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彼女の意識、あるいは世界A

「私、ゾンビなんだって」

 

 美花のその言葉を聞いたとたん、私の口から「あ」がこぼれた。

 重力のままに落下した「あ」は地面すれすれで紙飛行機のごとく不安定に上下したのち、上昇気流に従って大きく昇りながら疑問符を描く。

 あたかもそれが残す物質的な軌跡を追っているかのように、目をくるくると動かしながら私の声を鑑賞した美花は、最後に首ごと大きく視線を一回転させた後、非の打ち所なく秀麗な顔立ちに相応しい笑みを浮かべた。


「すごい声」


 本当だ、私もそう思う。

 美花のことばがわたしを混乱させるのは珍しいことでもない。それを差し引いてもその告白は、脈絡という点でも意味内容という観点からも、混乱どころか幻惑させられるような代物だった。

 大学から自宅までの道を美花と隣り合って歩きながら、私は彼女の発言を吟味する。

 その結果、対話こそが解決の唯一の方策だと結論づけた。


「ゾンビって」

「知らないの?あれだよ、腐ってて、歩くのが遅くて、人間を食べて、ショットガンに弱い」


 私は美花の臭いをかぐ。彼女は体をよじって嫌がるが、さして異常性のある臭いはしない。むしろ好ましい。いろいろとにおいを気にしなければならない季節ではあるのであるが、それだけいっそうさわやかな香りがする。ついに彼女は私を押しのけた。

 憮然とする美花に、私はあくまで冷静に自分の見解を述べる。


「腐ってはいない。足も馬鹿みたいに早い。肉嫌い。あと、私が知る限りでは、人間もショットガンに弱い」


 私がそう言うとようやく美花は笑ったが、結局意味が分からないので、私は横目で彼女をにらんで続きか説明を促した。美花はほっそりとした顎に、やはりほっそりとした白い指をあて、しばし悩む素振りをしたのち、


「心がないんだってさ」


 と、今度は伝聞口調で言い換えた。

 私は私で、丸みのある顎を細くない指でこねくり回し、その言葉の意味を考える。


「心が無い。心無い? 性格が悪い。確かに」

「性格は良いよ。心が、無い。それだけ」


 二重に異論があるが、一方に関しては決して合意に達しないと判断が付いたので、問題を後者に絞ることにする。


「いやいや、心が無いひとに『性格』も何もないでしょ」

「うーん、説明しづらいんだけど、とにかくないらしいんだよねえ」


 彼女の言葉はやけに曖昧であるうえ、いちいち実感というものが感じられない。

 苛立った私はこぶしを固く握りしめた。ぎょっとする美花に構わず右腕を振り上げ、彼女の頭に振り落とす。


「ぎゃあ」

「ほら、痛がった。それが美花の心だ」

「当たり前だっ、このっ」

「ぎゃあ」


 彼女からの痛烈な反撃に悲鳴を上げた私に、美花はなお恨みがましい視線を向けている。割ときれいな肌(いや、嘘だ。本当のところ美花の肌はうらやましいくらいに綺麗だ。透明感があり、触ると気持ちが良く、もちもちしている)は今や発火していた。弁明の要に迫られていることに気が付き、私はしどろもどろに言う。


「いや、ほら。あれだよ。つまりね、心がないなら痛みも感じないじゃん」

「そうだね」

「痛みを感じなければ怒らないじゃん」

「そうだねえ」

「だから私は美花の言葉を信じてさ……」

「やあっ」

「ぎゃああ」

 

 まあ、くだらない漫才はともかく。

 私にはまだ、美花の言っていることが了解されない。

 心が無いにしては美花の振る舞いは人間的だ。それは美花も自覚(と言っていいのか私には分からないが)していることであるようで、


「まあ実際、心が無いって言われても私には実感ないんだよね」


 とのことである。

 それはそれで、実感を覚える部分が無いのだから当たり前のことのように思えた。


「というかさ、心が無いって、あるでしょやっぱり。怒ったし」

「怒らなくても人は殴れるよ(彼女はここで拳を数回振った)。というか、『怒る』こと自体別に心がなくてもできるでしょう? つまりね、私は――心、正確には意識や感覚質が存在しない、だけど、意識がある人とまったく同じように振る舞う人間。それを哲学的ゾンビっていうんだってさ」


