2-21 脱獄者パウルの真実
自分と言う存在は、どれだけ理不尽で非情で非人道的なことに遭おうと、世界を救える力を秘めているためならば喜んで犠牲となった。
かつて世界を滅ぼすほどの怪物を身に宿した少女は、そうやって自分自身を誤魔化し続けた。
魔道を礎とする世界で、政府公認の退魔師の家系に生まれた少女は、今まで家の使命に縛られながら生きていた。
魔道こそが至高であり、それを悪用する者を許すわけにはいかない。
故に自分の時間を、人間関係を、ありふれたものを不必要だと切り捨てられながら少女は家の使命に全うしていった。
家で一番優秀だから、力が強いから、一番期待させられているから、だから少女は己の意思を無視する形で、魔道を悪用する者を次々と罰していった。
だからこそ、戦争の兵器として開発し、結果として手に負えなかった怪物が生まれようと、少女のやることは結局のところ決まったようなものだ。
自分自身を不死にして怪物を封印する結論に至っても、少女はなんら抵抗はしなかった。
元から求められていたものが手に入らなかったために、代償など何も怖くない。
それどころか、そのために煩わしい家の使命にもう振り回されることがないならば、むしろこれが最後なのだと安堵したものだ。
そうしてとある王国の地下に封印されてから、少女はようやく“安堵”というものを手に入れた。
結局欲しかったものはもう手に入らない。しかしこれ以上辛い戦いに身を投じることもない。不死の代償に感情を得ずられた少女の、最後の感情でもあった。
感情がないならずっと地下に閉じ込められようと苦痛は感じない。
そう考えていた。それだけで終わるはずだった。
そんな少女にとって、彼は衝撃的だった。
いや、後から衝撃的だと振り返る事になるが、それだけ彼の存在が異常だった。
体を動かせない。声だって聞けない。そんな自分に見初められた奇妙な男。
自分一人のために世界を敵に回し、リスクを抱えたまま訳もわからず救出された。
彼に救われた。そう自覚し始めたのは王国が滅んでしばらくのこと。
彼はとても異常なことをした。そう不思議に思ったのは、更にもう少し後のこと。
だけどそんな彼を糾弾する気は少女にはさらさらなかった。
怪物を体内に封印されたときから元より危機感などという立派なものはない。
その後、彼と少女は、彼の育て親である仙人の隠れ家で住んだ。
ただ、自分のそばにいたい彼の期待には答えようと、それだけは思った。
そうして彼と少女はつかの間の幸せを歩んでいった。
ほんの数年、周囲から離されたように暮らしていったが、彼のそばにいて不思議と悪い気持ちはなかった。それが少女自身には自覚のない感情のようなものだった。
しかし、彼と彼女との間に娘が生まれた時、あるひとつの転換期が訪れる。
彼は言った。彼自身の命を担保に差し出せ、と。
それを聞いた時、彼女は自分が助けられたこと以上に信じられないことだと感じた。
もうすでに彼の捜索はほとぼりを冷めようとしていたはずだった。
しかし、この隠れ家が人の目に入ったところを彼は知っている。つまり、この場所が見つかるのも時間の問題であり、そこでパウルの存在が確認されれば、また同じことがぶり返される。
さらに彼と彼女はまだしも、娘を永遠と隠れ家に閉じ込めるようなことはできない。
結局彼女は、彼が死ぬ間際まで全ての感情を取り戻したわけじゃない。だからパウルがやろうとしていることを彼女は理解しきれなかった。
彼は結局何がしたかったのだろうか。どうして彼は危険なことをしてまで自分を助けるような事をしたのか。
危険を背負ってまで自分を大切にする理由を、彼女は曖昧なまま答えを出しきれなかった。
しかし、そんな彼女にもおぼろげではあるがわかったことはある。
一つは、もう十分すぎるほどながく人生を共にした伴侶を失う事に痛みを感じていること。
