとなって転転とする。
その痛みの中、ふと女性が語りかけて来た。
「瞬きを繰り返しながらその田園風景から逃げ出すのです」
私は息も絶え絶えの呈で頷き答えた。
「分かった。瞬きを繰り返すのだな?」
女性が答えた。
「そうです、瞬きを止めればその田園風景からは逃げられません」
私は頷き、瞬きを何度も繰り返しながら走り出した。
すると目の前に広がっている田園風景の光景が少しづつ薄れて行くのを感じ取った。
だが影に殴られる痛みに私はつい瞬きをするのを忘れてしまう。
すると田園風景も濃度を増して行く。
その繰り返しだ。
私は血みどろになりながら、殴られては悲鳴を上げ瞬きを繰り返すをしている内に、目の前が暗くなり、やがて悶絶してしまった。
目を覚ますと、私は悶絶している自分の肉体を見下ろす影そのものとなっていた。
もう一人の自分、それは影としてのドッペルゲンガーであり、影としてのドッペルゲンガーは自分自身だったのだと直感的に私は思い、黒い影の姿のまま倒れているもう一人の自分を打ち棄てて歩き出した。
影の影こそが目の前に広がる田園風景ならば、そこにこそ我が目指す家はあるのだと理屈抜きに確信した途端、私は肉体に吸い寄せられ、影に逆戻りした直後、目の前の風景が暗転変貌した。
そして私は薄暗い無人のゲームセンターの中で、一人メダルゲームをやっていると、自分の影が私に女性の声で話しかけて来た。
「貴方の影が貴方を虐めていたからこそ、貴方は家からはぐれたのです」
私はメダルゲームをやりながら尋ねた。
「自分の影は僕の心という事か?」
女性が答えた。
「そうです、貴方自身の心が、自分を虐めていたからこそ、貴方ははぐれ、その夢の迷路をさ迷っているのです」
私は尋ねた。
「それでは、この夢の迷路は全て僕自身の心の反映なのか?」
「そうです」
私は再度尋ねた。
「ならば僕は今何をすれば良いのだ?」
間を置き女性が答えた。
「そのゲームに打ち勝つことこそが、活路なのです」
私は固唾を飲み尋ねた。
「このゲームに負ければ、僕は家には帰れないのだな?」
女性が即答した。
「その通りです」
私は再度念を押すように尋ねた。
「これは命懸けのゲームなのだな?」
女性が厳かな口調で答えた。
「そうです、負ければ貴方の命はありません」
私は深呼吸をしてから言い放った。
「分かった。僕はこのゲームに打ち勝つ!」
そこで女性の声は私の影に吸い込まれるように消え失せて行った。
無人の薄暗いゲームセンターの中で私は目の前にあるメダルゲームを凝視する。
メダルを効率よく落として、デジタル画面の駒を進めて、ボールを利した確率が極めて低いジャックポットにいれれば勝利は確定するのだが、その勝利に導かれる確率は極めて低いと言える。
孤立無援の戦いだ。
夢の中にいるのに、やけにリアルに出来ているメダルゲームを私は細心の注意を払いながら推し進めて行く。
落とすメダル自体が早々と底を突くと、私の影が薄暗い暗がりの奥に行ってメダルを次々に運んで来る。
これは明らかに夢の不条理がもたらす事柄なので、私は疑念を抱かずそれに従い、メダルを受け取って、ゲームを続行する最中、私は肉体もろともその落ちるメダルとなり、複雑にいりくんだ迷路に叩き落とされた。
そこで再び女性が言った。
「その迷路の奥に貴方の目指す家があるのです」
私は女性に向かって喚いた。
「言っている事が支離滅裂ではないか。僕はメダルゲームに打ち勝って家にたどり着くのではないのか?!」
女性が冷静な口調で答えた。
「だからこそ、その迷路を突破するしかないのです」
「この迷路を僕が突破する事がメダルゲームに打ち勝つ事なのか?」
「その通りです」
私は再度喚いた。
「滅茶苦茶な話しではないか?!」
女性が諭すように言った。
