2-22 再処刑人の決意
シスカーがまだ戦おうとはせず、余裕ぶった態度でこちらを見ていることに、ナージャの中で何かが煮えたぎっていく。それは、パウルの時とは比べて質も強さも違い、二十年前のこともあるがそれ以上にいろいろと気に食わない所為でもあるだろう。それでも奴の強さや不気味さは二十年前から忘れてなどいない。
ただ、オルトは少し離れた所で地面に横になっている。なぜか『魂喰らいの首輪』が奪われていないのが幸いだが、意識がない以上頼りにはならない。
前回よりもさらに不利になったような気がするが、それでも彼女からシスカーに対する闘志を込め、挨拶代わりと言いたいように容赦なく金棒を振るった。
「ちょ、ストップストップ!」
大してシスカーは、そんな彼女の情動を予測してなかったかのように慌てると、振り回した金棒よりもはるかに高く跳び、やや離れた所で着地した。
相変わらず無茶苦茶な身体能力と、異常に肝の据わった態度だ。顔の半分を覆う目隠しの存在がなおのこと引き立たせる。
それでいてあきらかな感情を顔に出して、呆れ気味に頭を振る。
「あーあ、そんなにがっつかないでよ。慌てなくてもちゃんと向き合うからさ。けどその前に……」
話し合いや戦いの前にシスカーが懐に手を入れる。
ナージャは咄嗟に金棒を構えて警戒に入るが、そこから取り出した物は意外な物だった。
「…………?」
シスカーの手にあるもの。
それは、何かしらの液体が入ったボトルのようなものだ。それのふたを開けて手の上に出す。
手の平の液体は半透明に濁っており、やや粘性を帯びている。
「……何のつもりよ」
「あれ? 見て分からないの?」
シスカーは手に出した粘性のある液体を頭髪にこすり付け、それを軽く泡立てると頭皮ごと頭を掻く。
一見すると頭を洗っているように見える。と言うかどうみても頭を洗っているようにしか見えない。
一見、自分の知らない能力かと警戒するも、若干彼女の中に怒りがわき起こる。
「バカにしているの? 戦っている最中に頭を洗うバカが何処に居るのよ」
「ひどぉい!? 私って折角雨が降ってきたからついでに頭を洗おうとして何でバカ呼ばわりされるんだ!」
「…………は?」
どうやらナージャの見間違いではない。ように、ではなく本当にシスカーはシャンプーで頭を洗っているのだ。
それの何がおかしいかと全く疑うことなく
「こんな雨の中だから折角だし頭髪を綺麗にしようかなって思って……あ、別に攻撃してもいいよ。今両手がふさがっているけど戦えないことはないし」
「……あんたってどこまで」
金棒を握る手が自然と強くなる。
冷静にならなければならない。目の前の敵を相手に精神を揺さぶられてはならない。
そのはずなのに……
「ふざけていれば気が済むのよ……!」
さっきまでこいつはパウルの娘を操って自分を殺させようとしたのだ。そのことに対し抱いたのは、パウルに対する同情でも自分を傷つけられたことに対する憤りでもない。
それは、シスカー=ベルベーニュ個人に対する圧倒的な嫌悪だ。
その感情は決してパウル個人に抱いてはいない。あくまで罪状があるからこそ彼と戦っていたのだ。
また、美獣に対してもここまで憤ったことはない、奴の場合はただ単に本能のままに欲望をぶちまけるだけの獣と大して変わらないからだ。獣相手に嫌悪することも怒りを持つこともない。
だが、この異常な脱獄者は違う。
自分がもっとも忌み嫌う人間に近い奴だから。
「形状変化! 『魂抑えの金棒・参の型』!」
ナージャは金棒を具足へと変化させ、シスカーの方へ突撃した。
容易な手段は使わない。あえて近接で攻めるつもりだ。
その上怒りに頭が沸騰しそうになるも、あくまで冷静に相手を警戒したままにとどめる。
「ふぅん。いい怒りじゃない。あんな君がこんな怒りを私に向けるのかと思うと……ビクビクしちゃうって!!」
ナージャは両腕黒化すると、シスカーの方へ右拳を退いて殴りかかると、シスカーは指先で頭髪に絡みつく泡をかき混ぜながら両足を大きく広げて伏せた。