二つは、決して彼は辛い事や困難から逃げるつもりではない。ただ娘を守りたかったからなのだと。
そして三つは、そう理解した自分も、何があっても大切な娘を守るのだと、そう心の中に誓った。
そして、彼……パウル・ロキ・シェロスは体に怪物を宿したまま命を落とし、彼女に封印を施された。
そこから先がどうなっているのかパウルには全く知りえない。ただ、死ぬ間際に妻の顔から感じ取れた表情が、娘を守っていくための感情だと理解した。
そう思い、彼は娘と妻が生き延びていることをただ願うのみであった。
◇
地獄へ落ちたことが確定した瞬間、彼はもうこれ以上自分のせいで誰かが苦しむことはないのだと思った。
パウルと言う器はもうすでに死んでいる。後は自分がどう扱われようとかまわないし、自分を知る人物にこれ以上不幸なことは起きないと信じたい。
だからパウルは、自分が見えないところであろうと、現世に残した妻と娘の無事であると信じていれば、地獄の苦行など堪えてきた。
唐突に入ってきた悲報が来てしまうまでは……
「パウル君ってさあ、自分が死ぬ瞬間に現世で家族を残したりとかしなかった?」
「え?」
ある地獄の一日のこと、特に何か特記しているようなことなど何もない日の中、シスカーは唐突にそう訊いてきた。
対して仲良しでもないし、そんな話をした覚えもないはずなのになぜそう訊かれるのかさっぱりわからない。
「家族、だと?」
「ええ。だって君の顔からはここにいない人間を思って憂うような感じをしていたし」
シスカーからそう指摘されるが、そんな顔をした自覚がない。思わず自分の顔を指で触れるが、やはりよくわからない。
しかし、時々ではあるが残した妻と娘のことを思う事はある。もしかしたらシスカーの言ってることは当たっているかもしれない。
自分がいない間でもうまくいってるのだろうか。特に娘に至っては成長した姿が見られないことだけが唯一の心残りなのだ。
そう未練がましく考えていると、次の瞬間パウルは耳の疑う言葉を聞く。
「しかもあなたって、わざわざ妻と娘を護るために自分の身柄を差し出すように、わざと自分を奥方に殺させたんでしょ」
「!」
そんな話は一度もしていない。そもそも自分の身の上話を一度もしていないから名前以外なにも知らないはずだ。
あてずっぽうに言っているだけなのだろうか。しかし、淀みもなくそう言い切る以上適当なことを言っているとも思えない。
唐突にそんな事実を突きとめられて動揺を隠せないことに思わず訊きかえしてしまう。
「『どうして知っているんだ』…………!?」
パウルが次に言う内容を予測しては、シスカーは台詞を被せてつつ笑う。
言いたいことを言われてなお動揺するパウルに、呆れながら頭を振る。
「はぁ、次の台詞がありきたりすぎるよ。そこは『えぇ! 僕の過去を知るなんて、君って実はすごいんじゃない!? さては地獄の住人さえも懐柔せしめたの!』だよ」
「…………!?」
ふざけたように言うが、その内容はとんでもない。
確かに表層部にある死役所ならば、咎人の生前について知っているのはおかしなことではない。おかしくはないが、そんなことが現実に起きれば不祥事ものだ。咎人相手に個人情報漏えいで秘密主義に反するからだ。
当然、パウルが無言を貫き通そうと、言語以外の感情を読み取って勝手に答えていく。
「……ヒハ、半分嘘だけどね。鬼の皆さんを責めないで、私が悪いんだから」
「それって、まさかだつ…………」
「あ、詳しいことは言えないよ! 大事なのはここまで、ってね」
誤魔化すようにさわやかそうな笑みを浮かべて強制的に会話を打ち切られた。
どういうことなのか余計に気になる所だが、獄卒が近くにいる中そんな際どい内容は話せない。
「じゃあ唐突な報告だけど、君の娘さん…………いま大変なことになってるよ」
「え?」
そんな中、パウルは今聞き捨てならないことを聞いてしまった。
自分の娘が大変なことになっている?