「その迷路は言わば貴方の心の縮図なのです」
私は食ってかかった。
「こんな狂った悪夢の連鎖が僕の心なのか?!」
「そうです、その狂った悪夢の連鎖こそが、貴方の心の反映なのです、その悪夢としての迷路を整理整合、突破するしか貴方の目指す家への道筋はないのです」
私は苛立たしく尋ねた。
「僕の敵は僕の狂った心という事なのか?!」
「そうです、貴方は自分で自分の心を追い詰めているのです」
私は声を限りに喚いた。
「もう訳が分からない。とにかく僕は家に帰りだい、それだけなのだ」
女性が答えた。
「ですから、その心の迷路を無事に突破すれば帰れるのです」
私は尋ねた。
「ここはメダルゲームの中なのか?」
女性が改めて答えた。
「ですから、貴方の心の反映が、その迷路なのです」
私は頷き答えた。
「分かった」
八
真っ直ぐに伸びている道を私は歩き出した。
もやがかっていて左右はよく見えない。
真っ直ぐに伸びている道の奥に何が待ち受けているのかも、やはりもやがかっていて定かではない、
私の中にある先行きの不安感がこんな迷路を形作っているのならば、自分自身の心に虐められているという女性の言葉も頷けると私は感じた。
どんどん変化しているし、不条理であるが故に迷路の突破方法にこれと言った決めてはない。
行き当たりばったりで、決定を下すしか道はないのだ。
それに加えて、自分自身の心が自分を虐めているのならば、この迷路が自分を虐めている事実も納得出来るのだが、虐められてそれを喜ぶ程の自虐趣味は私には断じてないので、私はこの迷路を脱出生還して、家に生還するのを切望しているのも紛れもない事実だと思う。
乳白色一色に統一された迷路は乳白色に光り輝き、眼を打って来る。それが益々目眩ましの効果をもたらし、迷路はその度合いを深めて行く。
全てが狂っている。
夢は狂ったものだと自分に言い聞かせても、目の前で展開されている悪夢は不条理過ぎるものだ。
その思いを見透かすように女性が再度話しかけて来た。
「貴方を狂わせたのは家族でもあるのです、その家族が待つ家に貴方はどうして戻るつもりなのですか?」
私はその女性の声に欺瞞性を感じ取り逆らった。
「悪夢はとうとう声となって自分を欺くつもりなのか?」
女性が即答した。
「私は貴方を欺くつもりなどありません。私は家族愛というものを信じてはならないと言っているのです」
私は反発した。
「家族愛しか信用出来ないのがこの世ではないか?」
「でも貴方は家族の構成はおろか顔さえ知らないではありませんか?」
私は再度逆らった。
「顔を知らなくても他人よりは増しだ」
女性が冷静に答えた。
「それこそ欺瞞ではありませんか?」
は反論した。
「欺瞞なんかではない。他人よりは増しだと言っているのだ!」
女性が冷静な口調を崩さずに言った。
「貴方の目指す家族愛は与えられる一方で、与えるものではないからこそ欺瞞だと言っているのです」
私は強く主張した。
「与えられた愛が悪だと誰が決めたのだ?!」
女性が答えた。
「それこそ常識でしょう」
「常識もへったくれもない、僕は家に帰りたいだけなのだ!」
女性が答えた。
「常識の範疇から言っても、与える愛こそが至上の愛でしょう」
私は怒りに任せ反論した。
「ここに来て何を戯れ言を言っているのだ。僕は家に帰りたいと、ただそれだけを言っているのだ!」
引くことなく女性が言った。
「貴方は家に帰り自分の孤独と不安を癒やすのでしょう。それは家族の不安や孤独を癒やすことではありませんよね」
私は喚き反論した。
「僕に愛を与える家族愛こそが家族にすれば至上の家族愛ではないのか?!」
女性が間を置きおもむろに言った。
「ならは私も貴方の家に連れて行って下さい」
「何故だ?」
女性が物憂い口調で答えた。
「私も貴方の家族だからです」
