プロローグ2:つるし上げ
コッペパンを購入して階段でかじっていると、あからさまに生徒たちがマコトを避けていく。
入学して早々停学処分を食らったマコトは生徒たちの語り草だった。客観的にマコトという人間を言い表せば、『さぼりがちで不真面目で成績不良であり、女子を殴って停学になった』というものなのだ。いわゆる不良や落ちこぼれとして煙たがられるのは自然なことだろう。
進学校であっても落ちこぼれの不良というのは確かに存在する。ただ学校の偏差値によって異なるのは、その『不良』の扱いだ。程度の低い学校であれば、どこかしらファッション的に落ちこぼれてみせる生き方が認められてもいる。しかし真面目な生徒の多い進学校の『不良』というのは、マコトのようにみじめなものだ。
誰からも相手にされず、孤立して、食事もこんな風に寂しく食べなければならない。声をかけられる、などということは、なついてくるいじめられっこを除いては、滅多にない。
……いや。そうでもなかったか。
「おーっす。マコト。また便所飯かよ」
軽薄そうな表情を浮かべた少年が、軽薄そうな声でマコトに声をかけてきた。マコトは「おー」と面倒くさそうに応じつつ、心の中では少し明るい気持ちでいた。
「別に便所飯じゃねーだろ。多聞。階段で食ってるんだからよ」
「似たようなもんだろ。教室でくえねーからそこで食うんじゃねーか。ぼっち野郎」
「うっせ。俺は孤高なんだよ」
そう強がりを言うと、クラスメイトの多聞蛍雪は一緒に笑ってくれて
「あーなんかそんな感じするわ。マコトって他と空気違う感じがするっつかなんつーか。ただ孤立してんのとは違う気がするわー」
へらへらとそう言う言葉の一つ一つがいちいち軽薄で、どこかこびたように感じる。マコトは「だろ?」と軽く微笑んで見せて、コッペパンを食いちぎってから
「おまえこそ飯はどうしたんだよ? いつもの奴らと教室で食わないのか」
多聞には多聞の人間関係がある。普段なら教室で学食のパンを仲間とかじっている時間のはずだ。
「今日は別の戸塚……クンのグループと学食で食った。誘われちまってよ」
「へえ。そりゃ災難だったな」
マコトは言った。
「だよー。奢らされちまったし。まあ、いざってとき後ろ盾になってくれるかもしれないから、たまにならいいんだけどさ。おれ今週二回目なんだよね。気が滅入るっつーかさ」
戸塚というのはマコトのクラスメイトで、体格の良い荒くれもの……マコトのようなただの落伍者とは違う純正の悪党だ。中学時代から不良で、高校に上がってからも上級生相手に喧嘩を繰り返している。
「……あ。そうだ。その戸塚……クンが、マコトのこと呼んでたぞ」
そういわれ、マコトは、多聞が自分に声をかけてきた理由を悟る。しかしそうとは知られないように、とぼけた態度を装って
「へえ。なんて?」
「あ? いや放課後話があるから体育館裏に来いとか、なんとか」
「話って」
「いやー。マコト喧嘩強いから、アレじゃない? 上級生と喧嘩するんで戦力になってくれーとか、そういうんじゃない?」
確かにマコトは腕っ節の強い部類だと思う。だが、戸塚が戦力として自分を引き抜こうとする段階は、既に終わっているのだ。
前に、戸塚が同じく不良扱いされているマコトを、落ちこぼれ同士のコミュニティに勧誘したことがある。おおよそ好意から来たものだったが、しかしマコトは突っぱねてしまった。小心な自分には、『不良』なんていうキャラクターは演じられないだろうと考えたのである。それが戸塚には敵対行為として移ったらしく、以来しばしば因縁をつけられることがあるのだった。
「いやだよ面倒くさい」
「ちょ……。いや、頼むよマコトくん。マコトくんが体育館裏に来なかったら、オレが殴られるんだって。なあ……」
心底困り果てたように、アタマを抱えて口にする多門。それから恥も外聞もなくその場でアタマを下げる。
「このとおり。頼むからさ! なあ……」
こいつのクラスメイトからのあだ名は『チキン』だ。人前で無様に保身に走ることに抵抗がない。だが、そんなあけすけなところがマコトにはなんだか憎からず思えて、さほど嫌ってもいなかった。
「あー。分かったよ。いくだけいけばいいんだな」
ついに折れたマコトに、多門はぱっと顔をあげて
「マジかよ! サンキューソウルフレンド!」
この手の平の返しようを含めて、こいつは本当に屈託が無い臆病者だ。
☆
体育館裏に行くと、戸塚のほかに、多門を含む数名の男子生徒がたむろしていた。マコトはそのことに緊張しつつ、声をかける。
「なんだおまえ一人じゃないのかよ」
戸塚茂という大柄な生徒は、そんな風に言うマコトを獰猛な表情で睨みつけ、怒鳴るような声で口にした。
「『おまえ』だって? 良くそんな口を利けるもんだなぁ、お?」
何が『お?』なのか分からない。マコトは息を飲み込んで見せて
「いや別に同じ年だからいいだろう。『君』ってなんか気持ち悪いし」
「あ……。なめてんのかてめぇ?」
外れたことをいうマコトの言動が、戸塚の気に障ったらしい。
確かに、そういうことを聞きたいのではないだろう。こいつの問いたいのは、ようは『何故自分に媚びないのか』というそれに尽きる。
「あいや。そういう訳じゃないんだ。ともかく本題に入ってくれ。これは何の呼び出しだ」
そういうと、戸塚が肩を怒らせてマコトのほうに近づいてくる。ギャラリーたちに緊張が走る。