「ああうん、君を犠牲に身柄を預かったのはいいけど、誰がそれを知ったのか身柄を預かった先が襲撃されてねえ…………奥さんは死亡、娘さんが身柄を拘束されちゃったのさ」
「ちょ、ちょっと待て! きみはなにを言ってるんだ!」
話がなかなか入ってこないパウルにお構いなく、マシンガンのように信じられないような内容が無理矢理耳にねじ込まれる。
「わからない? だから、君の娘さんは君を快く思っていない連中に襲撃された上に拉致されたんだよ。しかも、娘さんには母親と父親の力を継いじゃっているから、そこに私利私欲な部分が混ざり合って色々と大変なことに…………」
「だからさっきから何を言っている! 根拠もなしにでたらめを言わないでくれ!」
いきなり自分の家族が危険なこになっていると聞かれても簡単に信じられるわけがない。
この咎人はやはりありもしないでたらめを言って惑わせているにすぎないのだ。
「え、信じられない? 私が出まかせ口任せ運任せに言ってると思う?」
「当たり前だ! 現世の様子なんか知りえない咎人の君がどうしてそんなことを言い切れるんだ!」
「えー……ありきたりでつまらない否定材料だね。はい、そんなパウル君のために、証拠映像を持って来たよ!」
「え…………」
どれだけ否定しようと、信じられないだろうがそれを目の前の咎人は逃がさないものの、映像などそれらしいものを見かけないことに疑問符を浮かべるパウル。
そんな何も知らない彼を不意に崖から突き落とすように、シスカーはニヤニヤと笑みを浮かべると非情な現実を押し付ける。
「…………?」
シスカーの手の平がパウルの額に触れた。
これから何をされるのか皆目見当もつかないが、特に抵抗する力もなくそのままシスカーがどう出るのかを待つと……
不意に頭の中に、真っ黒な映像が強制的に脳内に浮かび上がった。
唐突に現れた謎の映像に怖気を感じたパウルは、背中に走る寒気と共にシスカーから離れる。
「っ! ……今のは!?」
「おーおー落ち着いて。ただお前に知ってもらいたいだけなんだから」
「? 君はいったい何がしたいんだ」
「ほらほら。攻撃しないからよく感じ取れ」
不審に感じたパウルだったが、半ば強制的にもう一度、シスカーの手の平が触れられ、頭の中にまたしても真っ黒い何かが映った映像が浮かび上がってきた。
いや、視覚からの映像だけではない。黒い何かが見えてくると同時に、鼻の奥に突き刺さる強烈な焦げのような刺激臭と、耳が鳴るような聴いたことのない人が、まるで記憶の中から掘り起こされるように感じ取れてしまう。
直接パウルの感覚が働いたわけではない。その体験ごと記憶を流し込まれているみたいだ。
(……何なんだ? 僕は今、なにを見せられているんだ…………?)
この得体のしれない記憶が何なのかはわからないが、シスカーの言っていることの裏付けにならないとパウルは根拠もなく否定する。嫌な予感が杞憂だったら、それみたことかと否定すればいい。
その思いで映像を見続けていると、パウルはあることに気がついた。
最初に見た時はただ真っ黒に映っているとしか思えなかったが、完全に真っ黒と言う訳ではない。光を当てているのか、所々それを反射していて、それがほんの幽かに全体的なシルエットを表しているのだと思う。
そのことに気づいたパウルはそのことを念頭に置いて映像の内部を全体的にじっくりと眺めていると……
「あ……あ…………」
……パウルは気づいた。気がついてしまった。
その瞬間、パウルの中から大切ななにかが崩壊していくのを感じられた。
シスカーを否定しようとした感情は完全に消し飛んでいった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああ!!」
頭に流し込まれたような記憶の映像の意味、シスカーの言っている意味。そして、あってほしくなかった真実に、パウルは気がついた。
それを知ったパウルの反応は、至極当然だった。
「そんな……嘘だ…………」
「あーあ、リアクションまでありきたりだし。もうちょっと強く受け止めろよ」
シスカーを突き放してへたり込んだ彼に容赦ない言葉を送る。
映像に映っていた黒色は炭の色、シルエットはかろうじて人の形。
人の形をした大きな炭の塊が、柱に磔にされており、それを観衆たちが好奇の目で見つめている。
それを見ただけで戦慄が走る。
「言っておくけど、別人の可能性でも、すでにある死体の可能性でもないよ。ほら見て」
