最終章 運命法則・迎撃戦 「5」
五
「限界病が起こることは、最初から決まっていた。人間のすべての活動には限界があって、必ず終わりの時がやってくる。政治や科学や芸術や宗教も、ずっと進歩できるものではない。
そうした原因があったからこそ、限界病は起きたんだ。もし途中で防げるものなら、最初からあんなことは起きなかっただろう。絶対に誰にも止めることができない運命だったんだ」
得意気な演説口調で、運命調律師はしゃべり出した。 だまって話を聞いていれば、この男の言いなりになりそうな気がした。何が何でもこの男に逆らう気持ちで、月矢は怒鳴り返した。
「だから、何だ! 言ってる意味が分かんねえよ!」
「君はそれでも、前に進もうとするのか? 限界病はまた起きるぞ。何度でも何度でも、この星の上では起きる。君はそんな救いようがない世界で、自分が幸せになれると思うのか?
こんな世界で金持ちになりたいとか、女にもてたいとか、自分の街を見つけるんだとか、希望を持てるとしたら不思議だ」
「じゃあ、オレにどうしろっていうんだ?」
「あきらめることが大事ということだよ。『現実なんてこんな物だ。人生なんてこんな物だ』と早く悟ることだ。
だいたい、人間の中で何人が成功できると思う? 君が今からテレビに出て、アイドルになれるかい? 君が大スターになって大金持ちになれるかい?……ありえないね。そうなれる人間は最初から決まっている」
月矢は仮面の男をにらみながら、だまりこんだ。この男を言い負かす言葉。この男に対抗する言葉を必死で探したが、すぐには出てこない。
「もっと、身近な例を出そう。以前、君は波津街に住んでいて、その故郷を失ったと言っていたな。それは、どうしても止められないことだから起きた。また、彼女の場合にしても同じだ――」
運命調律師は、月矢のそばにいる無傷に指を向けた。無傷は答えず、強い視線で相手を見返した。
「なぜ、彼女はああいうヒサンな家に生まれたのか?どうして神童産業に、わずか五万円で売られて、ヒサンな軍事兵器にされたのか? もし彼女が幸せになれる人間だとしたら、もっと前からまともな人生を、送れたはずじゃないのか?」
「まちがっている! おまえは、何もかも、まちがっているぞ!」
今までの沈黙をやぶって、月矢はほえた。
どうしようもないほど体がふるえている。
怒り――今までに感じたことのない、新しい憤りがこみあげている。
体中の血がにえたぎり、内臓まで溶けそうなほどの激しい熱を感じた。しかし、頭の中はすみわたっている。目の前にいる男を打ち破る言葉を、ついに思いついた。
月矢は廃墟にひびきわたるほどの声で、はっきり告げた。
「あれから、オレは色々と考えた。ヒサンな人間がヒサンなままなのは何が原因か? それは社会が悪いのか? それとも、本人の努力がたりないのか? 単に運が悪かったと言いきれる問題なのか?……どれも、まちがっている!」
月矢は運命調律師をにらんだ。怒りの力で、相手に穴を開けようとするほど強く、視線を集中させる。
仮面の男に人差し指を向けた。両目に走る二つの切れ目を、つらぬくように指に全力をこめながら。
「……ヒサンな人間がずっとそのままなのは、ヒサンじゃない人間が、その人を助けようとしないからだ!おまえもその一人だ! 運命調律師!」
「なぜ、君にそんな事が分かるんだい?」
問いに対して、自分をあざけるように、月矢は鼻先で笑いながら答えた。
「オレ自身が、そういう人間だからだよ。オレはヒサンな奴らを見ても何も感じない、いやしい心を持った人間だ。いつも、自分だけがうまくいくことを考えていた。でも、無傷と出会って分かった。
この世界には自分より、苦しい目に合ってる人がたくさんいるのを知った。オレはそうした人を助けたいと強く感じた。絶対に見殺しには、できなかったんだ」
月矢はコルト・ライトニングのグリップを、力をこめてにぎりしめた。銃口を運命調律師へ、まっすぐに向ける。腹の底からの大声でさけんだ。