 聞いたことが無い。そもそもなぜそれは哲学的と呼ばれなければいけないのだろうか。

 確かに通常考えるゾンビとはあきらかに違うが、何が哲学的なのだろう。

 それに付随する問題。

 

「さっきから誰かから聞いたような感じで言ってるけど」

「うん。『先生』から聞いたの」

「え、何先生?」


 私は大学の先生の誰かかと思ったのだが、


「『先生』は『先生』だよ」


 と、らちが明かない。やはり心が欠けているからかもしれない。

 「教師」。

 こどもにとっては「真理を伝える者」。

 おとなにとっては「いい加減なことばかり教える役立たず」。

 私たちにとっては「相互利益のための共犯者」。単位をくれたり、あるいはくれなかったりする人。

 いったい「先生」とはどれにあたるのか、あるいはどれにも当てはまらないのか。

 とはいえ、この「先生」とやらの話にこれ以上踏み込んでも徒労に終わるだろうということは容易に判断出来た。

 あ、コンビニ。


「そこでアイスを買います」私が厳粛に宣言すると、

「私も買います」と、美花も恭しく応えた。


 私は挑戦的にあずきバーを、美花はココナッツミルクバーを買った。こういうところに人間性というものが表れるのだと思う。

 コンビニから出てすぐ私はあずきバーを取り出し、齧りついた。とはいえこの表現はあまりしっくり馴染まない。分かっていたが固い。これは歯をあずきバーに接触させたとか、そういう表現が正しかろう。

 美花は私の無作法を窘めながらも、自分も袋を開けて、その小さな口でアイスを少しだけ齧った。手つきからしてすでに上品な雰囲気が漂っているのは育ちが違うというやつだろうか。もっとも彼女は一般的な中流家庭の生まれで、両親ともに優しくて良い人だけれど平凡といえる範疇であることは、幼なじみである私も承知していることだ。

 再び並んで歩きつつ、私は尋ねる。


「例えばさ、それ、美味しい?」

「普通。どっちかというと好きじゃない。知ってたけど」

「なんで買ったのさ。いやでも、何か感じているわけでしょ、それ」


 私は今、あずきバーの冷たさとか甘さとかざらつきとか、最初に口に入れたとき舌と唇に覚えたひりつきの残滓であるとか、もうすこし広げてみれば風もなく重たくしめった空気の感触や沈みゆく太陽の微熱であるとかを、現に感じている。当たり前の事である。

 彼女とて、『普通』と言ったからには何かを感じている必要があるのではないだろうか。

 何も感じていなければ、何か感想を言うことだって不可能なのではないか。


 ……という格納された疑問文は美花によって正しく展開されたらしい。彼女は舐めていたアイスから口を離してこう言った。


「たとえばさ、『私は何も感じません、味はありません』って私が言ったら、それはただのゾンビなわけじゃん」

「いやただのゾンビではないでしょ」

 

 突っ込みを入れながらも、彼女の言わんとするところは理解できた。

 つまり、それは「ゾンビでないもの」と同じ振る舞いではない。

 「哲学的ゾンビ」は、私たちとまったく同じように振る舞う。

 だから彼女は言う、「普通」だと。それは彼女の内奥にある何かと関連したものではない。

 嘘とか欺瞞とか、そういうのとは全く別だ。それらは「真」だと判断している事柄とは矛盾する事態を主張しているのであって、逆に言えば「『真』だと判断する」という意識が必然的に要請される。

 彼女の場合は単に、私たちが行為と対応していると信じている意識とはべつの原因から、喉と唇が動かされているという話なのである。

 などと考えながら歩いていると、いつのまにか手元のアイスバーはただの棒になってしまっていた。

 

「ま、信じてもらえないだろうとは思ったけど」

「いや、信じるよ」


 だいぶ溶けてしまっていた美花のアイスがぼとりと地面に落下する。

 私はちょっとだけ苛立ちを覚えた。そんなに驚くなら最初から話すな、と言いたい。


「……なんで?」


 ほらきた。これだからこの女は。面倒ったらありゃしない。

 私はため息を一つついて、


「美花は嘘をつかないからね。これが初めての嘘だとしたらちょっとつまらないし、そもそも嘘と真実を検証する手段がない。ついたとしても、そういう嘘はつかないし、つく意味がない。だから、信じる」


