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2-20 糾弾

 現世で命の終わりを迎え、煉獄では一切の考慮もなく己の運命が地獄行きであることが決定された瞬間、罪を犯した自分には当然のことなのだろうとパウル・ロキ・シェロスはこの時はそう思っていた。


 パウル・ロキ・シェロスの罪状とは、言葉の通り世界を敵に回してまで世界を破滅させるほどの怪物を抱えていた少女を救い出したことだ。

 行先は地獄監最下層。世界崩壊級の大罪を犯した罪深き咎人への烙印を押された。


 転生までの期間は20万8千年にも値し、それまでに数々の苦行を受けて罪を洗い流す必要がある。

 彼にとっては絶望的としか言いようがなかった。


 未だに記憶に残る数々の思い出。

 寵愛する者たちと過ごした夢のような日々。

 周りに敵しかいなかった時、唯一心の支えとなった愛しい少女。

 そして、その愛しい少女に自ら幕を引かせてくれたこと。

 その先にあるたった一つの希望を見届けられなかった歯がゆい気持ち。


 それら全てが苦行という痛みと苦しみで塗りつぶされ、なにもなに空の心にされて転生させられることを考えると、もう彼にとっては受け入れる事さえもできない。

 地獄を過ごすことは、免罪符のように掲げた愛や正義感を忘れて、ただ罪悪感を抱えていくだけなのかもしれないのだと、彼はそう憂いているばかりだった。


 せめて自分にできることは、現世を生きている人の幸せを祈ること。


 それは、パウルとかつてパウルが文字通り全てを敵に回してまで救った少女との忘れ形見。

 本名、ヴァレリア・リィ・シェロス。彼の残したたった一人の愛娘だ。

 まだ顔も知らない彼女の健常を祈り、パウルは地獄で苦行を受け続けていった。


 奴に出会うまでは……


「ヒュフフ、初めまして。新しい咎人だね。私はシスカー。君は?」

「っ! ……シスカー=ベルベーニュ……!」


 ある一日、その日の分の苦行を受け終えた後の牢獄で、パウルは奴と出会った。

 奴がパウルの前に現れ、自己紹介を始めた時は率直に驚いていた。

 と言うのも、自己紹介とは違う形でパウルはその名前を知っていたからだ、


「君のことはよく知ってますよ。と言うより嫌でも知られていると言う意味だけど」

「あら~、私ってば有名人? でも、サインは受け付けませんよ~!」

「…………」


 パウルはシスカーの事を知っている。正確にはシスカーの話を聞いたことがある。

 たとえ地獄の住人でさえも、シスカーの手に負えなさは咎人の間でも有名な話だ。

 具体的に言えば、どんな悪逆非道な心を持つ咎人でさえも最終的に泣き叫ぶ数々の苦行を、シスカーは全てを浴びせながらも他とは違う反応を見せているのだ。


 絶え間なく咎人同士が鉄棒や刀で寸断されては生き返る等活地獄を、全滅させる形でやり過ごし、

 熱鉄の縄で縛られたまま熱々に熱した斧や鋸で切り裂かれる黒縄地獄を、歌を歌ってやり過ごし、

 相対し崩壊する鉄山に身体を砕かれ刃の林に切り裂かれる衆合地獄を、踊りを踊ってやり過ごし、

 熱湯や猛火の中を焚かれは鉄の棒で打ち砕かれる叫喚地獄を、がまんを比べるごとくやり過ごし、

 聴けば泣き叫ぶほどの激しい呵責を聴く大叫喚地獄を、逆に獄卒の精神を打ち砕いてやり過ごし、

 常に極熱に焼かれて焦げる焦熱地獄を、串刺しから分解されてもなお笑顔を浮かべてやり過ごし、

 焦熱のさらに十倍の炎で焼かれる大焦熱地獄を、一人で体遊びなんかを延々と交えてやり過ごし

 これまでの地獄の数千倍の苦しみを与える阿鼻地獄を、今まで受けた地獄の自慢話でやり過ごした。


 八つの苦行と、それらに付随する十六ずつの小苦行を受けて、シスカーは苦痛の声一つも上げない。