「オレと決闘しろ、運命調律師! おまえのようなイカれた人間を消さないかぎり、この世界からヒサンな人間も、限界病も消えやしない!」
月矢の目に〈陰陽線・起動完了〉の文字が出た。その後に〈反射行動力・最大値到達〉とつづく。
赤い丸のロックオン・マークは敵の胸の中心をかこむ。――心臓の位置を。
戦いの準備は、いや、処刑の準備はすべてととのった。重苦しい静けさが、廃墟の街に流れた。やがて、運命調律師は笑いはじめた。これ以上できないほどの高笑いで。
「……ふっはっははっは! 待ってくれ。君が正義マンになるだって? 神崎月矢のようなろくでなしが、女の子を守るナイトになるだって? あはっはっはっ! 笑えるな、最高に笑えるよ。こんなに、おもしろいギャグは聞いたことがない」
調律師は両腕を上にかかげてバンザイをした。
ガチャリ……と、すずしげな金属音がひびく。バネの力で弾き出されたように、服のそでから、二つの自動拳銃が飛び出す。
どちらも、銀色にかがやくオートマチック・ピストル――SIG・P228。
一瞬のあいだに、左手と右手に銃をかまえている。運命調律師は、二挺拳銃の使い手だった。
「強化戦士である君とまともに戦えば、神童である僕でも二秒以内に殺されるだろう。だが、僕はまともな戦い方はしない――」
「おまえを殺すのに、一秒もいらない!」
月矢は銃の引き金をしぼった。敵の心臓をめがけて、弾丸を撃ちこむ。
しかし、弾は後ろのコンクリートの壁に傷をつけて、はね返った。目の前には誰もいない。仮面の男
は消えた。
月矢の目に〈敵弾道予測〉のメッセージが表示された。右方向から、二発。金色をした九ミリ弾が、ゆっくり自分に近づいてくる。体を横へ一歩ずらして、楽々と弾をかわす。
間をおかず、次の攻撃がきた。今度は逆である左方向から、二発の弾丸が攻めてくる。
月矢は急いで左へ向きを変えて、ひざをかがめて頭を低くした。弾は頭上を通りすぎてゆく。敵の銃撃は、そこで終わった。
――どこにいやがるんだ! また、お得意のかくれんぼか?
右を見た。左を見た。後ろを見た。敵はいない。そばには心配そうな無傷が立っている。あたりには障害物はなく、人がかくれそうな場所は見当たらない。
無傷がさけんで警告をした。
「気をつけて、神崎くん! あの人は体の色を透明に変えて、この近くにかくれてる!」
「無傷もあいつの弾に気をつけてくれ!」
月矢は真剣に耳をすませた。どこかにいる敵の足音をさぐり出し、正体をあばき出すために。陰陽線には、目に見えない敵を探してくれる便利な機能はついていないらしい。
視界の経過時間を見た。戦闘開始から――七・三秒。時間だけが、だらだら過ぎてゆく。月矢の集中力が限界に近づいたとき、近くで敵の声が聞こえた。
「君は自分が最強だと思っていただろう? その思い上がりを、今ここで、なおしてやるよ!」
いきなり、月矢の視界が真っ赤にそまった。『CAUTION!』の緊急警告表示が出た。頭の中で、すさまじいアラームが鳴りひびく。
後ろをふり返った。二発の銃弾が空中に浮かんでいるのが目に入る。
すでに自分の三十センチほど前まで、弾は近づいている。
いつのまにか、敵は姿をあらわしていた。数メートル先に、白黒の仮面をつけた男が立っていた。
両手にかまえたSIG・P228の銃口は、二つのオレンジの火花――マズル・フラッシュを吹いている。銃が吐き出した薬莢も、空間で止まっている。
加速された月矢の時間感覚では、すべてがスローモーションで見えた。弾道ラインは表示されず、その攻撃は陰陽線でさえも予測できなかった。
自分の目で弾道を読んで、かわさなければならない。月矢は左の肩を内側へねじった。一発目はギリギリで逃げ切ることに成功した。
だが、二発目は間に合わない。銃弾が月矢の背広のそでをかすめる。九ミリ弾は生地を破り、やわらかい皮膚の表面を切りさく。
月矢の左手から、血しぶきがわいた。血は廃墟の地面にへばりついて、模様をつける。腕に激痛が走り、銃のグリップをにぎっていた左手がはなれた。