シスカーの頭上にナージャの腕が通りかかる。
「そんな風に怒っちゃだめよっと!」
伏せたかと思えば、急速に体を錐揉み上に反転させて振り上げたシスカーの足が、先ほどまで頭上を通っていった黒い腕を蹴り飛ばした。弾かれた腕と共にナージャは一旦姿勢を崩しかけるが、下手に抵抗などせず蹴り飛ばされた衝撃を受け流すように体を半回転する。
「シスカー! あんたはいったいなにを企んでいるの! パウルに脱獄を唆して、助けるふりをして突き落とすようなことがして、あんたは人の不幸を見て楽しいって言うの!?」
半回転したナージャの足が後ろ方向に弧を描きながらシスカーの方へ振り降ろされる。
さすがに魂抑えの刺がついた具足を防ごうとはせず、体を反転させた直後で回避行動に映れない。
「ん~いつになく激情だね。私はただパウル君との約束を守るだけだぜ」
「約束……?」
だから逆にシスカーは軽く地面を蹴って体を少し宙に浮かせた。直後に具足を着けた蹴りがシスカーの体に当たった。
具足についた棘は刺さり、すぐに魂抑えの力がシスカーに働くはずだ。
しかし、
「あ……効いたし」
「ちっ! 浅かったわ」
予想していたことだが、やはり一撃だけじゃ簡単に脱獄者の魂は抑えられない。
しかし静まったのも一瞬で、魂抑えの棘がナージャの蹴りの強さとその反動により、シスカーの体は否応なしに宙へ飛ばされてしまう。
なまじ、力いっぱいに足を振り回して蹴ったため、容赦なくシスカーは距離を作らされたのだ。
「で……なんだったか。あ、そうだ。パウル君の約束だね。いやー正直難儀な話ですとも!」
ナージャに蹴り跳ばされたシスカーはそのまま地面を五、六回ほど転がると緩やかに足を動かして体を起こしていく。
その間にナージャは具足を大筒の形に変える。
「ヒハハ、その前におさらいだが。陽光街または月華街のどちらかが対立する街の石を奪えば、二つの街は一つの完成された街になる。しかし、なんで二つの街がそれぞれ争い合っているかわかる? くださいとかあげるとか、そんな簡単に済む話じゃないのは?」
「…………」
答えてはいけない。どんな形であれ、聞き苦しい弁舌に答えるつもりはない。まともな問答などバカらしく思い、そのまま大筒から大量の棘をシスカーに向けて発射した。
飛来する大量の棘が容赦なく相手を捉えるが……
「石を奪われた街の住人は、新たな街の礎として肉体が魔力に変換されて石にささげられるんだよ。それってどういう事かわかる?」
「!」
……棘が相手に届く前にシスカーが急速に横へと跳躍して躱すと同時にナージャの方へと駆けて行く。
すぐさま大筒を具足へと変えていくが、素早く距離を詰めてくる以上間に合わない。
さらにシスカーは彼女を言葉で攻め立てる。
「死ぬんだよ。石を奪われた街の住人全てが」
「!」
ほんの一瞬、間近に接近した敵が体を大仰に逸らして蹴りの構えをとる。
反射的に彼女は黒化した腕から黒刃を出し、目の前の壁へと振り薙いでいく。
「言っておくけど嘘じゃないよ。君だってそれがわかるような光景をいろいろと見たはずなんだから」
「!」
だが、相手の蹴りの構えは虚勢であり、すぐに違う動きへと入る。
それまで髪の毛と泡をかき混ぜるようなことしかしなかったシスカーの右手が頭から離れると、それをナージャの顔面で軽く振った。
その行為自体特になんの攻撃にもならない。しかし、唐突な痛みが彼女を襲いかかった。
「っ!? あぁぁ!!」
警戒して敵の姿を捉えつづけていた彼女の目に、シスカーの髪を洗っていた泡が、シスカーの指先から飛んで入ってきた。
不意を打つような強烈な刺激に思わず目元を押さえ、うずくまってしまう。
それは痛みだけにとどまらず、赤い液体が目元を汚していった。まるで熔かされているように、
