彼女の非-意識、あるいは世界B
× × ×
(『哲学的ゾンビの恋: 彼女の非-意識、あるいは世界B』おしまい)
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補遺
上の文は、『哲学的ゾンビの恋: 彼女の非-意識あるいは世界B』の最も完全なヴァージョンです。
以下はより可読性を高めた形態、すなわち時間経過などを「美花」に与えられた主要な音声知覚を翻訳すること記述したヴァージョンとなっています。
正確さには欠けますが、「美花」という現象に起こった自体を把握するためには有益であると考え、掲載いたします。
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『哲学的ゾンビの恋: 彼女の非-意識、あるいは世界B』
<こつ、こつ、こつ>
「私、ゾンビなんだって」
「ああぁぁぁぁあああ??」
「すごい声」
<こつ、こつ、こつ>
「ゾンビって」
「知らないの?あれだよ、腐ってて、歩くのが遅くて、人間を食べて、ショットガンに弱い」
<すん、すん、すん>
<ばし>
「腐ってはいない。足も早い。肉嫌い。あと、私が知る限りでは、人間もショットガンに弱い」
「あはは」
<こつ、こつ、こつ>
「心がないんだってさ」
「心がない。心無い? 性格が悪い。確かに」
「性格は良いよ。心が、無い。それだけ」
「いやいや、心がないひとに『性格』も何もないでしょ」
「うーん、説明しづらいんだけど、とにかくないらしいんだよねえ」
<こん>
「ぎゃあ」
「ほら、痛がった。それが美花の心だ」
「当たり前だっ、このっ」
<ごっ>
「ぎゃあ」
「いや、ほら。あれだよ。つまりね、心がないなら痛みも感じないじゃん」
「そうだね」
「痛みを感じなければ怒らないじゃん」
「そうだねえ」
「だから私は美花の言葉を信じてさ……」
「やあっ」
「ぎゃああ」
<ごっ>
「まあ実際、心が無いって言われても私には実感ないんだよね」
「というかさ、心が無いって、あるでしょやっぱり。怒ったし」
「怒らなくても人は殴れるよ。というか、『怒る』こと自体別に心がなくてもできるでしょう? つまりね、私は――心、正確には意識や感覚質が存在しない、だけど、意識がある人とまったく同じように振る舞う人間。それを哲学的ゾンビっていうんだってさ」
「さっきから誰かから聞いたような感じで言ってるけど」
「うん。『先生』から聞いたの」
「え、何先生?」
「『先生』は『先生』だよ」
<こつ、こつ、こつ>
「そこでアイスを買います」
「私も買います」
<てんてんてんてんてんててん>
<っせー>
<きぃ>
<がさがさ>
<128円になりまーす>
「袋いいです」
<ちーん、がちゃがちゃ>
<しったー>
<てんてんてんてんてんててん>
<ぴっ>
「あぐ」
「みっともない」
「あずきバーはこう食べなければ嘘だよ」
<しゃく>
「例えばさ、それ、美味しい?」
「普通。どっちかというと好きじゃない。知ってたけど」
「なんで買ったのさ。いやでも、何か感じているわけでしょ、それ」
「たとえばさ、『私は何も感じません、味はありません』って私が言ったら、それはただのゾンビなわけじゃん」
「いやただのゾンビではないでしょ」
<しゃく><しゃく><しゃく>
「ま、信じてもらえないだろうとは思ったけど」
「いや、信じるよ」
「……なんで?」
「はぁー」
「美花は嘘をつかないからね。これが初めての嘘だとしたらちょっとつまらないし、そもそも嘘と真実を検証する手段がない。ついたとしても、そういう嘘はつかないし、つく意味がない。だから、信じる」
<こつ、こつ、こつ>
「言って良かったかも。結構緊張した」
「そういやさ、他の人にはもう言ったの? お母さんとか」
「ふうん。なんで私にだけ?」
<かっ>
「なんでだと思う?」
<こつ、こつ、こつ>
「じゃ、また明日」
<こつ、こつ、こつ>
<こつ、こつ、こつ>
<こつ、こつ、こつ>
<こつ、こつ、こつ>
<こつ、こつ、こつ>
<こつ、こつ、こつ>
<こつ、こつ、こつ>
× × ×
<かりかりかり>
「前回の授業でも少しだけ触れましたが、最近の形而上神経学においては、従来、つまり2023年以前ですけど、それ以前の認知限界ではアクセス不可能であると思われていた、さらには科学的概念から排除すべき混乱であるともされてきた『意識』が、実在するものだと考えられています」
<かり>