五メートルほど先。廃ビルと廃ビルの間に細い路地があるのを見つけた。月矢は路地に飛びこんで、敵から身をかくした。
銃を持った右手を、外に出して撃ちまくる。ロックオンもせず、片手だけの不安定な射撃。当たらなくても、敵をひるませて足止めできれば良かった。
ひとしきり銃を撃つと、敵の反撃が止んだ。
おそらく、運命調律師も壁に隠れて、月矢の弾から身を守っているのだろう。
「くそっ……たれが、よ!」
顔をしかめながら、月矢は歯ぎしりをした。左腕からはじまった熱い痛みは、全身に広がってゆく。
まともな右手で傷ついた左腕を押さえるが、指のあいだから、血があふれ出した。
たれた血は背広やズボンにねばりついている。服を弁償したら、いくらだろうと、どうでもいいことが頭に浮かぶ。
網膜には『DAMAGE!』の緊急警告が出ていた。視界の右すみに小さなウインドウが開いて、人体の略式図が表示される。
負傷した左腕が、しつこいほど赤く点滅していた。そこへ、飛んできた敵の弾がめりこんでゆく動画が始まった。数秒前のリプレイらしい。
「そんなこと言われなくても、分かってんだよ! バ
カ!」
月矢は体内の陰陽線に怒鳴りつけた。小さなウインドウは閉じて、リプレイは終了した。
次は〈負傷処置・実行中……〉の文字とゲージが表示された。最初は、〇%だったゲージは一〇%、二〇%……と、緑のラインになって長くのびてゆく。
緊張。疲労。傷の痛み。ストレスがいくつも重なり、息が苦しくなる。ネクタイをゆるめてワイシャツのボタンを外すと、少しは気休めになった。
五秒を過ぎた時、緑のゲージは六〇パーセントの位置をこえた。〈鎮痛性脳内物質・分泌完了〉のメッセージが出た。
傷を押さえていた手をどけて確かめると、流血は止まっていた。左の手を閉じたり開いたりしたが痛みはない。どうにか、正常に動いてくれるだろう。
「一体、どうすればいい? あいつの居場所が分からなければ、当たる弾も当たらないだろうが」
月矢はあの男に対抗する手段が、何も思い浮ばなかった。路地に逃げこんだため、大通りの無傷とは、十メートル以上はなれている。
「そろそろ、正義マンの命をいただくとしようか」
気取った若い男の声が聞こえた。カツン、カツンと高い足音も近づいてくる。
銃声がした。月矢の足もとに転がっていた、西暦時代の古びたバケツが粉々にくだける。確実に追いつめられていた。
「オレは殺されるんじゃない! 殺してやる側なんだ!」
月矢は拳をにぎりしめて、自分に気合を入れた。
視界では、緑のゲージが最大に達して一〇〇%になっていた。〈負傷処置・完了〉のメッセージとともに、ゲージは消える。
月矢は全力で走った。敵から遠ざかり、体勢を立て直すために。そのとき、頭の中に他人の声が流れこんできた。この場にはいない無傷の声が。
『……神崎くん、聞こえる? 今、神童通信で話しているんだけど』
――なんだって?
月矢も声を出さずに答えた。
『これは言葉を使わず、おたがいの精神を直接つないで情報のやり取りをする能力なの! これから、わたしの言う通りに動いて! そこを、九十度右に!』
――わかった。右だな。
月矢は細い道を右に折れた。背中の足音も早くなる。自分を追ってくる調律師も、走っているのが分かる。二回目の銃声が聞こえた。
前の壁に、ななめに亀裂が走った。走りながらの射撃は、敵は苦手らしい。
『もう一度、そこを右!』
無傷の指示に従って、月矢はひたすら疾走した。道が明るくなる。路地の先から夕日が差しこんでいる。
数秒後――月矢は最初の大通りにもどっていた。二十歩以上はなれた所に、無傷が立っているのが見える。月矢は後ろをふり返って、敵の様子を確かめた。
運命調律師は、路地から出てくる所だった。
『神崎くん! あの人の撃つ弾には、本物と偽物があるみたい! だから、本物の弾だけを、よけることに集中して!』
――どうやって、それを見分けるんだ?