「ヒュフフ、ちなみにこれ、神竜の脂で作った石鹸なの。私以外が使ったらハゲるどころか頭とれちゃう! え、いい加減何度目だよってぇ? いいじゃん、手札は早いうちに切らない方がいいの」
次に側頭部の方から強い衝撃が走り、彼女の体はよろけていった。
突然襲った目の痛みに加えて的確な一撃を喰らい、彼女は姿勢を保てなくなってしまった。
頼りないくらいに彼女の体が崩れ落ちてしまった。
「ヒハハ。痛い? でもまだ早いって。そんな風に目くじら立てて怒らないと、素直に話を聞いてって」
「…………!」
こちらが動かない。それなのに今畳み掛けるチャンスなのに関わらず、相手の動く気配がしない。
本当にこの脱獄者は、危険だから地獄の使者を始末しようという発想がない。話を聞けと言う以上何かを企んでいる。
その不気味さにすぐ食って掛かろうとしたいのだが、目の痛みと頭を蹴られた衝撃にまだ体がふらついている。
「でーえっと……ああそうそう、街の石が奪われれば住人が死ぬだったな。それでー、だからパウル君は、何が何でも死ねなかったんだよ。もっとも、犠牲って事もあんまり好きじゃないから対して攻めたりもせず、本当に中途半端な結果のまま二十年も経った」
「…………」
まじめに取り繕うつもりはないが、しかしシスカーの話にナージャは覚えがある。
確かに決してお互いの街が相容れぬよう、住人達は対立する街には住めない体であることを、ある寵愛者との戦いから実際に見た。
それに、ツキカゲと話し合ったあの部屋の壁画のことだ。
『オルトロスさん。これって、月華街と陽光街の事だよね?』
『ああ、結構古いな。この街とあの街ってそんなに長く対立し続けてたのか……』
あの絵の最後に描かれていた意味。
敗北した街の住人が天へ上る所を、勝利した住人が喜ぶ場面。
つまり……守護者の敗北は街全体の敗北となる。
「……だからあんたに助けを求めて……結局こんなことになったって?」
「そ。この雨は街の守護者が弱っているときに起こる現象さ。パウル君以外の守護者さんもやられちゃったようだし、もうあとは紙の砦だね」
そうは言うものの、現在街を攻め込んできた騎士たちはなぜか陽光街の寵愛者や守護者と共に周囲で意識を失っている。
それなのにこいつはパウルの娘を使っていいように操った。
耳に届く奴の声に悲壮感などまったく感じられない。
「もう、パウル君ったら死にたくないならこんなこと話せばいいのに、不器用な子なんだから。あ、ちなみにパウル君の娘さんは街の外から来た例外だからどう転んでも死なないので大丈夫!」
「……そんなの」
逆に言えばパウルの寵愛者は石を奪われれば確実に死ぬ。
街が奪われるという事は、街の全てを失うことに等しいことだ。だから彼にとって何がなんでも負けていられなかった。
それが今、目の前の敵にすがった結果が今の状況でしかない。
本末転倒なことだ。
「こんなやつを信じて、本当に愚かだから!」
怒りが沸き上がる。終始あの男はこいつに踊らされっぱなしで、なにひとつ救われていない。
そして当の本人はなんら悪意の感じられない屈託のない声を出す。
「知らねえか? 私は嘘だってつくしだましたりはするが、約束はちゃんと守る方なんだよ」
「そんなの知らないし、それ自体信じられるわけないでしょ……!」
「いやいや……あなた次第でそれは守られるんだよ」
「…………は?」
今、唐突に意味不明なことを言われた気がした。
パウルの命を奪おうとした彼女が街を救えるのだと、そう言われたようだ。
「だ・か・ら、再処刑人さん。私の代わりに陽光街を守るか、それとも一度協力した筋を通して月華街を応援するか…………どっちか選べよ」
「……どういう事よ」
しかし、気のせいではない。本気で怪しくも訳の分からないことを要求された。
それなのに、シスカーが適当を言っているだけに過ぎなかったはずが、本気でナージャに街のどちらかを勝たせようと動かすつもりだ。
現世の些事など、地獄から来た自分のやることではない。そんな問いかけなどナージャが結論に至るには早かった。
