プロローグ3:花火
ぼんやりと大の字で寝転がり、空が紅色になるのを待った。正確には、夕方が来るまで動けなかったというのが正しい。
明日になれば、戸塚は自分を一方的にぼこぼこに負かしたと学校中に吹聴するだろう。自分は女子は殴る癖、戸塚にはやられる卑怯者としてさげすまれるだろう。悔しいのかどうでもいいのか自分では分からないが、おそらく泣きたいほど悔しいのだ。
いつまでたっても空は赤くはならず、灰色の雲に黒い闇がにじんでいくだけだった。生ぬるい湿気が全身を包み込む不快な感覚にたまらなくなり、マコトはその場で体を起こした。
数十メートルの距離に、幼稚園児のように不恰好な走り方でこちらに寄ってくる女の姿が見えた。そいつは起き上がった自分を見つけてぱっと明るい表情を浮かべ、そのまま水平な走り方でこちらに近付いて来て、途中で何もないところでつまづいて転んだ。
「お……おい。おまえ」
マコトが近づいていくと、そいつは「す、すいませぇん」と声をあげて顔を上げた。九頭龍だ。
「どうしたんだよ、おまえ」
「はぁ、はぁ……。え、えっと。……あの、その。夢咲さんがここで戸塚くんに殴られてる写真が、メールで回ってきて。その、だから、その……心配で。差し出がましいですがその……あの」
それから九頭龍はマコトのほうに覆いかぶさるように掴みかかり
「大丈夫ですか? ああ……こんなに腫れてる! 鼻血まで……。う、ぅうう。酷いよぅ」
それからさめざめと泣き出す九頭龍に、マコトはため息をついた。
「別にどってことないよ。これは喧嘩のキズだ、あいつには殴られたが俺もあいつを殴ってる。それに、戸塚はバカだけどアタマが悪いわけじゃないから、本気で面倒ごとが起こりそうな怪我はさせないだろうよ」
「で、でもぉ、こんな……。と、とにかくその、手当てしなくちゃ。きゅうきゅ、救急車呼びますね」
「いらん。大げさな。面倒なことは起こさないでくれ」
「ご、ごめんなさい。じゃ、じゃあ、保健室に」
「もう閉まってる。つか、喧嘩の怪我で保健室とか、今度こそ退学になっちまう。少し考えてくれ」
「ひぅう……すいません」
少し言い方が強かったらしく、九頭龍は見ていてかわいそうになるほど小さく縮こまってへこむ。これだけメンタルが繊細だと、気を使う方がいら付いて、むしろ攻撃的になってしまうのかもしれない。
「あ、いや悪かった。……それよりおまえ」
それからマコトは九頭龍の膝小僧を指差して
「盛大にすりむいてるぞ? 痛くないか?」
言われると、九頭龍は「あ……」と下を向いて、そこで自分が結構大きな擦り傷を作っていることに気付いたようだ。
「い、いいですよこんなの慣れてますから。夢咲さんのほうが重症です!」
「そうは行くか。おまえ、歩けるか?」
「あ……はい?」
「ああいや。おぶったほうがいいな。ほら」
そう言ってマコトは背中を示す。九頭龍は「へ、へぇえ?」と困惑顔になって
「そんな……悪いですよ。けが人に負ぶってもらうなんて……」
「俺を心配して走ってきて転んで、それで作った怪我だろ? いいさ、おまえなんか軽い」
「で、でもぉ。あ、歩けます……歩けますから……」
そう言って九頭龍はえっちらおっちら、足を引きずって歩き始める。それはなんだか、無理して気丈さをアピールするような歩き方であり、マコトとしてはいたたまれない。
こういう時は、女らしく頼ってくれたほうが、マコトとしても気分がいいし、楽なものだが。しかしとうてい、九頭龍に理解はできないだろう。
この子は、……マコトと同じく、自分のことで精一杯なのだから。
☆
九頭龍と共にすぐ近くのコンビニに行き、ガーゼと消毒を買ってやる。九頭龍はなんと財布も持たずに駆けてきたようで、金を出したマコトに何度も礼を言ってから
「これは倍にして返しますから……」
と涙を流して言った。「いらん」と突っぱねるしかない。
九頭龍にガーゼを渡すと、百回続きそうな礼をはさんでから九頭龍は自分の膝にガーゼを張ろうとするが、上手くいかない。自分がそばにいるだけで手が震えるほど緊張して、消毒を垂れ流して、ガーゼをくしゃくしゃにしてしまう。たまりかねてマコトは九頭龍からガーゼを奪った。
「ご、ごめんなさい……」
「いや悪い。俺がいると気まずいか」
この手合いは過度に人見知りして、誰か他人が自分を見ているというそれだけで、動きが硬くなってことごとくのパフォーマンスを封じられる。九頭龍の成績は中の下程度らしいが、授業中当てられた際は中学レベルの問題でもまともに答えられたことがない。