「ま、待て。やめてくれ……!」
シスカーは、恐怖を覚えて嫌がるパウルに無理矢理近づき、もう一度その手をパウルの額に当てた。
また頭の中に映像が流し込まれる。既存の文章に無理やり文字を書き加えるように、頭の中に映像……ではなく五感を通した記憶がよみがえる。
『いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああッ!!』
「!?」
記憶の内容は、最初に見た映像の少し前の様子だ。
常人なら発狂してもおかしくない記憶を、容赦なく頭の中に叩きこまれる。
『熱い! 熱いっ! 嫌ッ!! どうしてッ! どうしてこんな酷いことをするのッ!!』
「そんな……」
『助けでッ! お願いだからもうごんなごどはやめて!! お願いだからッ! もうやめてッ!! やめてってばッ!!』
「やめてくれよ……」
記憶の中で、娘を傷つけている何者かを、ただ呆然とした言葉でしか言えない。
それなのに。パウルの頭の中で一方的に少女が無残に焼き殺される姿が、悲鳴と共に現れる。
首から下部分を炎で焼かれるも唯一炭と化していない表情が露わになり、その唯一はっきりとしている貌が、炎に焼かれる痛みと観衆の視線にさらされる屈辱に歪んでいく。
涙を流して叫んでいく彼女の姿は、もう絶望という。
見た感じまだ十代に至ったばかりの少女だ。なぜこのような幼い少女が写真のように非人道的なことをされなければならないのだろうか。
『助けてッ!! 父様! 母様! 誰かァ!!』
「もうやめてくれぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええええええええッッ!!」
再生される悲鳴に耐え切れず、パウルは目の前のシスカーを突き飛ばした。
抵抗なく地面に尻を打ち付けるシスカーを、パウルはこれ以上怒りはしなかった。
「はぁ…………はぁ…………うっ…………ぐ…………」
気持ち悪い。
胸の中身を、無茶苦茶のかき回されたような、不快感などを簡単に超越したそれを、ただただ処理しきれずに呆然ととどまっている。
怒りよりも悲痛さに混乱する彼にお構いなく声が耳に入り込んでくる。
「ね、見覚えはなくても、見た感じわかるでしょ? この娘がいったい誰なのかね?」
「……ヴァレリィだ。間違いない…………」
パウルは確信した。今の記憶の中にいた少女は、自分の子どもであり最後に愛した妻の子どもだと。
自分が最後に見たのは赤ん坊の姿であり、写真に写る少女と一致しているとは限らないはずだ。
しかし、パウルにはわかる。この少女の面影が妻によく似ているし、それ以前に理屈ではなく本能的にあの映像の少女が自分の娘であることを感じ取った。
だからこそ、あの記憶はより痛烈にパウルの心の内を抉り、蝕み、削り取っていく。
「こんな状態だけど、この少女はまだ生きている。親から引き継いだ余計な力が少女を生かしている。皮肉なことに、それが周囲から異端扱いされているのにね」
「僕と……あの子の…………?」
「ええ。簡単に死なない、なかなか老いない、力が制御できない、親がまず特殊、人間が勝手に敵視するには十分すぎるほどの『理由』があるんだもんね」
「なにが理由だ……こんなこと許されるわけないだろ!!」
かつてあの王国の時に抱いた時と類似する感覚に、堪え切れない怒りを叫びに乗せて吐き出す。
しかし、そんな叫びなど無意味でしかない。
「いやいや、許すとか許さないとか、そんなこといくら君が憤ろうと、それでどうにかなるわけじゃないのさ」
「そんな……」
自分の思慮の足りなさにパウルは後悔した。
災いの元である自分がどうにかなればそれでいいと考えていたのに、想像していたのとはあんまりにも違いすぎる。
それこそ、かつて自分の妻にされた仕打ち以上の非情さに怒りさえも覚えてしまう。
「こんなの……あんまりだよ。娘がなにをしたんだ…………」
絶望し、打ちひしがれるパウルに対し、シスカーは笑みを浮かべる。
善意とは程遠い思想が絡み合った、混然とした笑みではあったが。
「ねえ、だったらさぁ……助けにいかない?」
「っ……助けに? どうする気だ?」
不穏な空気を感じ取り、警戒心を高めるパウルに、シスカーは提案した。
「だ・つ・ご・く、しましょうよ」
「……っ! い、いくらなんでも、こんな状態でどうやって行くんだ」