「なんで私がそんなことを…………」
「『他人なんかのためにしないといけない』、でしょ?」
「!」
しかし、ナージャの言葉をあらかじめ知っているのか、シスカーは言葉をかぶせてナージャの台詞を否定した。
予想済みの台詞に予想済みの反応。
わかり切っていたそれが見事にわかっていたようで、落胆したようにシスカーは喋る。
「もーなんなんだよぉ、出ちゃったよ思考停止台詞ー。そんな理由だけで先生は満足できねえし。志望動機しかり記録書しかり、心情は具体的に書けと教えられたはずでしょ?」
「なにが……」
「これはね、あなたがやる必要のあることだから、あなたがすることなのよわかるぅ?」
「黙って……!」
目元の痛みが治まり、少しずつ感覚が戻っていく。
足には具足を嵌めたまま、手は黒くしたまま、いつでも動き出すことのできる状態だ。
しかしまだ彼女は動かない。いくら隙だらけに感じられても、そこの見えない穴に飛び込むように迂闊に仕掛けられない。
それでもこのままシスカーの言葉に従い続けるわけにもいかない。
「だってさあ、君の行動がこの街の運命を左右すると言っても過言じゃないんだよ。なのに地獄から出て、わざわざパウル君を殺すためにここまで来て、パウル君が死んだことが発端として予測するまでもない惨劇を無視するなんて……どう思う? パウル君が守護者になったのはパウル君のせい? パウル君が死んで『太陽石』が奪われれば……それもパウル君のせい? それともあなたのせい? どっちにしてもパウル君を信じている街の住民は必ず君が悪いんだって、そう憎みながら死んでいくんだと思うよ」
「もう……黙って」
あとはもう、賭けに出るしかない。次の行動が、決着をつける時だ。
「少なくともーパウル君の娘は、何もしない君を絶対に許さないんじゃないかな? ほらほら自覚しろよ。さっき君が言おうとしていることは、君の憎んでいる“罪”そのものなんだよ。パウル君を殺すことが“罰”だとするなら、パウル君がいなくなったこの街の人が死ぬのも“罰”なの? それって君自身がかつて君を苦しんでいた存在と同じになることなんだから……」
「黙って!!」
ついにナージャは、話に夢中になるシスカーの隙を見つけると同時に、あまりの不愉快さに耐え切れず動き出した。
黒化した腕を射出するように突き出した手刀は、至近距離から弾丸のように真っ直ぐと走る。
顔を振り上げた先、指先はシスカーの左胸めがけて狙う。
それが案の定と言うべきか、内心激情する彼女の行動を読んだシスカーは、そのまま泡にまみれた手で滑るように受け流し、交差するように肘鉄と回し蹴りが立て続けに襲う。
蹴りに対してナージャは別の方向へと跳躍し、そしてなすがままに蹴り跳ばされた。
頼りないほどに吹き飛んでいく体は、途中にあるものを巻き込んで住宅の壁に激突した。
「…………ッ!」
腹部に感じる鈍い痛みに呻き、拳を背後の地面に打ち付ける。
歯を食いしばって目を開くと、いつの間にか髪に絡めた泡が雨で流れ落ちたシスカーの姿が見える。
表情は全く笑っていないのに、声だけテンションが高い。
「あはーん! もう変な抵抗しないでって。お前の選択肢はAとBの二つで、第三の選択Cは【私が拒否する】しかないんだから。なのにそんなに選びたくないの? 地獄の住人である君が余計な介入をしたからこんなことになったのに?」
「……ふざけないで。そもそもあんたがパウルに脱獄するきっかけを与えなきゃこんなことにならなかったのよ」
直後、背部にも鋭い痛みが走る。それと同時に力が若干抜けていく。
それでも、痛みが合図のように立ち上がり、もう一度走り出す体勢に入る。
「ヒハハ、だからさあ……あいつが悪いだのこいつが悪いだの言わないで、大事なのは今どうするかでしょ? ねえ、地獄の使徒さん?」
「あんた……!」
もう一度、両の腕から刃を生やしてシスカーの元へ駆ける。
(もうこれ以上長くは保たない。なら……!)