 一息で答えると、相変わらず美花は目をまあるくしていたが、


「言って良かったかも。結構緊張した」


 と言って、顔を綻ばせた。

 それを見ているとつい私の頬も緩んでしまう。

 長身の美少女とちび女子大生がへらへらしながら歩いている様は、他人の目にはどう見えるのだろうか。

 さすがに人目がないことは確認済みであるけれど。というか人込みの中でこんな戯けた話は美花もしないだろう、と思う。

 そろそろ分かれ道が近づいている。

 ふと、どうでもよいけれど少しだけ気になる問いが、頭の中に浮かんだ。


「そういやさ、他の人にはもう言ったの? お母さんとか」


 美花は首を横に振った。その表情は長い髪に隠れて見えない。


「ふうん。なんで私にだけ?」


 ぴたり、と美花は足を止めた。つられて私も停止する。

 ややあって、半歩前に立つ彼女は振り向く。

 きれいでおおきな美花の目が、わたしの瞳をまっすぐに貫く。


「なんでだと思う?」


 答えに窮して、私は沈黙した。

 答えにくいからではなく、答えがまったく見つからなかったからだった。

 無言で首を傾げたが、彼女は微笑むばかりで回答をくれなかった。

 彼女が歩き出し、私もすぐ隣に追いつく。


 すぐに、交差点。私の家はまっすぐ行った先。右に曲がれば美花のそれである。

 私たちの足はゆるやかに停止する。


「じゃ、また明日」


 別れの挨拶に鼻と仕草で返事をすると、美花は手を軽く振って自らの帰宅路に進んでいった。

 暮れる日の眩しさに目を細めながらも、私はその背中をしばらく眺め続けていた。

 

× × ×


 ゾンビ告白から数日。私は無意識のうちに、美花の挙動を観察していた。

 それに気付いたのは、『近代史演習』の授業開始直前、彼女が座っていた机から落ちたノートを即座に拾ってのけた時である。

 私たちはそれぞれ別の人と話していたはずなのに、私の腕は即座にかつごく自然に動いてしまった。

 一部始終を見られていたら明らかにストーカーとして法の(あるいは校則の?)裁きを受けざるを得ない状況であったが、幸運にも誰にも気づかれずにすんだ。美花以外には。


「……はい、どうぞ」

「…………ありがと、綾」


 たっぷりと置かれた間は、明らかに美花が抱く不信感の現れである。

 別に、彼女がゾンビだから、何か恐れを抱いているとかではない。

 そこははっきり言ってどうでもよく、むしろそのことを私に告げたことの方に、私はなにかもやもやとした感情を抱いていた。

 なにかを求められている、そんな気がするのだ。そうでなければあんな話をするはずがない。

 だから私は研究室に戻った後も、注意深く彼女の表情を解釈する。今度は美花にばれないように。

 あ、今の可愛いな。ってそうではなく。

 瞬き、目線、眉の上がり幅、言い淀み、首の動き。

 顔だけに表情は現れない。指の動き、歩幅、座り方と立ち方、髪を整える挙動。

 風子先輩。

 あれ?


「綾ちゃん何してるの」


 風子先輩は私だけに聞こえる小声でそう囁いた。


「あっすいません悪いことなんてなんにも」

「ふうん。楽しそうだけどほどほどにね」


 そう言うと風子先輩は、思いの外あっさりと私のそばを離れていった。

 危ない危ない。割と気配を隠していたつもりだったのだが、さすがにばれるか。そろそろ止めにしておくとしよう。よーく見てみると、風子先輩はときたまこちらを逆観察している。ミイラ取りがミイラになるとはまさにこの事。


 ともあれ、現状報告をしておくべきであろう。

 全般的な振る舞いから予測される美花の心情。長い付き合いから得た心理判断の結果。


 憂い。

 何に?