「そ……そんなこと……。違うんです、わたしその緊張しぃで……。誰がそばにいてもこうなんです。夢咲さん、すごく優しいのになのに……ごめんなさいぃ……」
「ああ。別にいいよ」
マコトはぶっきらぼうに言って、九頭龍の膝を消毒して、ガーゼを張ってやる。
スカートの中の白い太ももが見えた。彼女の儚さともろさを示すような、繊細な白い肌だ。女性の小さな膝の形にマコトはセクシャルに駆られ、少し苦戦しながら手当てをする。気まずいことこの上ないし、自分の程度の低いオスを認識させられてとても情けない気分になる。こんな気持ちになってしまうから、できれば自分で手当てはしてもらいたかったのだが。
マコトにされるがままで目を閉じている九頭龍。この分だとスカートをめくって下着を見ても何も言われないんじゃないかと、そんなことを考えていると、あるものに気付いた。
太ももに、黒いやけどの跡のようなものがあるのだ。概念としては知っている。小指の先ほどもないそのやけどのサイズに、マコトはそれがタバコを押し付けた跡だと核心を持った。
「おまえ……っ!」
そう言って九頭龍のスカートを本当に捲り上げるマコト。「ひ、ひぃい!」驚いてすくみ上がる九頭龍に、「あ、すまん」とマコトはすぐにスカートから手を離した。
「ご、ごめんなさいごめんなさい。そのその大声出しちゃって。あたしその、夢咲さんになら何されても……」
「だから違うんだよ。……おまえさ、そのタバコ、誰にやられた?」
マコトがたずねると……九頭龍は「あ、あぅあぅあぅ」と言いよどんでしまう。
「……いえないか」
いじめっ子がいじめられっ子の名前を口にする行為は『告発』だ。精神的に、いじめっ子に支配されている彼女がそれを行うことが難しいのは、想像に難くはない。
「そそ、その……たいしたことないですから。あの……」
『たいしたことない』なんてことがあるはずがない。……どうしたってこの子は、そして自分たちはこうも踏みにじられて、それでも何もできずにいるのだろう。
楽しげな喧騒から距離をおいて、卑屈に媚びたような顔をしながら、或いは隅っこで誰からも距離を置いて怯えるようにしながら……。他人の数分の一かの狭い居場所で縮こまって生きて。その場所も気まぐれに犯されて、ボコボコに傷つけられて、でも平気な振りをしていなければ、とても生きてはいられない。
そんな人間が、どんな場所にも、必ず、いる。
「けったくそ悪い気分だ」
マコトは舌打ちをして
「ゲン直しだ。付き合え」
といって、九頭龍に向かってあごをしゃくる。九頭龍は困惑したように、首を傾げて見せて
「は、はい?」
「もう外も暗いからな……。そうだな、花火だ。おまえ門限とか大丈夫か?」
「は、花火って……あの。手に持つ?」
「そうだ。コンビニにあるだろ……。あいや、わずらわしいか? 足も悪いし今度に……」
言うと、九頭龍は壊れた人形のように首を何度も縦に振り
「し、しますします。一緒にします! 花火」
「あ……そうか」
それからマコトは、少しだけ楽しい気分になって
「じゃあ買ってこよう。場所はそうだな……すぐ近くに川原があったはず」
「は、はいぃ」
九頭龍にはニコニコと付いてくる。
なんだか友達を連れているみたいで、悪い気分ではなかった。
☆
あたりはすっかり暗くなっている。マコトは川原で手に閃光花火を持ちながら、その米粒よりもささやかな輝きを眺め、そばでそれをじっと見つめる九頭龍に「おまえはしないのか?」と声をかけた。
「あえ? い、いえその……夢咲さんの見てますし……」
「自分で好きなの火、つけろよ」
「そんな……夢咲さんが買ったものですし……」
「いいから」
マコトがいうと、九頭龍は控えめに閃光花火に火をつけた。ぱちぱちとした静かで穏やかな輝きに、九頭龍は口を半開きにしてうれしそうに微笑んだ。
もう長らくこんな風に、同世代の仲間と何かをするような機会は得られなかった。友達というか話し相手なら、停学になってからすぐに離れていってしまった。多聞のような屈託のないヤツが時々絡んでもくれもしたが、しかしヤツはしょうがないこととは言え、自分より戸塚に組することを選んで自分を殴るのに加担した。自分が他人と結べる関係性なんて『そんなもの』なのだ。
だがそんな中で、このどうしようもないいじめられっこだけは、自分のことを本気で心配して足を怪我してまで駆けつけてくれた。そこに戸塚やその不良仲間がいたというのに。