「ヒュフフ、目をそむけないでよ。どれだけ泥をかぶろうと罪人だけ裁くのが君の信条かもしれないが……罪も、罰も、立場が違うだけで結局大して変わらないんだー……よっ!!」
至近距離まで近づくと次々と黒刃を振り回しては、猛襲していく。
一つひとつが手に取るようにわかる。そんな風に余裕で躱していく以上、柳に風でしかない。
それでも彼女は攻撃を続ける。その上でシスカーに問い詰める。
「……こんなの、見捨てても、どちらに手を貸そうと、結局犠牲が出ることには変わりないのよ」
「おやおや、やる罪よりやっちゃう罪? やらない後悔よりやる後悔? ヒハハ、確かにどっちを選んでも結果の質が違っても量は同じだけど……」
「けどね」
「ん?」
一旦攻撃を止めて距離を取った。ほんの二か三メートルほどの距離だ。
先ほどの攻防で仕込みは十分終えた。賭けのための布石も終えた。
ここからがラストスパートだ。
「……その上で私は、陽光街も月華街も選ばないわ。地獄から来た私が、現世にこれ以上介入なんてする必要はないし」
「結局その結論に至るの? だからそれが、考えない思考停止の台詞だって何度も…………」
「違うわ」
それは決して地獄の事を思っての台詞ではない。むしろ自分の嫌う地獄のために忠義などあってほしくない。
地獄からの規律以前に、彼女の意思から決めたことがある。
「地獄のためになんて言葉、死んでも言いたくないことよ」
「じゃあなんで君は私が言ったことを拒否するの?」
「何度も言わせないで。そんなの決まっていることよ」
彼女に、葛藤も迷いもない。
それは思考を放棄したことではない。たどり着いたひとつの結論を、彼女は貫き通そうとしているだけだ。
「それでも私が、何の関係のない誰かを助けるなんてあり得ないわ」
結局は「他人のために助けることなどしない」の一言でしかない。
いや、彼女の言う「他人のため」とは「他人の幸福」でも「他人の不幸」でもない。
関わらない。それは否定でも肯定でもないという事だ。
それは決して排他的な感情から来るものなどではない。
「本当はここにいてはいけない。その私が、同じ対象の脱獄者以外に動かないわ」
……徹底的な無関心主義にすぎない。
地獄を含めて忌み嫌う“自分”が、ただ自分の感情だけで他人の生死を判別し、決定するのは間違っている。
そんな地獄から来た人間と、現世の人間との、線引きを意味しているのだ。
ただ彼女は、任務の上で必要な人物にのみ、必要な分だけ利用し、関わろうとするだけ。
情報収集も、協力も、必要だから行っただけ。
脱獄者パウルを倒すのは自分だけ。それ以外は自分の知ったことではない。
その一言に尽きるのみだ。
「……愚かだね。あーあ、どうして人間て無意味に自分を縛り付けるんだろうか。そこから得られるのは価値観でしかない。実用的な意味なんてないんだし」
常に感情豊かな表面に対して底の見えないシスカーでも、この時何を思っているのかはっきりとした。
それは、非常に強い落胆だ。
「本当に愚かだよ。お前も、お前をそんな風にした連中も、全部全部…………これっていわゆるなんとかかんとかの監獄実験じゃない? ああもう何言ってるのかさっぱりだわー」
そろそろ動き出さなければまずい。
ナージャは、魂抑えの具足から金棒へと戻し、構える。
これ以上時間を長引かせるつもりはない。
「どんなに優れた教科書も、読むにふさわしくない人間がいるって実感したわ。じゃあせっかくのパウル君の約束も不本意だけど私は……」
「待ちなさい。シスカー」
「待たない、って言いたいけど、せっかくだから最後のじゃれ合いだけは付き合って……」
シスカーの最後の言葉を待たず、ナージャはついに動き出した。
まずは、魂抑えの金棒をシスカーに向けて放り投げ、直後に金棒に続いてシスカーの方へ接近していく。
「ヒハ、そんな捨て身にもならない攻撃の何になるって!」
突然、武器を捨てるにも等しい暴挙も奴にとっては予想の範囲内であり、軽く体を横へずらしただけで金棒は通り過ぎていった。
直後に黒刃でまた攻め立てるであろうナージャを迎え撃とうとして構えを取るが……
「捨て身程度でどうにかなるなら簡単だったのに、ね!」
直後、ナージャは右手から生えた黒刃で、自分の左腕を二の腕から斬りおとした。
「え?」
斬りおとされた左腕にはまだなにも生えていない。
それがそのままナージャの足元へ落ち、走る過程で蹴り飛ばされてシスカーの足元へ滑ると……
「……まさか!?」
シスカーは嫌な予感を察した直後、思いっきり体をのけぞらせた。
奴の足元にある、斬りおとされたばかりのナージャの左腕から黒刃が生え……