 自らに心が無いということに。

 心が無いのに、どうやって憂うのか。何を、ではなく、如何にして。


 私は、美花の言葉をそれなりに信じている。

 彼女に意識は存在しない。脳が送った電気信号に従って動く肉の塊。

 彼女がそれであることを、完全に否定できる材料を持っているわけではない。

それでも彼女の振る舞いは、否応無しに私の心を騒がせるのであった。


× × ×

 

 遅い。

 構内のカフェで吐き気のするほど薄いカフェオレをすすりつつ、その恨み言を既に100回は繰り返した。嘘だ。多分10回に満たない。

 幼馴染みで同じ高校から同じ大学の同じ学部の同じ研究室に進学した私たちだが、同じ授業ばかりとっているわけでもなく、また同じサークルに属している訳でもない。大学での用事が終わる時間は、曜日にもよるけれど、一致しないことも少なくない。

 ただ、たとえば木曜日などは、たいてい一緒に大学を離れることにしている。帰り道も途中まで一緒であるからだ。

 4限で木曜日の授業が終わる私は、5限の「現代哲学講義」を受けている美花を、このくそったれなカフェで待つことにしている。

 なぜこんな場所で待つのかといえば、このどうしようもなさが大学行政の行き詰まり、無策さ、噛み合わなさを見事に表現しているように思えて、実のところそれなりに気に入っているからである。ときに芸術は創造主の意図から自由なところで、その真の価値を輝かせるのだ。まあ、この場合は無価値を鈍らせているというべきなのだが。

 それはともかく。

 いつもなら美花は、私が文庫本一冊を読み終えるかどうかというタイミングでこのカフェにやってくる。もちろん何も注文せずに、私と多少会話を交わしたり、あるいは私が本を読み終えるのを待ってから、二人そろって家路につく。遅れたり用事が入ったりする場合には必ず私に連絡を入れる。

 すなわち、ただいま絶賛異常事態発生中というわけだ。

 とは言うものの、たまにはそういうこともあるだろうと、私は5限終了から一時間程度は待機していた。人類の味覚の閾値を調査せんとばかりに糞不味いカフェオレを250円も払って買ってまで、だ。

 それでもいい加減我慢の限界である。

 そろそろ動くべきだろう。帰るわけではない。あの子は必ず、この構内のどこかにいる。

 たぶん、私を待っている。わがままなやつ。甘ったれるな、と説教するのが当然である。

 だけど残念ながら、私は昔から、美花には奇妙に甘いのだった。


× × ×


「あ、来たんだ」


 近隣で一番高見にある大学会館の屋上。

 そこと階段の踊り場とを分かつフェンスの向こうに、案の定美花は立っていた。私の姿を認めるとひらひらと手を振る。

 

「割と待ってたんだけど。よっと」


 私の腰ぐらいの高さの柵を一息で飛び越える。

 大学会館の屋上は、通常入ることはできない。ただこの「できない」は規範的な意味であって、物理的な不可能性を示しているわけではない。フェンスをよじ登って無理矢理階段を上っていけば、あっけなくたどり着くことができるのだ。バレたら怒られるだろうけど。

 半年くらい前だろうか、ここが登頂可能であることに気づいたのは。私は即座に実践しようとし、美花は止めたけれども、結局一番そのスリルを楽しんでいたのは彼女だった気がする。

 ここに居るだろうという予測は合理的推論から導かれたものではない。直感だ。

 ここからは、いろいろなものがよく見える。


「ラ・タンのゲロ以下のカフェオレを飲んでまで待ってたんだよ。責任取って欲しい」

「ああ、噂には聞いてたけどそんなに不味いの、あれ」

「最悪だよ」

 

 下らない会話を交わしながら、私は美花との距離を詰めていく。

 すこしだけ、警戒をしていた。この屋上は本来誰かが立ち入ることを想定していないせいか、地上への落下を防ぐための設備がろくに整っていない。

 彼女の目的が「それ」であるなどとは信じたくないけれども、その可能性が実現したら、たぶん、私も同じ道を辿ってしまうくらいには傷つくだろう。それは嫌だ。

 幸いにも、そうした警戒は杞憂のまま終わった。

 彼女はほとんど身じろぎさえせずに、私が隣まで来るのを待っていた。

 いまさら気付いたのだが、彼女はスマートフォンから伸びるイヤホンを耳に差し込んでいる。


「それを明るく見せているのは太陽だけ」


 美花は唐突にそう呟いてイヤホンを外した。

 視線は未だ交差しない。


「だれ?」

「オドリスコル」

「聞いたことないなあ、だれそれ」


 彼女は答えずに鼻でかすかに笑うだけだった。私としてもさして興味がないのでそれ以上は問わない。

 実花は私ではなく、遠く小さい町並みに目を向けている。私は口を開く代わりにただじっと美花と視線を平行させた。視界の縁に互いの視線がかすかに走っているような、そういうちりちりしたものを、私とそしてたぶん美花も感じていた、と思う。