「何を無茶苦茶な話しをしているのだ!」
「無茶苦茶な話しなどしていません」
私は喚き返した。
「君は僕と道で出会い、意気投合したと言ったじゃないか?」
女性が答えた。
「だからこそ私は貴方の家族なのです」
私は混乱しつつ喚いた。
「路上で出会った家族は家族なんかじゃない!」
女性が答えた。
「いえ、だからこそ私達は永遠の家族なのです」
「人間に永遠などあり得ない。ふざけるな!」
女性が反論する。
「人は永遠の概念をはき違えているのです。永遠は命が続く限りの永遠なのです」
私は女性の言葉を揶揄するように笑い言った。
「でたらめを言うな、この現実が永遠の家族愛だと言うのか!」
女性が答えた。
「そうです」
私は狂ったように笑い尋ねた。
「ならば尋ねるが僕は何をすれば良いのだ?」
女性が答えた。
「与える愛に目覚めて下さい」
「与える愛が貴女を家に連れて帰ることなのか?」
女性が答えた。
「そうです」
私はせせら笑い言った。
「再度尋ねる。その為に僕は何をすれば良いのだ?」
「その迷路を突破して下さい」
私は大笑いしてから言った。
「それでは元の木阿弥ではないか?!
女性は答えず、私は再度尋ねた。
「聞いているのか?」
女性は答えない。
私は迷路を凝視しながら、これから何をすればよいのかを自問自答した。
深く考えることもなく、答えは簡単に導き出された。
要するに与える愛だろうが、与えられる愛だろうが、この目の前に立ちはだかる迷路を突破すれば良いのだ。
単純明解、そうすれば自分も救われ、女性も救われると私は考えた。
それを確認して私は乳白色に輝く迷路に向かって歩を進めた。
自分の心の中を歩き、家にたどり着くのならば、自分の心の中には確実に家があると確信して私は進む。
だが、私の心は狂っているのだ。
狂っているからこその迷路ならば家にたどり着く保証などどこにもない。
そう考え直すとまたしても私はいたたまれない不安にかられた。
狂った心の迷路の中に安息を与えてくれる家はない。
それは常識だと考えると、その不安感は抜い切れないものとなって行った。
その不安感を諭すように女性が再び声を掛けて来た。
「夢の迷路が狂っていても、貴方は家にたどり着くのです」
「そんな保証どこにあるというのだ?」
落ち着いた口調で女性が答えた。
「貴方がそれを強く望んでいるから、帰れるのです」
「僕は狂っているのだろう。狂った人間に安息なんかないではないか?」
「安息を与えくれる家に帰れば、貴方の狂気は癒されるのです」
私は思い付くままに疑問点を並べ立てた。
「しかし夢の中を突き詰めても、たどり着くのは狂った夢の家ではないか?」
女性が答えた。
「いえ、家にたどり着けば夢は覚めるのです」
私は目に涙を浮かべる程に大笑いしてから言った。
「茶番劇だな。ふざけるなよ!」
「いえ、茶番劇なんかではありません。この迷路はそのように出来ているのです」
私は反論した。
!夢は曖昧で混沌としたものだろう。その中に整合性なんかあり得ない‼」
間を置き女性が言った。
「いえ、そうなっているから、そうなっているのです」
私は再度腹を抱え大笑いしてから言った。
「ふざけるな!」
女性が答えた。
「ふざけてなんかいません。第一貴方は私に従うしか生きる術はないのではありませんか?」
そう言われて私は返す言葉がなく絶句した。
九
女性の言葉通り、私に出来ることは目の前に立ちはだかる迷路を突破する事しかない。
だが、私は恐ろしい程に無力なのだ。
その無力感が益々心を不安に陥れて行く。
その時、乳白色に輝く迷路が暗転して私は眠りから覚めるように閉ざした瞼を見開いた。
広い草原。
だが、草原に生えている草花に混じって無数の影が生え、踊っている。