「っ! 本気で!?」
のけ反ったシスカーの頭上近くにまで伸びた。
突然の方向から来た不意打ちに即対処しきれず、体をのけぞらせたまま姿勢が戻らない
この隙を作り出すために、自分の腕を一本捨て身に使った。
だからこそ右腕の刃で体を思いっきり逸らすシスカーに、全力で刃を振るった。
しかし、両手二本で白刃どりするように黒刃を止められた途端、動きを止めてしまう。
「まだよ!」
ナージャは右腕の黒刃はそのままで、足を使って地面に落ちたまだ黒刃のある左腕を蹴り上げ、自分の顔近くまで上げた。
そして、それを口でくわえるように掴み、刃の先がシスカーの方へ向かったところで思いっきり顔を振り降ろした。
だがそれよりも早くシスカーは仰け反りから本気で倒れるように足を上げ、白刃どりした黒刃を掴んだままナージャを巻き組むように体を後ろへと沈ませる。
右手から引っ張られたことでバランスを崩し、口にくわえた左腕の黒刃が外れると、いっそのことシスカーの全身を抑え込んで動きを封じるべく、左腕を離し、右腕からの黒刃を消した。
それも予想通りだったシスカーは地面に背中がつくように倒れた直後、自身の右膝を上げてナージャとシスカーの間を割り込むように入り、そのままナージャの腹部を蹴り上げる。
体を蹴られて浮かび上がった瞬間、シスカーは両腕を頭上の地面に置き、仰け反ってから足を突き出してバランスを整えながら立ち上がった。
斬れた左腕の断面を付けて這うナージャを前に、それでもなお傷一つないシスカーが立っていた。
「ヒハハ、少しはがんばって考えたようだけど……惜しかったね」
「…………っ!」
二十年も、再戦を控えて常に修練を重ねたはずなのにそれでもなお実力差が埋まらない。
自分自身傷つく覚悟を持っても傷一つすらつかない。
不愉快で、嫌らしく、主義も思想も不明なくせに、どれだけ嫌になって振り払おうとしても消えてくれない。それがたとえナージャでも例外じゃない。
まるで、圧倒的な理不尽そのものを象徴したような存在だ。
だが、
「……いや、もうこれでいいわ」
「ん? どしたの」
「少しだけ、あんたの戦い方がわかった気がする」
二十年前、奴に敗北したあの時、自分になかったものを彼女は知っている。
なぜ自分は敗けたのか、あの時どうすればよかったのか。
何が必要なのかを、ほんの幽か彼女はわかりだした。
……こいつは目かくしをして何も見えないくせに、他人の感情には鋭い。
シスカーにとって先ほどの彼女の攻撃は、相性がいいにことに他ならない。
激動と形容するように、ただ容赦のないだけの攻撃が闇雲に向けられていたばかりであり、途中で不意を突くような攻撃も含めて、その後の行為のすべてが彼女そのものの熱がこもったように感じ、シスカーはそれをことごとく読んで躱していった。
逆を言えば、感情の感じられない攻撃こそシスカーの弱点。
かつ、奴の知覚から外れた存在からの介入。
この二つの条件を満たすのはそうそうない。戦闘に立つ者なら何かしらの思想や感情に基づいて動くわけだ。自分に対して近づく者は何だろうと感知するだろう。
だからこそこの条件を満たすのはナージャにとって賭けに近かった。
その賭けが成立した今、シスカーに反撃をすることができる。
「よぉ、さっきから好き放題してくれたな」
「…………ぇ!?」
その時、突如シスカーの背後から疾走してきた何かが、シスカーの左足に噛みついた。
シスカーは回避どころか認知さえできなかった。先ほどナージャと攻防を繰り返したこともあるが、ナージャとは正反対の方向から誰かが攻撃する可能性もないはずだと思っていた。
これがただの突撃ならばシスカーは回避し切れていたはずだ。しかし飛んできたのは先ほどまで意識を失っていたはずの、ナージャの相棒……
地獄犬オルトロスだ。
「…………!!」
「よく、やったわ………さあ、シスカー」
魂喰らいが働き、シスカーの魂が緩やかに奪われつつある。
もちろん、シスカーの場合、それだけで完全に抑えられるわけではなく、オルトやナージャから離れ、即座に距離を取って回避行動を取るはずだ。
それでも、仮にも地獄の技術である魂喰らいの作用によりほんの数秒だけ奴は動くことができない。
その隙を彼女は決して逃がさない。
「もう、逃がさないわ。歯を……食いしばりなさい!」
右に握られた拳の内部から血がにじむ。
黒化してもなお自身を傷つけるほどに込められた右拳は大きく後ろに引かれ……
「タ・ン・マ、お願い!」
「許すわけないでしょ!!」
次の瞬間、シスカーの顔面に右拳が突き刺さった。