 数時間前まで日差しに焼かれていた屋上の空気は、夏の匂いをふんだんに溜め込んでいる。忍び寄る闇ではここを浚うには十分ではなく、再び大気の清らかさが戻ってくるには秋の到来すら待たねばならない。


「で、なんで」


 その質問の答えは、それまでの会話ほどあっけなくは出てこなかった。

 私は実花の顔が見たくなったけれど、そうすればきっと彼女も同じように振る舞ってしまうだろう。たぶんそれは回答を急かしていることと同義であり、私にとってはあまり望ましいことではなかった。

 彼女の気持ちも似たようなものだったのだろう、すぐには答えてくれたわけではないだろうけど、無視するわけでもなく、静かに私の隣に佇んでいる。

 やがて美花は、彼女の自宅がある方角を向いて、


「私、ゾンビなんだってさ」


 と呟いた。


「心が、意識が、クオリアが欠けた存在。その私は、でもそのことにずっと気付かないでいた。当たり前だけどさ、気づいちゃったら哲学的ゾンビじゃないから。でも……」


 それは既に告白ではなく確認である。私たちの共通理解。彼女は哲学的ゾンビだ。

 彼女はまだ、こちらを見ようとはしない。

 その瞳には確かに、私たちにはなじみ深い三原町の姿が映っているはずだ。

 だがそのイメージが、彼女の中に像を作っているかは、私には分からない。

 

「私が見てきたもの、私が感じてきたもの、私が思ってきたことのすべては、一体何なんだろうね、って。今、こんなにも寂しい気持ちを、いったいどこに収納すればいいのかな、って。偽物の感情だったら、私はそんなに悩まなかった。そうじゃないんだ。私がいきいきと感じているまさにこれが、本当は存在しない。そのことを消化できないんだ」


 今私が感じているこれ。

 心臓のあたりを柔らかく、しかし力強く握られているような、これ。

 喉の根元、気道の深い部分が縮こまっているような、これ。

 目の裏側で何かがわだかまっているような、これ。

 これが、無い。いや、これらは有る。

 だけど、それに対応するもの、それを感じる何か、それが美花には、無い。


「みんなには心がある。当たり前だけど。私にはそれがない。ほかの人のまねをして、すごく正確に振る舞うことができる人形みたいなものだから。……自分がそういう生き物だってこと自体、すごく気持ち悪いなって思う。でもそれ以上に、その気持ち悪さ自体が本当は存在しないってことが、……どうやって振る舞えばいいのか、分からない」


 美花が体を動かしたのが、風を通じて感じられた。

 私が目をやると、彼女のそれとばっちりかち合う。

 それは回答を求めている。

 ふざけるな。

 私は心が読めるわけではない。読めたとしても、あなたに心はないのでしょう。

 だったら私は、あなたのことなど気にせずに、私の思うままに言葉を綴るほかないのです。

 そうすればあなたは傷つくかもしれない。

 心はなくても悲しそうな顔を作るでしょう。それは私には耐えられない。

 まあ、耐えるのだが。

 私は屋上に腰を下ろした。まだちと熱が残っている。


「私には、美花の悩みは理解できない」

「だよね、綾には心があるもの」


 まずはジャブ。

 適切な反応。こいつわかりやすいな。拗ねやがって。

 だったら私も捻くれた答えを投げ返してやるよ。


「美花に心は存在するよ。たぶん、私と同じ程度には」


 すっと彼女の顔から表情が消えた。

 夏にはちょうどよい冷たい表情だ。そういうのも嫌いではない。


「信じるって言ってたはずだけど」

「美花がそれを信じているってことは信じている」


 それは、美花に心がないことを信じているということとは全く別のことだ。

 非常にシンプルなことである。

 とはいえそれでもやはり美花は不満げに眉を顰めていた。 

 彼女が口を開こうとする瞬間、もう一言付け加える。

 

「ところでさ、私もゾンビかもしれないよね」

「は?」

「その可能性、いかで破棄すべし」


 私が心を持っていること、意識を持っていること、なにかを考えているということを、私以外の誰が理解するなどということがありうるだろうか? 