言葉を替えれば無数の人々の影が草原に生えて、不気味に踊っているのだ。
そしてその無数の影が一斉に呻き声を上げ呪文を唱え出した。
呪詛だ。
その呪詛は乳白色の空に舞い上がり、空の色をどす黒く変えて行く。私はそのおぞましい光景に戦慄して、おののき踵を返して逃げ出した直後、転倒して奈落の底に落ちて行った。
奈落の底に落ちて行った筈なのに、何故か私は宙に浮いている。
どす黒い空を漂っている。
そのどす黒い空が目の前で凝縮して、点に絞り込まれ、黒いボールになって、次の瞬間私はそのボールに吸い込まれ、ボールそのものとなって落下しだした。
そしてそのボールの落下する音を、不条理にもボールから分離した私の影の耳が聞きつけ、狂ったように笑っている。
やがてその光景が熱い涙に変わり、私はボールの姿のまま女性の部屋で、泣きながら女性と語り合っている。
私は喚いた。
「迷路を突破するどころではない。このままでは僕は死んでしまう。助けてくれ!」
姿無き女性が答えた。
「大丈夫です、貴方には私がついていますから」
私は反論した。
「死んでしまったら、貴女がついているも、何もないではないか」
「いえ、ここは夢の中ですから死んだりはしません」
私は女性の言葉の矛盾点を突いた。
「貴女はこの夢の迷路が現実と夢の狭間だと言ったではないか?」
女性が答えた。
「ですから死なないのです」
私はせせら笑い言った。
「夢と現実の狭間は夢の範疇と断言出来るのか?」
「その通りです」
私は自分の手をつねり言った。
「でもこうしてつねれば痛いし、死だって、この痛みと同じように訪れるのではないのか?」
女性が再度念を押した。
「大丈夫です」
私は再びせせら笑い尋ねた。
「ならば、せめてこの恐怖心を抜いてくれないか?」
女性がおもむろに答えた。
「それは無理です。その恐怖心は貴方の不安感と同じように消えるものではありません」
ボールが女性の声を弄ぶように転がり、私の肉体となって、私は立ち上がり女性に向かって言った。
「不安と恐怖心からは安息なんか生まれやしないではないか。だから僕は永遠に安息が待ち受ける家にはたどり着けないという理屈になるのではないのか?」
女性が物憂い口調で答えた。
「仕方ないのです。それが貴方の心の病なのですから」
私は涙を拭い言った。
「僕の心の病は治らないのだろう。だったら僕に安息なんか訪れるわけがないではないか?」
「いえ、家にたどり着けば心の病も癒されるのです」
私は顔をしかめ言った。
「そんな理屈は矛盾だらけではないか!」
女性が冷静そのものの口調で答えた。
「とにかく私の言う通りにすれば家にたどり着くのです」
私は女性を挑発するように怒鳴った。
「おい、何度も言うが、そんな話しは矛盾だらけで無茶苦茶な話しではないか!」
女性が答えた。
「いえ、私の言う言葉に矛盾はありません。貴方の心が狂っているからそう感じるのです」
私は言った。
「僕の心がこの狂った迷路を作っているのか?」
女性が答えた。
「そうです。貴女は一歩づつ安息の家に向かっているのに、自分て狂った迷路を作り、恐怖心を再生産しているのです」
私は息を吐き出してから改めて尋ねた。
「僕の狂った心が貴女の言葉をも狂わせているのか?」
女性が答えた。
そうでですから目先の狂った迷路の現実に目を向けずに、私の導きだけに耳を傾けて下さい」
私は反論した。
「でも僕にはその方法が分からないではないか?」
女性が穏やかな口調で答えた。
「救いを求めながら耳を傾けて下さい」
息をつき私は恭しく頷き言った。
「分かった」
十
私は再び家に帰りたいと心から切望しつつ女性の部屋を後にした。
私の心が狂っているから女性の声が狂た声に聞こえ、私は恐怖心にかられているのならば、私は自分の狂気を制御し矯正しなければならないのだが、私はその術を知らない。
