第5話:東京マラソン
東京マラソン
2007年2月18日朝8時、新宿の東京都庁前は、大勢の人でごった返していた。
みぞれ混じりの冷たい雨が降りしきり、こんな天気の日曜日は、いつもなら傘をさした人が時折、行きかう程度で閑散としているのだが、この日は特別だった。
近年のランニングブームにより、都心部でのマンモスマラソンを望む声は大きかったが、交通規制などの問題で、なかなか実現されなかった。先進国の主要都市で、マラソン大会が無いのは東京だけ。そんな叫びも届かず、叶わぬ夢と化していたイベントが、この日、実現されようとしていた。生憎の天候にも関わらず、スタートの号砲を待ちわびるランナーからは、湯気が立つほどの熱気が感じられた。
そんななか、翔子はいつものように目深に帽子を被り、薄手のトレーニングウェアをランニングシャツの上から纏い、ロング丈のスパッツに手袋、そしてアームウォーマーという出で立ちで黙々とウォーミングアップを行っていた。スタート地点で時折起こる歓声など、まるで聞こえないかのように、自分の世界に入り込んでいた。時間にして20分くらいであろうか、ウォーミングアップが終わると、トレーニングウェアを荷物にしまいこみ、ゴール搬送用の受付に預けた。
スタート30分前になると、スタート位置に着くようアナウンスが繰り返されるようになった。翔子は冷たい雨が降る中、静かにスタートラインに付いた。そして胸元に輝くロケットを右手でそっと握り締め、目を瞑って、額にかざした。その瞬間、これまで静かだった心の中がざわめき始め、堪えきれない感情がこみ上げてきて、一筋の涙がこぼれ落ちた。
幸子は、沿道で背伸びをするように翔子を探していた。本当はスタート前に会い、言葉を交わしたかったのだが、想像以上の混雑で、なかなか前へ進むことが出来ず、遅れてしまい、会うことができずにいた。スタートラインについている大勢の選手の中から翔子を探し出すのは容易なことではないと思ったが、諦めずに探していると、背の高い男性ランナーの中に、薄い水色のランシャツを来た女性が目に入った。凛とした雰囲気を漂わせて、立つ、その姿は間違いなく翔子だった。翔子に声を掛けようとさらに近づくと、今までに見たことの無い翔子の姿がそこにあった。
翔子の様子は明らかにいつもとは違っていた。下を俯き、手袋をはめた右手で涙を拭うような仕草は、今までに見たことの無い光景だった。間もなく始まる大レースの感動などではない。明らかに何か悲しみを抱えている。そんな雰囲気が感じ取れた。翔子に何があったのか? 声を掛けたかったが、周りの人を近づけない雰囲気を醸し出しており、結局、幸子は声を掛けることができなかった。程なくカウントダウンが始まり、スタートのピストルが鳴り響いた。東京で行われるマンモスマラソンの歴史的瞬間が訪れていたが、幸子には翔子の涙が気になり、周りの盛り上がりなど感じ取ることはできなかった。幸子は見てはいけないものを見てしまったような気がしていた。
新宿の都庁前は、大歓声が沸いていた。この日を待ちわびていたランナーが一斉に動き出すと、それは水かさが増した川のようでもあった。多くのランナーは、沿道に手を振り、笑顔を振りまきながらスタートラインを超えていった。都知事に向かって、感謝の言葉を送るランナーも居た。冷たい雨が降る、悪コンディションにも関わらず、どのランナーも楽しげであった。それまで俯いていた翔子は、冷たい雨が落ちてくる空を見上げ、雨で涙を洗い流すと、大きな流れにのって、走り去っていった。この瞬間、翔子はいつもの姿に戻り、颯爽と都心の大通りを駆け抜けていったのだった。