プロローグ4:臆病者
翌日。朝目が覚めたマコトはこれまで生きてきて一番と言っても良い程の困難に直面することと相成った。
『夢咲さん。起きられてますか。わずらわしかったらごめんなさい。
まえからずっと思っていたことなのですが、あたしはほんとうに夢咲さんのことが好きです。
夢咲さんはとても優しくて、あたしなんかのことも分かってくれるかたです。あたしが困っていたり、何をしていいか分からなくておどおどしてしまう時、気持ちをくみ取って助けてくれます。
あたしのような、くだらない人間からこんな風に思われてもめいわくだと思いますし、きらわれてしまうかなと思ったんですが、どうしても伝えたかったので、メールをさせていただきました。
面倒でなければ、いつでもかまいませんので、お返事をくださるとうれしいです。
くずりゅう 美冬』
こうなってしまうのか。マコトは妙な諦念を伴ってそう思った。
自分は男で、九頭龍は女。それはたまたまそうだったというだけのことでしかないはずだ。
マコトは自分が九頭龍に対して感じるつながりを特には概念化していない。九頭竜に情念を感じはするが、それを『恋愛』なんてチープなカテゴリーに押し込んで喜ぶ性癖もない。だが、九頭龍は自身がマコトに対して感じてくれているだろう絆を、恋愛感情としたようなのだ。これは厄介なことである。
……厄介? それは、どんな風に厄介なのだろう。
『恋愛』というものをどう扱っていいか分からないからか? もちろんマコト自身、九頭龍のことを女として意識することはある。あれは実際のところ見てくれはいいのだ。女子の嫉妬を買うほどに、割ととびっきり。マコトもなつかれるのは悪い気分ではなかった……ように思う。
そうでなくとも九頭竜のことは人間として好きだし、共に取り残されることに親近感もわけば、情もある。それは間違いない。だが、あれと実際に『恋愛』をするとなると……ほんとうにどうしていいものか分からない。適当にはぐらかしてしまいたいのが本音だった。しかし、深夜一時に送信されたこのメールの返信を、九頭龍が一晩中寝ずに待ち続けているということすら想像できてしまう以上、明確な答えを早いうちに出してやることが必要なのも間違いない。
どうしていいのか分からないままに着替えを済ませて、悶々としながら、マコトは携帯電話の画面とにらめっこして登校する。しかし着いて欲しくない時ほど、早く学校にたどり着いてしまうものであり、やむを得ず遠回りしようとUターンしたところで声をかけられた。
「お、おはよう、マコト」
多聞だ。普段は屈託なく軽薄な笑みを浮かべているこいつだが、少し居心地悪そうにしている。
「ああ。おはよう」
「な、なぁマコト。昨日はその、すまんかった」
そう言って多門は人前だというのに平気で頭を下げる。
「悪かったと思ってるよ。でもさ、戸塚の奴怖いじゃん、舎弟いっぱいいるしすぐ殴るし。それでさー、悪いとは思ったんだけど……ああするしかなくて」
「おまえが俺を羽交い絞めにするとき、本当は嫌がってたってことは分かったよ。だから最初から怒っちゃいない」
そんな風に気まずそうにするくらいなら声などかけなければいいはずだ。マコトのような落伍者と縁を切ったところで多聞に不利益はないのだから。それをわざわざ謝りに来るのなら、マコトとしては別に許してもかまわない。
「マコト、おまえいい奴だな。……へっへ。オレが保障するぜ、おまえ性格いいからすぐに友達できっから。オレ意外にも」
暗に今は友達がいないということを示したようなその言葉にマコトは苦笑する。
「ところで話し変わるけど。おまえ深刻な顔で何みてんだよ?」
いきなりの話題の転換に、マコトはやや驚きつつ携帯電話を隠す。この話はもう終わりらしい。九頭龍のようにうっとうしい程謝罪を繰り返してこないだけ良質か。
しかし多聞の悪質なのは不躾さと紙一重の人懐っこさであり、彼はマコトが隠そうとした携帯電話を取り上げて勝手に中身を見てしまった。同じことを戸塚に対してできるとは思えないことを考えると、やはり自分はある程度軽んじられいるのだなと諦観めいて思った。
「……なんだこれ? ……おまえ九頭龍に告白されてんのか?」
そういう多聞の頭を、マコトは握った拳で容赦なく殴りつける。その場で転がる多聞に視線が集まる。マコトは気にせず彼から携帯電話を回収すると、倒れ付してうずくまる多聞に淡々とした表情で言った。
「誰にも言わないと誓ってくれ。ばらしたら殴るからな」
「…………。も、もう殴ってるじゃん……。やっぱ撤回するわ。おまえぇ友達できねえわ、その性格。殴る前にフツーに怒らねーか?」
「殴られるようなことをするからだろ」
そう言って多聞のことを助け起こしてやる。多聞はびくびくと怯えきった様子で
「えっと……それでチャラ?」
「黙ってるならな」
そう言って害意がないことを示すために両手を晒してみせるマコト。多聞は口をあけて
「……やっぱおまえ変。……まあいいわ。それでどうなの? 付き合うの?」
