1-2 熊に襲われて
「それにしても静かだな……」
森が静かだ、いつもなら森に入って30分も歩けば何かしらの変質生物に遭遇する。ウサギでもタヌキでもヘビでも、森の中でも浅い場所に住む変質生物は今の俺には大した脅威にはならない。一人で森に入るのは今日が初めてだが、深くまで入らなければ十分な力があると判断されているし、自分でもそう思っている。
「どうしようかな。どう考えても異常なんだけど全く脅威は感じないしな……」
変質生物がいない。それは自らの命を狙う敵がいないと同時に、獲物がいないということだ。獲物がいないと金にならない。それは困る。少し迷うが、脅威度は低いと見てもう少し深く森を歩くことにした。
しかし歩いても歩いても変質生物は見当たらなかった。そもそも変質生物はこちらを発見すればすぐさま襲いかかってくるはずだ。こちらが探しても出て来ないのであれば、それは隠れているとかでなく、本当にいないという可能性が高い。そこまで考えて獲物を探すのを諦めた。引き返してこのことを機関に報告しようと思い振り返ったとき……
そこに化物がいた。
一瞬の静寂。
それは本当に一瞬だったはずだ。だが俺には異様に長く感じられた。
目があった。
まずいと思った、
それは熊のような…………イキモノだった。四足歩行であるのにその頭は俺より高い位置にある。黒く光沢のある体毛に覆われた肉体は確実に、かつ完全に外部の通常の生物を上回っているだろう。結晶化した爪はどんな鉱物より硬そうに見える。あれだったらゾウが相手であっても容易く仕留めてしまうかもしてない。
その化物がこちらをミテイル。
……目があるべき場所から突き出した結晶のような感覚器官がこちらを認識しているのが……
そこまで考えてやっと無限にも引き延ばされたかのような「一瞬」が動き出した。気づいたときには走り出していた。アレから一刻も早く逃れるために。恐怖に突き動かされて、本能にしたがって、ただ生きるために走り出した。
心臓が暴れている。かつてないほどに高鳴っている。心音が耳から聞こえるようだ。ただ走っているから心臓が激しく運動しているというだけではない。それ以上のなにかがある。この肉体が間近に迫った危険に反応して、濃密な死の匂いにあてられて、より一層生への渇望が強まっているのだ。生きることを望み、差し迫った危機を逃れるため、この肉体の動力源として心臓を壊れる勢いで動かしている。
しかし肉体が熱く激しくなっていくのと同時に、頭は恐怖に慣れ、だんだんと停止していた思考回路が合理的に動き出していた。
……なんてことだ。背中を向けて逃げ出すなんて、さっきまでの自分がうらめしい。あの熊の体格を見れば、歩幅とパワーの差ですぐに追いつかれてしまうに決まっている。
まあ仕方ない。あのとき俺の理性は停止し、本能に身をまかせていた。人間として最も重要な武器を放棄し、ただの動物になっていた。
そうだ、人間の武器はその知恵にある。
他の全てで劣っていても、その知恵を用いて効果的に作用させれば遥かに強大な相手にも打ち勝つことができる。それが16年間の人生と、約半年の訓練を通して学んだ俺の根底にある考えであり、恐らく事実だ。
理性を戦略に適用する。
背後の熊を視覚で捉えることはできない。気配で察知する。
なんだ、もう追いつかれたのか。やっぱり逃げるのは下策だったな。おかげで少し遅れたがまだなんとかなるだろう。
俺は背負っていたリュックサックを即座に手放し大きく前に跳んだ。
「……かっ…………あ…………」
手放したリュックサックごと背中を引き裂かれた。痛い。すごく痛い。激痛だ。だが痛いだけだ。痛みから反らしそうになる背中をなんとか抑える。今はまだ空中だ。体勢を崩しちゃいけない。体勢を整えて着地に備える。それて着地したらすぐさま腰からグルカナイフを抜き、足腰を使って体全体を回転させながら……
「斬る!!!」
「グギャアアアアアアアア!!!」
刃は追撃を加えようとした熊の手に当たったようだ。熊は歪な形で結晶化した爪を生やした右手をかばいながら止まった。
見ると熊の右手からは赤紫色の液体がどくどくと流れ出している。俺のナイフが奴の肉を切り裂いたのだ。
よし。いける。
最低条件が満たされた。こちらの攻撃でダメージを負わせることができることが実証された。これではじかれたりしていたら絶望だった。よかった。
自然と笑みがこぼれた。
熊が動き出した。今度は怪我をしていない左手を振りかぶろうとしている。
もう戦略は完成された。
俺は姿勢を低くしながら大きく左足を踏み込んだ。
完成された戦略を違うことなく実行する。
熊の手はまだ振り下ろされていない。そもそも、低く深く踏み込んだ俺は熊の真下にいるのだ。振り下ろしてもうまく当たらない。
戦略の想定通りに進んでいくことに満足する。
熊が焦ったように感じたが、もう遅い。右前足を負傷し地面を強く踏みしめることができず、左前足を大きく振り上げたこの体勢では行動を大きく制限される。
ああ、勝ったな。
踏み込んだ左足を軸に、体を時計回りに回転させ、さらに腕の反動をつけて右手に握ったグルカナイフを熊の喉元目がけて振り抜いた——