「一方、最新の認知限界拡張実験でも、0.05%ほどの人間の『意識』はその存在を確認することができていません。しかもそれは、その人間に固有な性質であると思われています。えーと、これはつまりですね、意識が存在しないと判定された被験者はどのようなタイプの拡張実験でも、ハーマン式でもイクザット式でも同じように判定されるし、逆もまた然り、と言うことですね。多くの研究者はこれを拡張実験の不備、未完成に求めます。当たり前ですね。この世界に意識がある人とない人が物理的には全く区別できない状態で併存していると考えるのは不条理にも思えるからです。ですがこの結果を、0.05%の人間は現に意識を持っていないのだと主張する研究者もいます。彼らは、意識が存在するか否かはある程度ランダムであると考えるわけですねえ。『隠れた原理』を想定するひともいますが……まあ参考文献にあげといたので興味があったら読んでみてください。Edward Wisemanの単著です」
「要するに、意識を持たない人間の存在をどう捉えるべきかにはいくつもの立場があるわけですが、このような人々を哲学上の思考実験で提出された概念になぞらえて『哲学的ゾンビ』と呼ぶことは、まあ、一般的です。そーいうのやめてほしいんだけどねえ、概念上の混乱を招くから。あとはまあ、人権的にやっぱりあれなわけです。少なくとも私は使いませんね。ただ……これも難しいわけですね、意識が存在しない人間の倫理的身分。これについては多分じか……ちゃうわ、次々回詳しく取り上げていきます。今日はもう少し意識の性質について考えていきましょう。そもそも非物質的存在者の……」
<かりかりかり>
<かりかりかり>
<かりかりかり>
× × ×
<I'll see you on the dark side of the moon>
× × ×
<All that you touch>
「あ、来たんだ」
<All that you feel>
「割と待ってたんだけど。よっと」
<とん>
<All you save>
<こつ、こつ、こつ>
<And all that you say>
<こつ、こつ、こつ>
「ラ・タンのゲロ以下のカフェオレを飲んでまで待ってたんだよ。責任取って欲しい」
<everyone you meet>
「ああ、噂には聞いてたけどそんなに不味いの、あれ」
<and all that is now>
「最悪だよ」
<There is no dark side of the moon, really>
<Matter of fact it's all dark>
「それを明るく見せているのは太陽だけ」
「だれ?」
「オドリスコル」
「聞いたことないなあ、だれそれ」
「で、なんで」「私、ゾンビなんだってさ」「心が、意識が、クオリアが欠けた存在。その私は、でもそのことにずっと気付かないでいた。当たり前だけどさ、気づいちゃったら哲学的ゾンビじゃないから。でも……私が見てきたもの、私が感じてきたもの、私が思ってきたことのすべては、一体何なんだろうね、って。今、こんなにも寂しい気持ちを、いったいどこに収納すればいいのかな、って。偽物の感情だったら、私はそんなに悩まなかった。そうじゃないんだ。私がいきいきと感じているまさにこれが、本当は存在しない。そのことを消化できないんだ」「みんなには心がある。当たり前だけど。私にはそれがない。ほかの人のまねをして、すごく正確に振る舞うことができる人形みたいなものだから。……自分がそういう生き物だってこと自体、すごく気持ち悪いなって思う。でもそれ以上に、その気持ち悪さ自体が本当は存在しないってことが、……どうやって振る舞えばいいのか、分からない」「私には、美花の悩みは理解できない」「だよね、綾には心があるもの」「美花に心は存在するよ。たぶん、私と同じ程度には」<ちっ>「信じるって言ってたはずだけど」「美花がそれを信じているってことは信じている」「ところでさ、私もゾンビかもしれないよね」「は?」「その可能性、いかで破棄すべし」「私さ、実は一発で美花の居場所当てたんだよね。絶対ここにいるって。凄くない?」「凄い……、けど自分で言う、それ?」<へっ、へっ、へっ>「というのもね、美花が自殺でも考えてるかと思ったんだ。なんか最近やさぐれてたし」「心配しすぎ」「そうだね。ただ、もしそうなったら悲しい。凄く悲しい。美花の事を大切な友達だと思ってる」「……知ってるよ」「何を根拠に?」「私の唇は確かにそう動いたし、私の足はここに至った。