月矢がたずねた直後、調律師が放った銃弾がせまっていた。
『それは偽物だから、だいじょうぶ! そのまま、じっとしてて!』
月矢の目に〈敵弾道予測〉の文字が浮かぶ。銃弾の進行方向が光のラインで表示される。それでも、月矢は無傷の言葉を信用して、動かなかった。
顔の数センチ前まで敵の弾が接近したとき、思わず目を閉じた。だが、次に目を開けてみると――無傷の言う通り弾は消えていた。
『これも、偽物!』
次の弾は月矢の腹を狙って、近づいている。
今度は目を閉じずに、しっかり観察した。偽物の弾は体にめりこむ直前で、空気に溶けるようにすっと消えてゆく。
『気をつけて! これは本物!』
三度目の攻撃がやってくると、月矢は体を横に引いて、銃弾から逃れた。正確なアドバイスさえあれば、回避をすることなどたやすい。
敵の弾幕がとぎれた。〇・五秒にも満たないような、わずかなスキが生まれる。反射行動力を強化している月矢にとっては、十分すぎる時間。
両手のコルト・ライトニングを、汗ばむほど強くにぎる。敵の姿をじっくり見すえて、灰色の背広の胸にロックオン・マークをあわせる。
真剣な無傷の声が、頭の中に聞こえた。
『今見えるあの人は、幻覚で作った偽物なの! 本物は偽物のいる五歩ぐらい左で、透明になってかくれてる! そこを狙って!』
偽物に取りついているロックオン・マーク。左にずらす。五歩という距離は適当に計算する。何もない空間に照準を合わせた。
「地獄に……おちろ!」
月矢はさけびながら、銃の引き金を引く。ただ、一度だけ。撃ち出した弾が、何かにめりこむ衝撃音が聞こえた。透明な空間がぐにゃりとゆがんで、中から灰色の背広があらわれた。
長い髪をふり乱して、男はあお向けに転がった。
一発の弾丸で、運命調律師を吹き飛ばした。月矢
は敵に近づいた。自然と笑いがこみあげてくる。背筋がぞくぞくする感覚を押さえられない。
アスファルトの上に、二つの拳銃が転がっている。頭にかぶっていた、高山帽も落ちている。
ただし、顔につけている白黒の仮面だけは、外れていない。
男の胸には、小さな穴が一つひらいている。月矢の弾丸がつらぬいた後だろう。
しかし、服には一滴の血も見当たらず、呼吸に合わせて腹は上下していた。まだ、生きていることの証だった。
月矢は銃をホルスターにおさめた。
両手が自由になった後、左手で調律師のネクタイを引っぱった。ワイシャツが首にからんで、調律師は苦しげな息をもらす。
右手で白黒の仮面を、がっちりにぎりしめた。
「さぁ~て、おまえのブサイクなツラでも、見せてもらおうか?……おらよ!」
かけ声とともに、仮面をはぎとった。あらわになった男の素顔を見て、月矢は息を飲んだ。そして、大きく舌打ちをする。
「チッ! お約束かよ!」
仮面の中からあらわれたのは、二十代半ばの優男だった。男のまゆ毛は細く、切れ長の目は自信に満ちた目で、月矢を見ている。
東洋人とは思えないほど、鼻は高い。かみしめている唇は、皮肉気に笑っている。男と女をまぜ合わせたような、あやしい色気がにじみ出た顔立ちだ。
「どうだ? その美男子ヅラを、ゾンビみたくしてやろうか?」
「それだけは、ごめんこうむるよ。撃つなら体の方にしてくれないか? 中に防弾ベストを着てるんでね」
「あんたが選ぶことはできないな」
月矢は右手にあった仮面を捨てて、もう一度、銃をぬいた。十インチバレルの銃身を、ためらいなく相手の顔面に向ける。
まだ、左手は男のネクタイをつかんでいた。いつでもこの男を殺すことができる、完全に有利な立場。
それでも調律師は笑いながら、話しかけてきた。
「神崎君、さっき君は言ってたな? 『ヒサンな人間がずっとそのままなのは、ヒサンじゃない人間が、その人を助けようとしないからだ』と。じゃあ、本当にそれが正しいのか、試してみるといい。
