第1話:高揚
2007年1月9日、幸子にとって新年最初の出社日。例年ならば、ひどく落ちていて憂鬱の塊のような、顔をして電車に乗っているのであるが、今年はちょっと違っていた。昨日見たテレビ番組『ホノルルマラソン』が元気の源となり、出口の見えないトンネルに光が差し込んできたような気分だった。通勤電車の中では、目の前の座席が空き、いつもなら、間髪入れずに腰を下ろすところを、ぐっとこらえて、隣に居たおじさんに笑顔で譲った。そしておじさんの会釈ひとつで、なんだか気分がよくなってしまうほど、高揚していた。
オフィスに着き、ひと通り、新年の挨拶を済ませると、幸子はひとつ上の先輩である、白鳥翔子の席へと向かった。翔子は、すらっとした身長で細身の身体。涼しげな顔立ちで、いつも凛とした雰囲気を醸し出しており、プロジェクトリーダーをさらっとこなす。それでいて、いつも余裕があり、周りへの気配りができるという、幸子にとっては憧れの先輩であった。しかしながら翔子との接点は少なく、普段はあまり喋ることがない間柄であった。
「翔子さん、去年のホノルルマラソンに出場されていましたよね?」幸子が様子を伺うように話しかけると、突然の問いかけに翔子はあっけにとられた。翔子はランニング、ヨガ、エアロビクス、水泳など身体を動かすこと全般が、趣味なのだが、その中でもホノルルマラソンは、大学の卒業旅行以来、ずっと出場し続けている特別なイベントだった。その特別の思いがあるホノルルマラソンについて、普段あまり話すことがない後輩から、しかも新年早々、突然、質問されたものだから、日頃、冷静な翔子も、一瞬戸惑ったのだった。
「えぇ、出場したけど、何か?」
すると幸子は、翔子の返事を待ちきれないほどのスピードで、話し始めた。
「昨日、ホノルルマラソンのテレビ番組を観て感動しちゃったんです。私、何かに挑戦したいとずっと思っていて・・・ でもその何かが見つけられず、仕事に追われて、気づいたらもう30歳になっちゃって。そしたら、昨日偶然観た、ホノルルマラソンに参加しているランナー達が、すごく輝いて見えて・・・ 私もあの仲間に入りたい、涙を流すほどの感動を味わいたいって!」
翔子は、さらに話を続けようとする幸子の唇に、そっと人差し指を当て、笑顔で「今日の帰りに食事でも行きましょう!」と言い、話の続きを遮った。
幸子は嬉しかった。憧れの先輩から食事のお誘いを受けた事もそうだが、何よりも今の気持ちを伝えることができたのが、嬉しかった。
新橋の駅前は、サラリーマンやOLが行き交っていた。それでも、年末の混雑ぶりとは違いどこか年の始まり特有の、しゃきっとした雰囲気が漂っているように見えた。殊に幸子にとっては、特別な感情があった。ここ何年もの間、新年の抱負など考えたことは無かったし、初詣に行っても、これといった願い事をせず、ただ賽銭を投げ込むだけだった。でも今年は違う。実家で偶然見た、テレビ番組に感化され、目標を持つことができた。フルマラソンという、全くイメージの湧かないスポーツではあるが、それには、これまで心の中に隠れていた挑戦心をくすぐる、不思議な魅力があったのだ。
会社を出て翔子に連れられて来たのは、これといった特徴のない平凡なお店だった。板で出来た看板には『風』のひと文字が筆字で、書かれていた。店の中に入るとカウンター席が10席、それに4人がけのテーブルが4つ。お世辞にもお洒落とは言えない店の雰囲気に洗練された翔子とのギャップを感じ、幸子は少し、がっかりした。(おしゃれなイタリアンの店なんかを想像していたのに・・・)
カウンターの中では40代半ばに見える店主が日焼けした顔に白い歯を覗かせ、翔子達を迎え入れた。「いらっしゃい! 翔子ちゃん、あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます。マスター、今日の献立は何ですか?」
翔子が尋ねると、「今日は豚のしょうが焼き定食だよ」と店主は得意げに答えた。
「じゃぁ、それを2つ下さい」翔子は幸子に何も聞かずに注文した。
幸子は不思議そうに辺りを見回し、「ここはメニューがないのですか?」と尋ねると、翔子がお店の解説を始めた。
この店は、日替わり定食だけのお店で、店主はランナーである事。そして、お客さんの健康を考えたバランスの良い献立を考えてくれていること。それに店主は北海道縦断レースを毎年完走している市民ランナーの中では有名な存在であること。もうしばらくすると、皇居を走り終えたランナー達で賑わうこと。
翔子は普段、会社でみせるクールな感じとは、全く違う、気さくな雰囲気で、幸子に優しく話し始めたのだった。
「ホノルルマラソンをテレビで観たのだったわね。 それでどう思ったの?」