「おいおい…………最初っから悪いところを指摘するのは、減点ポイントになるよ」
「…………」
娘を助けたい気持ちがないわけではない。
すでに現世で死んだ自分が、地獄を不法に地獄を抜けることに対しても、娘を助ける責任にも、全てが後ろめたく感じてしまう。
「あら~? 少女を助けるために世界を敵に回したのに、変に真面目だねえ…………いや、臆病と言うべきか?」
「…………」
かつて妻を助けたこと自体は後悔していない。しかし、そのために犠牲にした人たちの事を思うと、もっと他に方法がなかったのだろうかと振り向いてしまう。
「第一、こんなの不条理じゃない?」
その心情を知ってか知らずか、の声が心の内に入り込んでくる。
「折角君がいろいろとがんばって救いたいものを救ったはずなのに、未だに大切な存在は悪しき人間に苦しめられている」
再び二枚の写真をシスカーに無理矢理見せつけられる。
人間としての尊厳などかけらもないこの仕打ちを見せられて、胸の内をかき回される。
「しかも誰も助けてはくれないんだよ? どいつもこいつも自分と違うだけですぐに攻撃的になる。大きな流れに簡単に従う。現世の問題だから地獄が何とかしてくれるわけじゃない。だからいま助けられるのは私と君しかいない」
「僕だけ…………」
「だからねえ、可能不可能はいいからさあ、教えてよ。もう一度、なにもかも敵に回して自分の信じる道を進む?」
「……そんなの、決まっているよ」
けど、やはり最終的には娘の命を助けたい。
かつて自分の妻が人柱になった時に抱いた感情が再び湧き上がる。
苦痛への悲哀、不条理への怒り、
そこには自分自身にどんな犠牲を被ることを知らない熱狂的な一途さが窺えた。
「ヒハッ、いい覚悟だ」
その心情を見透かすように、シスカーは笑みを浮かべる。
「脱獄なら任せてよ。来たるべき時が来たら、君も連れて行ってあげる」
「来たるべき……時?」
「ええ。そう遠くない日に、ね」
そう言って笑うこの咎人は、どこまでも得体の知れない存在であるが、もはやそんなことは彼にとってどうだろうと構いはしない。
あの写真が偽装である可能性は低い。写っている子が自分の娘であることも確信できる。
大切な存在を守るためならば、再び罪を犯すことになろうと、得体の知れない咎人の思惑に乗ろうと、パウルの意思はすでに決まった。
パウルは地獄監からの脱獄を決意した瞬間だった。
◇
地獄から抜けたパウルとシスカーは真っ先に五番界へと向かった。
シスカー曰く、地獄からの追手はすでに対策を練っていたらしく邪魔される心配はないため、心置きなく娘の救出に向かう事が出来た。
さらにシスカーは娘や救出した自分らを危険視し、抹殺を企てる機関から身を守る支援をしてくれ、さらには救出した娘の治療に陽光街を紹介してくれた。
「シスカー。君には頭が上がらない。娘を助けるのに力を貸してくれたことを、本当に感謝する」
パウルの腕の中に火傷を通り越して炭と化した人間がいる。
かろうじて人の形を保っているだけの悲惨な状態でしかないが、いまだにまだ意識が残っている。
両親から受け継いだ力が悪い方へ働き、不快感を伴ったまま死ぬに死ねない地獄を味わっている。
だが、もうこれ以上大切な娘が苦しむわけにはいかない。
「この街の魔術を使えば、時間はかかるが少しずつこの娘の火傷を修復していくといいよ」
「……シスカー。本当に、君は…………」
「いやいや、安心するのはまだ早いよ。この街だってお前やそこの娘が異端扱いされる恐れだってあるけど、そこは君がこの街に貢献すればいいんだから」
「貢献…………」
確かに、娘がこの街で治療を受ける以上、長く留まる必要がある。
こんな黒焦げな姿から元通りになるまでの長い間、自分たちはこの街に受け入れてもらえるよういろいろと努力する必要がある。
まだ安心できない。まだ地獄へ帰るわけにはいかない。
せめてこの娘が一人で立派に生きていけるよう安心するまで、そばから離れるつもりはない。
「これでお別れだよ。ヒハ、ちょくちょく遊びに来るから、その時はお前の大事な娘がちゃんと回復しているか見に来るから」
「ありがとう。この恩は忘れないよ」
「ええ、忘れないで頂戴ね」
パウルが新たな決意を固めていると、シスカーはそれを微笑ましく思い、そして……
「じゃあね、パウル君」
簡素な別れの挨拶を言って、シスカーは消えてしまった。
◇