夕闇。
見慣れた商店街のアーケードを抜けた私は月を見上げた、
おぼろ月夜だ。
そこで私の脳裏に奇妙な考えが浮かんだ。
私は月の影で、月を見上げている私は月なのだという思考。
ならば月を見上げているのは、月そのものなのか影なのか、どちらなのかと考える。。
そこで女性が語りかけて来た。
「貴方は月の影そのものだから、見上げるのを止めて歩いて行って下さい」
その言葉が気に入り私は頷き答えた。
「分かった」
不条理な感じが出現しないまま私は商店街を抜け、四つ角を左折しながら家に向かった。
月の影になれば家にたどり着く。
その為には月を見上げてはならないという言い付けを守りつつ私は家に向かった。
しかし私はおぼろ月夜が堪らなく好きなのだ。
好きならば見上げてもよいのではないかという衝動にかられる。
それを見透かすように女性が言った。
「だめです。見てはいけません」
私は反論した。
「でも僕は月の影ならば、見上げたくなるのは当然だろう?」
女性が諭すように言った。
「それをすれば、貴方は家にたどり着けなくなるのです」
混乱しつつ私は反論した。
「でもこの衝動はどうにも抑えられない」
「抑えるのです」
「私は強く反論した。
「無理だ!」
女性が再度諭すように言った。
「それをすれば全てご破算になってしまうのです」
私は尋ねた。
「それをすれば、貴女も助からないのかが?」
「そうです」
私は嘆息してから答えた。
「分かった」
女性の声が止み、私は再び家に向かって歩き出した
しかし禁じられればそれをしたくなるのは人の常で、私も例外ではなく、益々おぼろ月を見上げたいという願望は強まるばかりで。
女性がそれを見透かすように諭す。
「だめです」
「でも月の影が月を慕うのは当然てはないか」
「だめです」
「何故だめなのだ」
「だめなものはだめなのです」
私は喚いた。
「だめだと言われれば、それを見たくなるのが人情ではないか!」
「それをしたら、貴方は家に帰れません。見上げずに家を捜すしかないのです」
「又騙しか?」
「騙してはありません」
「信じられない」
女性が強く主張した。
「でも貴方はそれを信じるしか道はないのです」
私はため息をつき尋ねた
「一目だけでもだめなのか?」
「だめです」
私は再び不承不承頷き答えた。
「分かった」
十一
私の中に女性がいる。
それは狂った私の中にいる女性なのだから当然狂っているという推論は成り立つ。
ならば女性の言葉も狂っていて、それを信じる必要はないと思うのだが、私の寄る辺は女性の声しかなく、それを信じるしか道はない。
しかし信じては裏切られるの繰り返しに私は辟易としている。
それは自分が自分を裏切る行いなのだから、女性を裏切ることにはならないと私は判断した。
その考えを固め、私は愛しのおぼろ月を一目見た。
その刹那。
私は透明な平面の地平線になり、雲のように空を漂い、月をかき抱いている。
透明で平面な私の身体は空に果てしなく伸びていて、月を抱くのに、それ程苦痛は感じない。
むしろ心地よい位だ。
しかし何かいたたまれない違和感がある。
私はその違和感を検証する。
身体の一部が無図痒いのだ。
その痒みがどこの部位なのかを私は探ってみた。
そしてそれは直ぐに判明した。
月をかき抱いている両手の先が痒いのだ。
雲としての手先が月をかき抱いて痒くなっている。
雲の身体が五感を持っていることに感心して私はため息をついた。
そんな私を揶揄するようにおぼろ月か熱くなり始めた。
その熱さがどんとん増大して行く。
私は不安にかられながら、これは夢幻なのだから心配ない、心配することはないのだと言い聞かせる。
しかし私の意に反して、熱さはその度合いを増して行くばかりだ。