翔子の問いかけに、「何か良く分からないけど、熱いものを感じたんです。 脚を引きずりながら、歩くように前へ進むランナー達が凄く輝いて見えて。 それにゴールしたランナーの笑顔がすごく素敵で。 うまく言い表せないけど、私にもあんな風に輝くことができるのかな?って思ったら、凄くワクワクしてきちゃって・・・ 勿論、フルマラソンって、そんなに簡単な事じゃないと思うんです。脚だって痛くなるだろうし、呼吸も苦しいだろうし、でも、完走することができたら、何か違った自分を発見できるんじゃないかって」
翔子は、幸子の話しを頷きながら聞き、時折、店主と目を合わせては、微笑みあっていた。
「また一人ランナーが増えたな。おめでとう!」と言って、店主は幸子に握手をもとめた。
幸子はとまどった様子で、店主と握手を交わし、翔子と目を合わせ笑いあった。
この日の食事は楽しかった。普通の豚のしょうが焼きに、お味噌汁とご飯、それから、ひじきの煮物にサラダ。特別なメニューではなかったが、翔子と店主からマラソンの事を、色々と聞き、そのひとつひとつが新鮮で、新しいことに挑戦する意欲がムクムクと湧き上がってきた。先ずはシューズとウェアを買って、まだ寒いから毛糸の帽子と手袋も。色は何色にしようか? いつ買おう? どこで買おう? 想像するだけで楽しくなってきた。翔子からお店の情報も色々と教わった。それにシューズを買うときは、付き合ってくれると言う約束もしてくれた。マラソンを通じて、翔子と親しくなれたのが、より一層、幸子の気持ちを高ぶらせていた。
その次の土曜日、お昼過ぎに、幸子は翔子と神田駅の改札口で待ち合わせをしていた。少し早めについた幸子が、改札口のほうをみつめていると、小型のリュックを背負った翔子が階段を駆け足で下りてくるのが見えた。翔子は、会社で仕事をしている時のスーツ姿とは全く異なり、スポーティーなジャケットを着て、ジーンズを履き、毛糸の帽子を被っていた。ラフな格好ではあるのだが、センス良く着こなされた、その姿で、軽快に走り寄る翔子を見つめていると、最近お腹まわりが、気になり始めた幸子は、とても羨ましく思えた。(私もいつか、あんな風に・・・)
二人は肩を並べて、目的のお店へ向かった。お店へ到着するまでの間、二人の話題はランニングの事に集中していた。翔子は大学時代に陸上サークルに所属していて、卒業旅行で初めて、フルマラソンを経験。それがホノルルマラソンだったという。翔子はこれまでに出場してきた様々なレースの話を聞かせてくれたが、初めてのホノルルマラソンの事は何故か、あまり詳しく話したがらない様子だった。
目的の店は、こじんまりしたお店で、店内にはランニングシューズの箱がうず高く積まれ、3名の店員がお客さんと向かい合って作業をしていた。翔子が1人の女性店員に挨拶をすると、「翔子さん、いらっしゃい。 調子はいかがですか?」と気さくに話しかけてきた。その親しげな会話の様子から、翔子がこの、お店の常連であることが感じ取れた。「こちらがお友達?」と聞かれると、「そうよ、今年のホノルルマラソンを目指しているの」と翔子が紹介してくれたので、幸子は会釈して店員と向かい合った。
店員は、手際よく幸子の足型をとり、足の長さと幅を計測した。そして足の形状に見合うシューズを3足選び、試着させ、履き心地の良い1足を選ばせた。どのシューズもふんわりと足を包み込む感じがあり、これまで履いていたスニーカーとは比べ物にならないくらい履き心地が良かったが、その中から白地にピンクのラインが入ったシューズを選んだ。
「どれもみな良い感じで判断できないので、色で決めちゃいましたけど、良いですか?」と幸子が言うと、店員はにっこりと笑って「それも大事な要素ですから。自分で愛着を持てるデザインのほうが、走るのが、楽しみになりますからね。」と告げた。店員が店長らしき人を呼ぶと、小太りの店長が現れ、幸子の履いているシューズをチェックし始めた。爪先の余裕度や、フィットしている感じを手で触り、チェックした。そして幸子の顔を見上げて「良い感じですね。」と一言伝えた。このシューズに先ほど取った足型から整形したオーダーインソールを装着してくれると言う。完成までには1週間ほど掛かるようで、今すぐにでも走り出したい気分の幸子は、残念がっていたが、「ホノルルは、まだまだ先だから、焦ることはないわよ。来週シューズが完成したら皇居を一緒に走りましょう!」という翔子の言葉に納得したのだった。
シューズの注文を済ませたあとも、二人の買い物は続いた。ランニングウエアに手袋、帽子、サングラス。全てを身につければ、一度も走ったことがない幸子も、一丁前のランナーに変身する。「それにしてもランニングって結構、奥が深いんですね。シューズを選ぶだけでも大変なのに、ウエアなんかも、沢山ありすぎちゃって・・・」幸子の言葉に、頷きながら、「単純に見えるスポーツだからこそ、奥が深いのよ。 道具だけでなく色々とね。」言葉に含みを持たせながら翔子は話した。
二人の買い物が終わり、街路灯を見上げると、『東京マラソン2007』と書かれたペナントが吊り下がっていた。それを見た翔子は、ふーっとため息をついた後、口をキュッと結び一瞬、引き締まった顔をしたが、すぐに元に戻り、幸子と人ごみに紛れていった。