で、それで? 私があなたのことを友達だと思っているという証拠になりますか?」「……なるよ。なるでしょ」「なるとすれば、それが『心』だよ。少なくとも私たちが尊重すべき他者の『心』は全く物理的なもので構成されていると私は思っている。内面というものはその人が見えなかった部分の寄せ集めであって、存在していない部分ではない。誰からも隠していて、全く肉体に影響を与えることもない、本当の心があるとすれば、そんなもの、私の人生に関係ない」「私を動かすのはいつも物理的な何かだよ。悲しそうであれば手を差し伸べる。辛そうだったら助けてあげる。悩んでいたら一緒に考える。本当に悲しんでいるかどうかなんて関係ない。判断が体を動かすんじゃない。私を動かすのは、いつも私の知覚だよ」「だから、美花の内面が存在するかなんて、私にはどうでも良い。あなたに心がなかったとしても、私はあなたの友達だ」「……私はそんな風には生きてない。そんな風に、綾を助けてあげたことなんかない。あなたの友達でいられるほどの感情を、あなたに見せたことはないよ」
<ざっ>
「……綾?」
<こつ、こつ、こつ>
「動かないで。絶対、動かないで」
<ざ>
<どん>
「二度と、二度と、そんなことしないで」「ごめん。もうしない。冗談だよ」「綾が死ぬなら私が殺す」「私にとっては、これが美花の『心』だよ。今私が倒れ伏しているまさにこのこと、それがあなたの『友情』だよ」「……ごめんなさい。綾はそういう極端に走る人間だって知ってたのに」「そう……いや、それはどうだろ。そういうタイプでは」「振る舞いから判断するとそう思わざるを得ないんだよ」「……なんか、下らないことで悩んでいた気がしてきた。こんな馬鹿な人がこの世に存在するなんて」「悩みが無くなるのならそれは良いことだと思うよ」「全然良くないよ。いつも思っているけど、実はやっぱり綾の方こそ心が無いんじゃない?」「……まあ、それが綾の言うところの『心』そのものなんだと思うけど」「ごめんなさい、心配かけて。……実は、綾が全然まったく気にしてないようにしてたから、それを結構気にしてた」「うん、知ってた。実際気にしてないのは分かってくれた?」「……面倒なやつ、って思わなかったの?」「思ったよ。でも別に、これくらいどうってことないし」
<どっ、どっ、どっ>
「実はもう一個、告白しなければいけないことがあります。驚かないで聞いてくれますか?」
<どっ、どっ、どっ>
「好き」
<どっ、どっ、どっ>
「すごい顔」
<どっ、どっ、どっ>
「まじ。まじか。それは……。うん。嬉しい。嬉しいと思う」
「本当?」
「いや、その。うん。あははー、告られたの初めてだよ。どう返せばいいと思う?」
「綾が、思った通りに」
<どっ、どっ、どっ>
「私も好きだ。愛してる」
<どっ、どっ、どっ>
「えー、そこまでは求めてないっていうかー」
「あっひどい!!!!あんた人の心というものを持ってないな!!!」
「そうだよ。だって私、ゾンビだもの」
<どっ、どっ、どっ>
<かっ>
「心がないゾンビだけど、綾は私を好きでいてくれる?」
<どっ、どっ、どっ>
「さっきも言ったけど、私は人を中身で判断するようなタイプじゃないんだ」
「ああ、振る舞いで判断するってこと?」
「違う違う」
「……だったら何で判断するの?」
「顔」
「え」
「顔だよ」
「すごく可愛いと思う。特に鼻の形がすごく好き。眼も好き。あっ痛い、痛いって。なんで叩くのさ」
<ばん、ばん、ばん>
「嘘嘘、全然かわいくない」
<ばん、ばん、ばん、ばん>
「帰りますか」
「お父さん心配してるかもね、あの人過保護だし」
「別にそこまで遅くもなってないし……」
「父親というものは普段との少しのズレに喧しく口を挟む物だよ」
「それたぶん綾のお父さんだけじゃないかなあ」
<ぎぃ、ぎっ、ざ>
<ふぅ>
<ふふふ>
「でも本当は、涙に心は宿らないんだ」
(『哲学的ゾンビの恋』おしまい)
「一人称はそのキャラクターの意識の記述なのか?」という疑問から出てきた小説。
ぐぐったら漫画で書いてる人居て即キレそうになりました。おのれダヴィンチ恐山!
……まあ類例はいろいろありそうですね。
美花が聞いているのはPink Floydの名盤 "Dark Side of the Moon"のファイナルトラック、 "Eclipse"です。
有名なアルバムですが、聴いたことが無ければぜひ。もちろん最初から通しで。
感想など頂ければ幸いです。