駆けつけてくれたことで、実際に何が助かったわけではない。ただ、心は大きく救われた。自分と共に孤立して、自分と共に取り残されてくれた九頭龍。そこにあった絆が偽者ではなかったことに、マコトは確かな喜びを感じたのだ。
「その……き、綺麗ですね」
おずおずと九頭龍は声をかけてくる。沈黙の中で、単に何か話さないといけないと思ったのか、それとも黙っている自分を怒っているとでも勘違いしたのか。
「そうだな」
マコトは極力優しい口調で言った。
「え。ええそうですね」
えへへ、と九頭龍はその三語の会話が成立したことに喜ぶように笑う。少し、楽しそうだ。
「ところでおまえ。携帯電話にメールが回ってきたとかいってたな」
と、マコトがいうと、九頭龍は「は。はい」と答える。
「意外なもんだな」
「え、えと」
「あいや。失礼だったか」
「い、いえいえいえ。でもその……どういうことですか?」
「えっとだな。おまえが誰かとメールアドレスを交換してることが、だよ」
直球でいうと、九頭龍は少し自嘲げに笑う。
マコトは、九頭龍は自分と同様に孤独な高校生活を送っていると思っていた。当然メールアドレスを交換する相手などいないものだと。
「鵜久森さんは……その。あたしを友達だといってますから……。その、あの三人のアドレスなら、知ってるんです」
鵜久森文江。九頭龍をいじめるグループの筆頭だ。九頭龍をさんざん金づるや使い走りにして尊厳を奪い、それでいて『ただの友達』だの『クズはそういうキャラ』などと言い張り、本気でそう思い込んでいる。
人間に程度があるとは思わないが……マコトは、彼女のような人間の傍では、絶対に笑顔を浮かべることはないだろう。
「あ……その。マコトさん」
おずおずという九頭龍に、「どうした?」と促してやる。
「マコトさんはその……携帯電話ってもたれてるんですか?」
「あ? ああ、持ってるけど……」
「そ、そうなんですか。……え。えっと」
そこから先に、九頭龍が言いたそうにしていることをマコトは推察して、「ほらよ」と自分の携帯電話を九頭龍に投げる。
「わ。わ」
いいところに投げたつもりだったが、花火を片手に持ったままでは上手に受け取れなかったらしく、一度ひじに当ててから地面に落ちす。「わわ、ご、ごめんなさい」といって拾いあげ、じっとこちらを見つめる九頭龍に
「『電話帳』開いて一番下に俺のアドレスがある。登録しとけ」
「は、はいぃい。あ、ありがとうございます」
そう言って九頭龍はいそいそして携帯電話を操作する。しながら、左手ではしっかりと閃光花火を手に持っていた。
九頭龍から携帯電話を受け取って、彼女からメールを送ってもらって九頭龍のアドレスを登録する。
「終わったぞ」
そういうと、九頭龍は明るい表情でうなずいた。そして「えへ」と笑う。
かわいい奴、とそう思えた。
それからしばらくしていると雨が降り出す。思えば、今日は夕方から雲模様が怪しかった。
「残念ですけど……もう花火はできないですね」
雨に濡れながら九頭龍がしょんぼりしていう。マコトは「そうだな」と言ってから
「家まで送る」
そう申し出ると、九頭龍は「そんな……」と遠慮して見せる。予想していたことなので「おまえみたいなそそっかしいの放っとけるか」と強く言う。真実だった。こんな危なっかしいのを放って一人で帰るのは、男としてやってはならないことであるような気がする。
「ありがとうございます、ありがとうございます……。で、でも。……この花火どうするんですか?」
そう言って九頭龍は、ビニールに包まれた花火の残りに視線を向ける。「あー」とマコトは首を捻る。その場で捨て置いて帰るものだと当たり前に認識していたマコトだが、しかし火薬のあるものを放置する行為は、そう堂々と行うものでもないだろう。
しかし、持ち帰ってももてあますことはもてあます。
「おまえが持ってろよ」
マコトはいった。
「そんでまた今度続きをやろう。気が向いたら誘ってくれ」
いうと、九頭龍は「は、はいぃ」と地面に落ちていた花火を持ち上げ、旨に握り締めてから
「か、必ず……誘いますから。だから、……大事にしてますね」
と、家宝でも扱うようにいった。面倒な約束が一つ増えたが……まあ、いいだろう。
わずらわしい、を上回って、付き合ってやろうと思える気持ち。それはおそらく、『友情』とか『愛情』とか呼んでもいいものなのだろう。マコトは無邪気に認識した。
その時は、それは、それだけのことだった。