その熱さが身体全体に広がって行き、私は堪らずに悲鳴を上げた。
その途端私は月の影になり、地面に張り付いた。
熱さは失せたが、今度は張り付いたまま動けない。
動けないことが堪らなく寂しく感じる。
それを諭すように女性が言った。
「貴方は約束を守らなかったから、また迷路に迷い込んでしまったのです」
張り付いたまま私は喚いた。
「此処は迷路なのか?」
女性が答えた。
「そうです、貴方は約束を守らなかったから、罰としてその迷路で不安と孤独におののき、苦しんで下さい」
「僕はもう家には帰れないのか?」
「貴方次第です」
「せめてこの状況は変えられないのか?」
女性が念を押した。
「貴方次第です」
そのままま女性の声は遠ざかり、私はすがりついた。
「ちょっと待ってくれ!」
女性は答えない。
私は再度すがりついた
「答えてくれ、このままでは死んでしまう‼」
どんなにすがりついても女性は答えない。
私は地面に張り付いたままおののき震えた。
このまま動けなければ死んでしまうという考えが頭から離れない。
これは夢なのだ、これは夢なのだと自分に言い聞かせるのたがその考えがどうしても頭から離れない。
薄暗いなか眼はおぼろ月を見上げているだけで、他には何一つ見えない。
不気味な静寂。
その静寂に押し潰れそうだ。
何とか動けないかともがくが、にっちもさっちも行かない。
私は肉体感覚に命を託しつつ再度全身に渾身の力を込めもがいたが微動だにしない。
恐怖心と孤独感に苛まれている私に向かっておぼろ月が膨張し始め攻撃して来た。
何が起きたのか状況が掴めない中。
おぼろ月がそのまま巨大化して、地面に張り付いた私にのしかかって来た。
想像を絶する重圧感に私は悲鳴を上げて悶絶した。
眼が醒めても状況は変わっていなかった。
ただおぼろ月の重圧感は失せている。
それは幸いなのだが、又いつ襲って来るかもしれないと考えると、私はいたたまれなく恐れおののいた。
恐怖におののきながら私は考える。
私は月の影なのだ。
影は何者かを媒介にしないと影にはならない。
それはあの女性なのだと私は脈絡もなく直感的に考えた。
そう考えると、この状況を招いたのは自分のせいではなく女性のせいだと考えた。
つまりおぼろ月を見上げるタブーを侵させたのは女性だという発想だ。
私はこの発想に膠着して女性を呪った。
そんな私に女性が語りかけて来た。
「それは貴方の冒した過ちであり、私のせいではありません」
私は張り付いたまま涙声で反論した。
「月の光は何かを媒介にしないと影は作らないではないか?」
「そんななのは責任転嫁です」
私は反論を重ねた。
「責任転嫁も何もないじゃないか、この状況を自分の力で打破出来ないのが、その証拠ではないか?」
女性が事もなげに言った。
「自業自得ですよ」
「でも貴女は僕を媒介として月の影にしたではないか?」
女性が淡々とした口調で言った。
「その夢の迷路は貴方自身の心の反映なのです。ですからその状況を招いているのも貴方の心なのです」
私は声を張り上げて主張した。
「それでは僕は自分で自分を苦しめているというのか?」
女性が肯定した。
「その通りです」
私は動けない窮屈さに辟易としながら、それをごまかすように嘲笑いつつ言った。
「僕にはそんな自虐趣味はない。これは貴方が僕を苦しめている状況でしかないじゃないか?」
女性が言った。
「貴方には被害者意識しかないのですか?」
私は再度自分を嘲笑うように笑い言った。
「そんなの決まっているじゃないか、誰だって自分が一番可愛いのだから」
女性が間を置き物静かな口調で言った。
「貴方は自分自身の心を治して下さい。さもなければ今の苦しい状況は変わりません」
私は喚き返した。
「こんな状況で心なんか治してられない。これはゲームじゃないからな!」