 今こうやって私が考えているということ、この表象、この感情、この内的意識は絶対に私秘的であって、それこそ神様でもない限り知ることはできない。

 だからそういうのは、どうでもいい。


「私さ、実は一発で美花の居場所当てたんだよね。絶対ここにいるって。凄くない?」

「凄い……、けど自分で言う、それ?」

「へっへっへ。というのもね、美花が自殺でも考えてるかと思ったんだ。なんか最近やさぐれてたし」

「心配しすぎ」

「そうだね。ただ、もしそうなったら悲しい。凄く悲しい。美花の事を大切な友達だと思ってる」

「……知ってるよ」

「何を根拠に?」


 できるだけ冷たい声音で言ってやったおかげか、美花はあからさまにぎょっとしていた。

 ああ、良い。その表情、私はとても好きだ。

 別にそれが目的という訳でもないけれど。


「私の唇は確かにそう動いたし、私の足はここに至った。で、それで? 私があなたのことを友達だと思っているという証拠になりますか?」

「……なるよ。なるでしょ」

「なるとすれば、それが『心』だよ。少なくとも私たちが尊重すべき他者の『心』は全く物理的なもので構成されていると私は思っている。内面というものはその人が見えなかった部分の寄せ集めであって、存在していない部分ではない。誰からも隠していて、全く肉体に影響を与えることもない、本当の心があるとすれば、そんなもの、私の人生に関係ない」


 だから、他人のそれなど、どうでも良い。

 そんなものは、他人を慮る動機にはならない。少なくとも私にとっては。


「私を動かすのはいつも物理的な何かだよ。悲しそうであれば手を差し伸べる。辛そうだったら助けてあげる。悩んでいたら一緒に考える。本当に悲しんでいるかどうかなんて関係ない。判断が体を動かすんじゃない。私を動かすのは、いつも私の知覚だよ」


 のどが渇いた。くそ、もっとたくさんカフェオレ飲んでおけば良かった。いや、あんまり関係ないか。

 ともかく私の話はもうおしまい。あと一言だけである。


「だから、美花の内面が存在するかなんて、私にはどうでも良い。あなたに心がなかったとしても、私はあなたの友達だ」


 二言になってしまった。二つ目の文章は付け加える気がなかった。顔が熱い。夏か今は。

 正直に言えば、私は美花の問いに真っ正面から答えたわけではない。

 それは私も知っている。

 だけど、そもそもその回答は彼女だって求めているわけではないだろう。

 彼女が私にそれを告白した理由は、もっと別のところにあるはずだ。

 口に出せない、我が儘な問い。

 だから私は、その予想した動機に答えたつもりだった。

 ……よく外れる私の予測だが、幸運にも今回はそうではなかったらしい。

 間違っていたのは方向性ではない。量だった。


「……私はそんな風には生きてない。そんな風に、綾を助けてあげたことなんかない。あなたの友達でいられるほどの感情を、あなたに見せたことはないよ」


 ははあ。まだ言うか、こいつ。

 なら実践するしかない。

 私は立ち上がる。


「……綾?」


 この屋上は本来誰かが立ち入ることを想定していないせいか、地上への落下を防ぐための設備がろくに整っていない。

 だからこうして縁まで近づいても、空中と私を隔てるものは何もない。ちょっとした段差があるだけだ。

 地上を覗き込む。あ、怖。ああああ、足がぞくぞくしています。顔がにやけてしまいます。

 段差に脚をかける。まだ動かんか。ま、演技だなって思いますよね。

 じゃあもう一歩かけましょう。

 頭の天辺からつま先まで、すっかり中空に暴露している。

 死ぬほど怖いね。なんせもう一歩踏み出したら地獄行きですもの。


 「動かないで」

 