「分かってんだろ? おれとタイマン張れよ。負けたら二度とオレになめた口は聞くな」
タイマンか、どうも間の抜けた感じのする単語だ。というより、うそ臭い響きがあるんだろう。一対一の喧嘩、などといいつつ、本気でどちらかが倒れるまでの殴り合いをしたがる人間なんてそうそういないのだ。『当方喧嘩の構えアリ』ということを示す、脅しや虚勢として使われる文句という印象が強い。
「断るよ。殴り合いなんて興味ない。」
相手が求めているだろう言葉を口に出してやる。おおよそ、マコトの本心でもあった。
「びびってんのか? お? 降参か」
「ああ。それでいい。俺は痛い思いはしたくないんだ」
マコトがいうと、けらけらという笑い声がギャラリーの中でとどろく。「今の聞いた?」「そりゃいたいのはイヤだよなー」「あいつすげぇ弱虫じゃね?」
アタマに来る。しかし挑発に乗って喧嘩をしても、良いことは何もない。相手が集団である以上、ここで戸塚を殴り倒しても、報復は不可避であるように思えるからだ。
「だったら今すぐここで土下座しろな? それで『戸塚さん二度となめた口ききません』って断言しろ。おい多聞」
いわれ、多聞は「なんすか戸塚くん?」と媚びたように前に出る。
「録音の準備しろや。こいつの敗北宣言を録音しておく」
「は。はあ。わ、分かったっす」
そうして多聞は携帯電話の録音機能を開く。ギャラリーは「さっさとしろよ」「降参なんだろ?」とマコトに向かってはしゃしたてる。
「おいなんだそれ? イヤに決まってんだろ?」
「は? 今降参っつったよな? 自分で言ったことは覚えとかないとなー」
戸塚がにやにやとしながら近寄ってくる。マコトは困惑した様子を見せながら
「おまえに土下座とか嫌に決まってるよ」
「あっそう」
そう言って、戸塚は握りこぶしを作ろうと右手を後ろに引きつつ
「じゃ、タイマンや……」
と、彼の台詞は、彼の握りこぶしが完成する前に、封じられることになる。予備動作なしで素早く繰り出されたマコトの拳が、戸塚の顔面をうがったのだ。
「ぐお!」
殴り合いの喧嘩には、『後の先』と『先の先』というものがある。宮本武蔵だったか、歴史上の武術家の伝記に載っていた文章で、その響きのよさからノートに書き写したことがあった。
相手が攻めてきた時に、より早く攻め返す『後の先』ではまだ遅いのだ。相手が攻める気配を見せたその隙に、攻められる前に攻めるのが『先の先』。こちらを睨みながら拳を握って後ろに引くその動作は、『今から殴りますよ、その準備をしてますよ』と宣言しているようなものだ。
ともかく一度殴ってしまったからには決着をつけなければならない。そう思ったマコトはそのまま怯む戸塚を殴り倒し、馬乗りになった。
マコトは177センチ70キロとそれなりに恵まれた体格を持っていた。一度この状態に持ち込めば、相手がよほど巨漢で無い限り、もう一方的に殴ることができる。マコトは容赦しなかった。これ以上目を付けられないためには、ここで相手を屈服させておく必要があるという冷静な勘定だけがアタマにあった。
「ちょっと……マコトくんやりすぎっしょ」
多聞が止めに入る。知るか。先に喧嘩を売ってきたのはこいつだ。徹底的にやらなければならない……などと思っていると、戸塚がつばを飛ばしながら
「多聞! てめぇそいつを抑えろ!」
などと絶叫した。やはりこうなってしまうのか。
「え……ちょっと戸塚さん。無理っすよこんな……」
「るっせ。とっととしろ!」
恫喝する戸塚。多聞はマコトと戸塚のほうを見比べて、「あー」と少しうなった後
「すまんな」
などといって、多聞はマコトの両肩に腕を回し、戸塚のほうから強引に引き離そうとする。すぐに、戸塚の取り巻き数名が群がるように加勢してきた。
多聞としては、結局のところマコトと戸塚のどちらに着くのが、自分にとって合理的かを考えただけだろう。本気で抵抗すればなんとかなったかもしれない。だが、妙な諦観めいたものが全身をめぐり、奇妙な虚脱感のようなものに支配されて気力が萎えてしまう。
下っ端たちに引き離され、拘束される。闇雲に暴れれば簡単に抜け出せそうだったが、それはぜずにマコトは言った。
「タイマンじゃなかったのか?」
戸塚は少しだけ気まずそうな表情をしてから、ギャラリーに視線を向ける。戸塚同様、気まずそうな表情をする彼らに、戸塚は鼓舞するように
「そんなん嘘にきまってんよな。なー?」
一瞬の沈黙の後、曖昧にうなずき始めるギャラリーに、マコトはため息をついてから
「そうかよ。じゃあ別に、俺はおまえに今までどおりの口を利いていいんだな? タイマンじゃないっていうなら、最初の前提が崩れる」
「……っ! なめてんじゃねーぞこら!」
そう言って、戸塚はマコトを組み伏せ、殴り始めた。ギャラリーの一人がマコトのほうににじり寄り、みじめになぶりものにされるマコトを携帯電話で撮影する。
これが目的だったのだろう。マコトは鼻血を出しながら考える。
夢咲マコトという落ちこぼれ集団の中でも異分子にあたる存在がどの程度のものか、それをはっきりさせるのが戸塚の目的だったのだ。味方にならないなら、屈従させるのは連中にとって当然といえる。
散々殴られて、顔の形が変わった頃にマコトはようやく開放される。戸塚は黙ってマコトにつばを吐きかけて、その場を去っていった。
敗北感はなかったが、酷くみじめな気分だった。