第4話:事情(2)
翔子との初練習から1ヶ月が過ぎた。寒さは厳しさを増し、布団から抜け出すのが、より一層厳しい2月に入ったが、幸子のランニングに対する情熱は、衰えていなかった。
週末には、翔子と一緒に皇居をゆっくりと長く走り、平日、仕事を早く切り上げられた日には、会社帰りに皇居を1周するのが習慣になってきた。最初は3分走ったら、3分歩いていたが、それが5分走って、3分歩くというサイクルに上達し、今では30分程度なら、走り続けられるようになってきた。
翔子と接するようになってから、食生活も変わり始め、大好きだったスナック菓子や、インスタント麺は、食べなくなり、間食の回数も減ってきた。僅か1ヶ月の間で、体重も2kg減り、心成しかウエストも引き締まってきたように思えた。
そんなある日、幸子は上司の屋沢栄二に呼ばれ、会議室に入った。屋沢栄二は、50代半ばのベテランSEで、高校を卒業して、この仕事に就き、今に至るわけであるから、30年以上の大ベテランである。SEという職種は、ある時期は30歳寿命説が唱えられるような職種で、多くの技術者が、この年代を境にして転職していくか、出世して管理職へと移行して行くのだが、栄二は、この仕事が心底、好きであるため、常に新しい技術を取り入れ、管理職となった今でも、現役SEを続けている仕事人である。
それでいて、若い社員との付き合いも上手く、飲み会などあれば、率先して出席し、とことんまで、若者に付き合うと言う、誰からも親しまれる上司であった。外見は小太りで色黒。いつも何かを考えながら歩いていて、どこか憎めない、気のよいおじさんタイプであった。幸子も栄二の事は大好きで、親子のような接し方をしていた。そんな栄二が何人かの部下を連れて、会議室に入っていった。その中には、幸子がもっとも苦手とする後輩、田島一平も含まれていた。
田島一平は、某有名私立大学の大学院を卒業して、入社したSEで、大学院時代から会社に顔を出し、アルバイトをしていた。IT関連の事に精通し、入社早々、小規模なプロジェクトを任されるなど、会社にとっては、期待の存在であった。
細身の身体で、銀縁のめがねをかけ、一点をみつめて歩く様を見るにつけ、幸子はまるで爬虫類のようだと思った。また、パソコンに向かって、薄ら笑いを浮かべた顔で、キーボードを叩く姿をみると、鳥肌が立った。何が嫌いと言う訳ではないのだが、生理的に受け付けなかったのだ。 「彼とは一緒の仕事をしたくない。」それが幸子の願いであったが、その願いは叶えられない状況になりつつあった。
会議室に集ったのは、全部で6名。屋沢栄二を筆頭に、田島一平、鈴木幸子、同期の小林幸治と、残りの二人は今年の新入社員だった。色黒で、お腹の突き出た、栄二がワイシャツの袖をめくりながら立ち上がり、新しく始まるプロジェクトの概要を説明し始めた。
「来月から始まる新プロジェクトは、大手外資系金融機関のシステム構築で、納期は11月末。メンバーはここに集まってもらった、私を除く5名で、プロジェクトリーダーは一平。詳細については、来週の水曜日、客先にて打ち合わせを行うので、その場で・・・ 以上」と必要最低限の事を言い放つと、栄二は椅子にどっぷりと腰を掛け、背もたれに身体を預けた。
幸子はこの知らせを聞き、2つの不安を感じた。1つ目は納期が11月末と言うこと。ホノルルマラソンは12月の第2日曜日。納期どおりに終われば問題ないが、もしも延びてしまったらという不安。そして、もう1つはプロジェクトリーダーが田島一平と言うことだ。
「彼とは一緒の仕事をしたくない。」 その一平と同じプロジェクトに組み込まれた挙句、後輩である彼の指揮下で、仕事をしなければならないと思ったら、ぞっとしてきた。あの爬虫類のような目と向き合って、仕事をするなんて考えられない。何とか逃れる術はないかと、出席者の顔を見渡した。
居た! 幸治がいた。幸治は一平よりも先輩で、プロジェクトリーダーの経験もある。幸子は意を決して、栄二に質問した。「何故プロジェクトリーダーは田島君なのでしょうか?小林君のほうが経験豊富だし、年上なので適任だと思うのですが・・・」 この問いかけに栄二はふーっと、ひとつため息をつき、「どっちでも良いんだけどねぇ。クライアントの意向なんだよー。幸治、悪いな。」と苦笑いを浮かべて言うと、幸治は「別に僕は構いませんよ。」とあっさりと言い放った。
幸子の望みは絶たれた。そして、妙に突き刺さる視線を感じた。視線の方を向くと、一平がニヤリと笑い、幸子を見据えていた。「宜しくお願いしますね。」一平の言葉に幸子は凍りつくような、感覚をおぼえた。それはまるで、蛇に睨まれた蛙のようでもあった。
会議室を出た時の幸子は視線が定まらぬほど、ショックを受けていた。これから10ヶ月以上、あの爬虫類男と仕事をしなければいけないのかと思うと、憂鬱で仕方がなかった。一平がリーダーで、その下に幸子と幸治。そしてその下に新入社員という構図を頭の中で思い描くと、これからどんな苦難が待ち受けているのか、容易に想像できたからであった。
ホノルルマラソンという輝く舞台を目指して、歩みだしたのに、今おかれている現実が重く、のしかかってきていた。
筆者、ホノルルマラソン出場の為暫く連載を中断いたします。
12月20日以降、再開する予定です。