今まで僕はたくさんのヒサンな人を、助けようとしたがムダだった。何をどうあがいても、絶対に幸せになれない人間がいる事を、認めなければならなかった。君も僕と同じように、必ず絶望するぞ。必ず後悔するときがくるぞ」
「何もしていない人間は、何かをしている人間をバカにすることはできない! それが、どんなにくだらない事だとしても、だ! 覚えておけ!」
怒鳴ると同時に、月矢はコルト・ライトニングの銃口を、調律師の横づらに押しつける。金属の圧力を受けて男の顔の肉がわずかにへこんだ。
「今まで君は、人を殺したことがあるのか?」
月矢が銃を撃てないことを、見ぬいているような言葉だった。調律師は冷たく笑いつづけている。
「……おまえが最初の一人目さ」
言い返した声はふるえている。にぎりしめた銃もふるえている。
月矢は調理師の顔に、銃口をさらに食いこませた。人さし指を、引き金にかけた。
それでも、運命調律師の笑顔は止まらない。
最後までおびえることも、命ごいをすることもなさそうに見えた。
――こいつを殺せ。いや、やめろ。だめだ、殺せ。待て、絶対にやめろ……。
月矢の頭の中。対立する二つの意見が戦っている。
この男を許すわけにはいかなかった。だが、本当に殺すわけにもいかなかった。自分でもどうしたらいいのか、分からなかった。
「やめな、神崎ちゃん。こいつを死刑にしてもムダだぜ」
毛むくじゃらの太い腕が月矢の腕を押さえた。ふり返った時。堕星が立っていた。
そばには堤と、平塚から助け出された有香もやってきている。
「こういう奴は自分が最後まで、正しいと思いこんだまま死んじまうんだ。こいつには、暴力以外の方法で立ち向かう必要がある。
この男が決めた『運命』がまちがっていることを、俺たちが行動で教えてやらなけりゃならねえのさ。でないと、本当の意味で戦いに勝ったとは、言えないんじゃないのか?」
堕星の眼光は、異常なほどの迫力に満ちていた。重みのある言葉だった。数々の戦場をくぐりぬけた兵士のように説得力が感じられた。
今度こそ本当に、月矢は銃をホルスターにもどした。左手でにぎっていたネクタイもはなした。この男への憎しみは消えなかったが、殺意は消えている。
「立てるかい、運命屋のダンナ? 今日は戦いに負けたことだし、まっすぐお家に帰って、ねんねしな」
たおれている相手に向けて堕星は手を差し出した。
余計なお世話だというように調律師はその手を払って、自分の力で起き上がった。
「そうよ! あんたなんか、とっとと帰りなさいよ!」
堤も顔を真っ赤にしてさけんだ。運命調律師は、あらゆる男女に嫌われていた。
月矢や無傷に対してした事を、他の多くの人間にもしてきたのだろう。
調律師は地面の銃を拾った後、高山帽をつかんで頭にのせた。最後に白黒の仮面で、顔をかくした。
自分が戦いに敗れることも、命が助かることも、最初から知っていたような、落ち着きぶり。その動作にはみじめさはなく、敗者を演じている役者のようだ。
帰りの準備が整うと、調律師は月矢にたずねてきた。
「神崎君。君が無傷さんにやさしくするのは、彼女が美人だったからじゃないか? 彼女が最初のままの、気持ち悪い女の子だったらやさしくしたかい?」
誰もが息を飲んで、口をつぐんだ。世界から一人も人間がいなくなったように音が消える。
堕星が、堤が、有香が、何よりも――無傷が月矢の発する次の言葉に注目している。
月矢は歯を見せて笑いながら、軽い口調で答えた。
「気持ち悪い女なんかに、やさしくするバカがいるか? オレはこの人が美人だから、命をかけたいと思うんだ」
「フッ……」
運命調律師は軽く息をもらして笑った。長居は無用とばかりに、全員に背中を向けて見せる。
「運命に逆らえるものなら、逆らって見せてくれ。君たちと僕とではどっちが正しいのか、最後まで見物させてもらうとするよ」
灰色の背広は半透明にうすれて消えた。遠ざかる足音も聞こえない。後には何もない空間だけが残された。