 震える声が後ろから聞こえる。


 「絶対、動かないで」 


 でも遅い。馬鹿だなあ、私はそうと決めたら絶対に成し遂げてしまう人間なのだ。それくらい、あなたも知っているだろう。

 せいぜい私が落ちてから泣きわめけ。

 その振る舞いこそがあなたの私への好意の証に他ならない。

 この世には、それ以上尊重すべきものなど存在しない。

 

 ……といってもこの下、実は少し張り出しているのだけどね。だからまあ、丁寧に降りれば安全である。そっちにはちゃんと柵がある。

 さ、私におまえの『心』を見せてくれ――。


 などと浅はかなことを考えていた私は、ある一つの事柄を忘却していた。

 美花は、とてつもなく、脚が早い。

 それこそ私が最後の一アクションするまでに、その距離を詰めてしまえるほどに。

 それを思い出したのは、首元が捕まれて引っ張られたまさにその瞬間だった。


 「ぐ」が出る。

 私の背後、すなわち屋上に体が叩きつけられる。

 身体が軽やかに跳ねる。なんだそれ。

 ようやく「え」が出た。

 背中が滅茶苦茶痛い。息がし辛い。

 目がちかちかする。

 

「二度と」

 

 声が聞こえたころ、ようやく知覚が取り戻される。

 涙で霞む視界の先には、すでに帳の降りた空に浮かぶ、美花の鬼のような形相。


「二度と、そんなことしないで」


 意識がない。なるほどね。

 そうだとしても、私はその顔を作らせないために、あなたを大事にするつもりなんだ。

 それは言葉にするのが少し恥ずかしかったから、代わりに、

 

「ごめん。もうしない。冗談だよ」

「綾が死ぬなら私が殺す」

 

 怖い。しかも真実味がすごい。

 この子は絶対私を殺しにかかってくるだろうという気迫を感じさせられる。

 美花は私のそばにしゃがんだ。そのとき私の頬に、なにか液体が落ちてきた。さすがに雨とは思わない。

 舐めてしまおうかと悪戯心がわくが、さすがに引かれては困るので、代わりに人差し指で掬い上げる。

 美花に差し出すように近づけて、


「私にとっては、これが美花の『心』だよ。今私が倒れ伏しているまさにこのこと、それがあなたの『友情』だよ」


 結局のところ、私が伝えたかったのはそれだけだった。

 だったら冷たい言葉をぶっかけて、彼女を傷つけてやっても良かったのだけれど……。

 実は私、美花には嫌われたくはないのである。


 さて、その言葉は彼女にいかなる影響を与えたか。

 感動しているのではないだろうか……という甘い見積もりは、当然外れた。

 彼女はいまや、すっかりあきれ果てた表情をしたのであった。


「……ごめんなさい。綾はそういう極端に走る人間だって知ってたのに」

「そう……いや、それはどうだろ。そういうタイプでは」

「振る舞いから判断するとそう思わざるを得ないんだよ」


 思い返す。

 ぐうの音もでない。

 そうか、私結構極端なたちなのだな。


「……なんか、下らないことで悩んでいた気がしてきた。こんな馬鹿な人がこの世に存在するなんて」

「悩みが無くなるのならそれは良いことだと思うよ」

「全然良くないよ。いつも思っているけど、実はやっぱり綾の方こそ心が無いんじゃない?」


 あり得る。なんせ自分の意識は自分だけにしかわからない。

 私の心を読み解ける人など、この世のどこにも居ないのだから。


「……まあそれが、綾の言うところ『心』そのものなんだとは思うけど」


 彼女は私の手を握り、引っ張り上げた。若干つんのめりながらも私は立ち上がる。

 彼女は手を離さない。私もあえて振りほどいたりしなかった。

 なぜか見つめ合う格好になってしまう。

 不意に、彼女は頭を下げた。なんじゃらほいと訝しむ私に、


「ごめんなさい、心配かけて。……実は、綾が全然まったく気にしてないようにしてたから、それを結構気にしてた」

「うん、知ってた。実際気にしてないのは分かってくれた?」

「……面倒なやつ、って思わなかったの?」

「思ったよ。でも別に、これくらいどうってことないし」

 

