第5話:事情(3)
午後9時を過ぎた食堂『風』は、トレーニングウェア姿のランナーで賑わっていた。今日の調子を語る者、次のレースを何にするか相談している者。シューズの履き心地を話題にする者。話す内容は様々であったが、どれもみなランニングに関わることであった。
そんな中、カウンター席では、皇居のジョギングを終えた、幸子と翔子が、焼き魚定食を食べようとしていた。
「本当に駄目なんですよー もう気配を感じるだけで、鳥肌が立っちゃって」
幸子は、興奮気味に言った。
「そうねぇ、好き嫌いがあるのは仕方ないわね。でも仕事だと割り切って付き合わなければいけないこともあるんじゃない?」
翔子は、醤油に手を伸ばしながら喋った。
「だって本当に気味が悪いんですよー。ニヤケタ顔でPCに向かって、時々下をペロっと出して上唇を舐める仕草なんて、トカゲか蛇ですよ。」
幸子は、翔子を見据えて箸すら持たずに語りかけた。
「面白い表現ねぇ・・・ でも良く観察しているわねぇ」
翔子は、納豆を混ぜながら答えた。
「翔子さん、真剣に聞いてくださいよ〜 折角、ホノルルマラソンという楽しみが、出来たのに、これじゃぁテンション下がっちゃいますよ。」
幸子がすがるような口調で言うと、翔子は幸子を見据えて、少し強い口調で語り始めた。
「幸子さん、仕事とプライベートを一緒にしては駄目よ! しっかりとけじめをつけなければ! それから今おかれている状況から逃げたら駄目、きちんと向き合って取り組めば、変わってくると思うわよ。」そう言うと、焼き魚を口へ運んだ。
幸子は、仕事の悩みを翔子に、打ち明けたのだが、翔子は真剣に聞き入れてくれなかった。
それが不満で、幸子は、ほっぺたをぷっと膨らませて、ご飯を目一杯、口に放り込んだ。それを見た翔子は、「良くかんで食べた方が良いわよ。」と小さな声で話し、食事を続けた。
食事が終わると、翔子は大勢のランナーに囲まれ、ランニング談義に加えられていった。幸子は1人取り残されたようで、孤独感を感じていた。
翔子は会社でも、プライベートでも人気者。いつも誰かに囲まれている。それに比べて私は・・・? そんな寂しさを感じながら翔子の話し声に耳を傾けると、『東京マラソン』という言葉が聞こえてきた。マラソンと言う言葉に引き寄せられ、聞き耳を立てると、翔子が東京マラソンに出場するらしいと言う事が分かった。2ヶ月前にホノルルマラソンを走り、その1ヶ月前には東京国際女子マラソン。この4ヶ月の間に3度もフルマラソンを走ってしまう翔子が、とてつもなく凄い人に思え、そう思うと自分が凄く小さく見える幸子だった。
幸子は突然、席を立ち、翔子の方へ歩み寄ると「翔子さん、東京マラソン走るんですか?」と唐突に話しかけた。翔子は仲間達との会話を遮られた事に、戸惑いながら、幸子の方を向き、「えぇ、走るわよ。」と答えると、幸子は「私、そんなの初めて聞きました。」と不機嫌そうな表情を露にして詰め寄った。「幸子さんゴメンナサイね。黙っていて。でもね、私にとってフルマラソンを走ると言うことは、そんなに特別な事ではないのよ。別に隠しておくつもりはなかったの。もし良かったらレースを観に来てくれない? どこかで私の走る姿を見守って応援してくれないかしら」 そう言って幸子の目を見つめると、翔子の機嫌はすっかり治り、東京マラソンの応援に行くことを約束していた。
食堂『風』からの帰り道、1人になった幸子は、今日起きた事をいろいろと考えた。田島一平とプロジェクトが一緒になってしまったこと。それが嫌でプロジェクトリーダーを幸治に替えられないかと提案したこと。それが聞き入れられず一平に睨まれたこと。翔子に仕事の不満を打ち明けたが、同情してもらえなかったこと。翔子に不機嫌な態度を取ったこと。それに対して、優しく翔子が接してくれたこと。思い起こすと、今日、自分の取った行動の全てが情けなく思えてきた。そして、翔子の言った「今おかれている状況から逃げたら駄目!」という一言が妙に胸に響いた。