そうとわれ、マコトは押し黙るしかない。多聞は「なんだなんだなんだ」とどういうわけか三回繰り返して
「いいんじゃね? あいつ従順そうだし。見てくれはかなりいいしよ。色白で胸大きいし、ボディのほうも、全然アリなんじゃないかな?」
「アリっておまえ……体目当て……ってことか?」
「いや……それはマコト次第だけどさ。でもさ、やっぱり大事じゃないかセックスって。むしろあんな面倒くさそうで、しかも誰にも自慢できそうにない女、それ以外にどんな益があるてんだ?」
酷い言い草だと思ったが……しかし、軽薄だがそういう感覚も恋愛観の一つとしてはあるのだろうと、マコトは客観的に思いもする。
「マコトくんは興味ないわけ?」
「何にだよ」
「いや、その。経験済み? マコトくん結構クールだし、ひょっとして非童貞?」
「いや……それはしたことないけど」
「じゃあいいじゃん。お世話になっちゃえば。別に不誠実でもなんでもないことだと思うよ。男女の付き合いには当然にあることだし、あいつがマコトのこと好きなら幸せだろ?」
そんな訳知り顔でいいつつおまえもどうせ童貞なんだろうと思いつつも、マコトはうなる。
「うーん」
九頭龍にセクシャルを感じない訳ではない。そして多聞の言うことも理解できてしまう。だが、だからこそ、このまま付き合ってもそれは、セクシャルな興味を満たすために彼女の気持ちを利用することになりかねない。そんな恐ろしさがある。そしておそらく、この『恐れ』こそが、マコトの中の不誠意の裏づけなのだろう。
九頭竜がどうでもいい奴ならば、それもいい。しかし、そうではないのだ。自分のことをああも真剣に好きといってくれた女に、誠意のないことはしたくない。
「どう? 決心が付いた?」
多聞は無邪気に尋ねる。
「ああ。なんとかな」
少なくとも、自分が九頭龍に対して、いわゆる恋愛感情はもっていないことは間違いない。そもそも恋愛感情がどういうものかもわからない。残酷ながら、その一点が断る理由として十分なのだ。その一点がある限り、九頭龍の願うままに恋愛ごっこに踏み込むのは、誠意ではないというのが結論だった。
☆
教室に入ると、机を取り上げられたのだろう九頭龍が、教室の隅で一人、壁使って自習をしていた。きょろきょろと挙動不審なその様子からして、それが振りだけなのは分かる。
教室で淘汰されているものにとって、自分の席というのは唯一許された『居場所』なのだ。それをうばわれる心細さが、マコトにはなんとなく分かる。
マコトは教室を見回して、九頭龍の机を勝手に荷物置きに使っている女子生徒たちを目にすると、「すまんが、返してやってやれよ」と一言声をかけた。少女たちは面倒そうにしながらも、戸塚に殴られて顔を腫らしている『曰くつき』のマコトを目にすると、怯えたようにその場から荷物を下ろした。
「ほらよ」
そう言って九頭龍に机を返してやる。九頭龍は普段異常におどおどとしながら
「あ、ありがとうございますぅ」
と聞いているほうが申し訳なくなるくらいありがたそうにいった。
それから、二人の間に沈黙が流れる。九頭龍は居心地が悪そうに、どこか審判でも待つかのようにその場でじっと硬くなっている。マコトは腹をくくった。
「なあ九頭龍。あのメールのことなんだが」
「……は。はいぃ」
「すまない。恋愛とか、俺はしたことないし、どうすればいいか分からない。色々考えたんだが……」
マコトが言いよどむ。そして、九頭龍は一瞬、どこかほうけたような目をしてから、すぐに唇を結びなおしてその場を俯く。
「そうですか」
普段と逆だった。困惑するマコトに、九頭龍が察して、先回りをした。
「すいません……その。ほんとうにめいわくでしたよね。ごめんなさい……一人で勝手に……」
「い、いや。そんなんじゃないんだ。その……別におまえのことがいやだからとか、そうじゃないんだ」
そうじゃないなら、なんだ? 言葉につまるマコトに、九頭龍はか細い声で
「気を使わせてしまってほんとうにごめんなさい。だから、どうかその……」
「ああ。……そうだな、今までどおりだ」
マコトがどうにか笑顔でいうと、九頭龍は少しだけ安心したような顔で「はい」と言った。
それでひとまず、話はおしまい。マコトはひそかに息を吐き出し、それから、周囲が好機染みた視線をこちらに向けるのに気付いて、「じゃあ」といってその場を離れる。そして自分の窓際の席に移動し、ぼんやりと窓を見る振りをした。
すすり泣くような声が聞こえてくる。
その場で身を硬くして、静かに、気付かれないように泣いている。ならば自分も気付くべきではないのだろうか。
違う、傷付いているなら手を差し伸べればいい。差し伸べるべきだ。方法はいくらでもあったはずだ。分かっているのに、それができない。
……卑怯な臆病者だな、俺は。
他人によって傷つけられているのであれば、いくらでも手を差し伸べるのに、自分が傷付けてしまった時は見てみぬ振りさえする。
クラスメイトのさげすみ、はやし立てる声が聞こえてきた。