 当然だ。何せ幼なじみで、友達だ。この程度のことは普通に許容範囲内。

 あとはまあ、いろいろな感情が複合している。

 そのいろいろを、ここで解き明かすのは少し恥ずかしいけど。

 

 美花は微笑んで、それにつられて私も笑った。

 何が面白いのか、彼女はふらふらと腕を振り、やがてぴたりとそれを止めると、


「実はもう一個、告白しなければいけないことがあります。驚かないで聞いてくれますか?」


 はてさて一体全体なんでしょう。ですがご安心めされい、いまさらどんな告白を受けたところで、驚いたりなんかしやしません。

 私がうなずくと、彼女は深く深呼吸して、


「好き」


 「あ」は、出てこなかった。


「すごい顔」


 そうなのか。そうなのだろうな。私にはいまいちわからないけど。そうか。へー。

 美花は笑っている。その眼に不安をちらつかせて。

 だから私にも、その「好き」という言葉の意味が正しく理解できた。

 ふへ、へへへへ。へへへへへへ。どうしたもんかね、こりゃ。


「まじ。まじか。それは……。うん。嬉しい。嬉しいと思う」

「本当?」

「いや、その。うん。あははー、告られたの初めてだよ。どう返せばいいと思う?」

「綾が、思った通りに」


 そうだ。私たちには心がある。

 だから、それが求めているままに、言葉に出してしまえば良い。


「私も好きだ。愛してる」

「えー、そこまでは求めてないっていうかー」

「あっひどい!!!!あんた人の心というものを持ってないな!!!」

「そうだよ。だって私、ゾンビだもの」


 彼女は手を離し、一歩下がってくるりと回った。


「心がないゾンビだけど、綾は私を好きでいてくれる?」


 もう一度、手を伸ばす。

 私から手を握ってくれという意思表示。

 面倒なやつだね、この女。


「さっきも言ったけど、私は人を中身で判断するようなタイプじゃないんだ」

「ああ、振る舞いで判断するってこと?」

「違う違う」

「……だったら何で判断するの?」


 決まっている、そんなこと。

 私は彼女の手を握る。


「顔」

「え」

「顔だよ」


 常識的な回答だと思ったのだが、美花にはちょっと不可思議だったようだ。

 ロボット、いやゾンビだろうか、とにかくそういう非人間的なぎこちない動作で、自分の顔を指さした。

 ははあ、気になりますか、そうですか。


「すごく可愛いと思う。特に鼻の形がすごく好き。眼も好き。あっ痛い、痛いって。なんで叩くのさ」


 一分くらい彼女は私をたたき続けた。

 面倒になった私が「嘘嘘、全然かわいくない」と言うと、彼女の打撃はいっそう激しくなった。理不尽である。

 三分ほどたって、ようやく彼女は手を止めた。

 なにもかもが終わったかのように、深く深くため息をついた美花は、


「帰りますか」


 と私に告げた。異論は全くない。シャワー浴びたい。


「お父さん心配してるかもね、あの人過保護だし」

「別にそこまで遅くもなってないし……」

「父親というものは普段との少しのズレに喧しく口を挟む物だよ」

「それたぶん綾のお父さんだけじゃないかなあ」


 だべりながら階段に近づく。柵をよじ登り、踊り場に柔らかく着地する。




「              」




 声が、聞こえたような気がした。


「なんか言った?」

 

 私は振り返って美花に問うたが、柵の向こう彼女はかわいらしく小首を傾げるばかり。

 空耳か幻聴か。いずれにしても、別に気にするほどのことはない。

 

 その後私たちは、時間的には普段よりだいぶ遅くはなったけれども、いつものように並んで家路についた。

 特に変化もなく、日常の連続性には傷一つついていない。

 今のところは、と付け加えるに値するものはあるけれど、そこから先はなるようになるほかあるまい。


 結局私たちにとっては、彼女が「ゾンビ」であるということは何の意味も持たなかった。

 あるとすればただ、後で思い返したら顔が熱くなるであろうことを、私がうっかりしでかしてしまったこと位なのである。


(『哲学的ゾンビの恋: 彼女の意識あるいは世界A』おしまい)


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