そして、パウルを再処刑するために地獄から街へ通ってきたナージャに、所長からパウルの脱獄の真相を聞かされる。
『……これが、パウルが脱獄した本当の理由だ。もうこれ以上隠すものはない』
「…………」
何も言わない。
ナージャは街中を走りつつも口を全く動かさない。
それは、思慮しても放す内容が浮かばないのだと判断し、所長は続けて言う。
『黙るのも無理はない。奴が脱獄したのは、お前が憎んでいたものに抗った結果だ。そんなのを一体だれが無責任に責められるというんだ』
所長も役職者としての責務を全うする中、パウルの個人的な事情に考えないわけではない。
その上、自分の部下に対しても、
『この件はお前にとっていろいろとデリケートだ。だから俺は俺自身の判断で再処刑には必要のない情報を伏せていた』
「……そうですか」
話に集中する一方でナージャは天候の変異に気付いた。
塔から放たれる疑似日光が薄れ、代わりに激しい大雨が地面を打ち付けていく。
街の象徴が唐突に変異していく様子が、パウルの命を風前のともしびであることを示しているみたいだ。
「……それでも、パウルは地獄から抜けるべきではありません。許されないことは結局、許されないままでしかありません」
『ナージャ。お前は……』
「所長。私は少し誤解をしていたかもしれませんね」
『なに?』
ナージャにとって他人を助けることも、そのために命をかけることも理解に苦しむ行為だ。
しかし、それでも彼にひとつ共感できることはある。
「パウルは……あいつは責任の取り方を間違えた。いや、そもそも地獄にいる以上なにもしなくてもいいはずよ。それを…………」
理不尽に対する怒りだけは、ナージャにとって理解できる思考だった。
たとえそれが他人に向けられたものであろうと、不快に思えてしまうなら彼が動いてしまう気持ちは理解できてしまう。
だからこそ、知らなければそれで終わるはずだったのに、今このような状況になるまで彼を焚きつけた存在を彼女は許せるはずがない。
「……あんたという存在が、余計なことをしてくれたわね」
「んん?」
見えてきた。町一番の広場にある大きな花時計。
その中央近くに、奴は立っている。
ふざけた着こなしをした格好に、ショッキングピンクの髪を振りまき目隠しで顔半分を隠した姿。
忌々しい恰好と笑みを浮かべて、奴は振り向きざまに饒舌に喋る。
「……ヒハハ、やっぱり教科書を与えただけじゃダメなんだよね。ちゃんとした教員がいなければ十二分に意味をなさない。これが、ゆとった人間の影響なんだね」
「……何の話よ」
「ううん。適当に言っただけ」
シスカー=ベルベーニュはおどけたように立ち振る舞う。
相手が何のつもりなのか知らないが、余計なおしゃべりをしない以上、問答無用で武器を抜いていく。
「……オルトは? あのバカ犬はあんたが捕まえてたんじゃないの?」
「それはほら、あっち」
シスカーが指差す。
その先には眠らされたのか意識を落として地面に伏せているオルトとリュナの姿が見える。
目立つ外傷はないため無事ではあると思いたいが、シスカーが相手ではそれさえも保障できない。
「ついでに邪魔になりそうなのはぜんぶあそこに」
逆方向には月華街の騎士たちや陽光街の寵愛者や術者などが意識を失った様子で横たわっている。
十や二十を越えるこれだけの大人数を相手にするなど、やはり
さらに、先ほどパウルの携帯電話に通じていたスライド式の質素な黒い携帯電話を取り出すと……
「そんでもって邪魔者にはご退場願いまーす」
『え? おい、それは…………ど、う…………い…………』
「所長!」
ナージャの耳に付けていたイヤホンがノイズを上げる。
このタイミングで上司への連絡を切られたのは、シスカーの仕業でしかない。
(どうなっているのよ…………!)
二十年前の時点でも無茶苦茶であったが、これはさらに拍車をかけている。
死霊使いの仕業も考えられたが、さすがに今のは彼女でも不可能なことだ。
ならばこの二十年間、いったい目の前の脱獄者はどれだけ得体が知れなくなっているのか。
「それじゃあ私とあなたの二人きりという事で……」
相棒と上司が頼りにならないこの状況の中、ナージャは金棒を構えてシスカーと対面する。
対し、シスカーは意図の読めない笑みを浮かべ、
「じゃああなたに選択肢を投げるから答えてね!」
「そんなことに付き合う必要はない!」
意味不明に質問すると同時、ナージャが無視をするように突撃していった。