 傷ついていることは確実なのに、まともな弱音一つも吐きはしない。

 そのくせして、一日の苦行を終えれば決まって……


「今日もご苦労さん」


 その言葉が何よりも獄卒たちを腹立たせた。

 さらに、先ほどの八つに加えてシスカーは八つの極寒地獄も一通り受けているが、結果は大して変わらない。

 たとえ生前の罪の内容とは関係なかろうが、ありとあらゆる地獄を通らされているのに、ことごとく奴は悲鳴の一つも上げないのだ。

 たかが人間。されど唯一地獄の手に負えない存在こそ、今目の前におるふざけた人間なのだ。


「ヒハハ、目立ちすぎるってのも考えものだよね~」


 しかし、そんな話はパウルにとっては信じられないの一点のみだ。

 パウルも数多くの苦行を受けたのだが、その苦しみは到底現世の苦痛を圧倒的に上回り、生前の行いを後悔させるには十分すぎるほどだ。


「ヒハ、さっきさあ、人食い獣の咎人が苦行中に獄卒を食っちゃったところを見たけど、あれはすごかったよ」


 一つでも十分なのに全ての地獄を受けて平気な人間などいない。

 こうして直に面すれば、確かに面妖な人間であることを感じれるが、平気で自分を韜晦とうかいするようなきな臭い感じしかしない。


「ところで、あなたってまだ若いよね。その若さで最下層行きとは何をしたの?」

「……君には関係ないよ」


 パウルこそ、自分がこんな所にまで堕ちていく理由を、納得がいかないままでも理解している。

 過程を間違えたかもしれないが、最終的な目的は変わらない。その目的を果たし、さらに大切な人のために命を落とすならば本望だ。

 だからこそ、こんなところに落ちてしまったことだけがただ一つの不満だ。


「ふーん、ああいいや。話したくないんなら話さなくてもいいし、せめて名前だけでも教えてくれない?」

「名前を……?」


 しかし、本当にこの咎人は奇妙な奴だと、パウルは呆れながら思った。

 自分以外の咎人に対して興味を抱き、なおかつ自己紹介や話をすることなど滅多にない。

 大抵の咎人は自身に受けた苦行と、生前の罪に対する後悔が相まって、すでに心を崩壊させているばかりなのだから。

 とはいっても、そう言うパウル自身はまだ地獄に落ちたばかりであることもそうだが、ただ一人の少女のために世界を敵に回すほどの胆力もあり、まだまだ精神は平常なままだ。

 そういった、まだある心の余裕にかこつけて自分の名をシスカーに明かした。


「パウル・ロキ・シェロスだ」

「ふむふむ、パウル君ね。よろしく!」


 まるで新しい友達との挨拶のように屈託なく笑うシスカーに、パウルは確信せざるを得なかった。

 目の前の咎人がどれほど異常であるのかを、

 そして、その出会いが後々にパウルの運命を大きく開けることになるとはこの時誰も想像してはいなかった。



          ◇



 太陽石が塔内の草原を照らし出す下で、一人の少女が陰鬱な空気を纏いながら足を進めていく。

 せっかく脱獄者に止めを刺すチャンスのはずが、想定外の邪魔者に憤りを覚えるが、相手が自分の知る限り一般人だったはずだと思っていたが……


「やめろ! ヴァレリィに手を出さないでくれ!」

「…………」


 遠くから聞こえるパウルの悲鳴が腑に落ちない。

 正直訳が分からないことばかりだが、確実にわかるのはかなり危険な状況だという事だ。

 自分に迫りうる少女は、確実に殺す気で来ているのだと……


「こんな時に……まだ体は治ってないのに…………!」


 腹部の風穴は塞がりかかっているが、まだ脊柱は治り切っておらず、まだ足が動かない。

 魂抑えの大筒は手元にあるものの、体の向きそのものはバレリアから外れており、地面に伏せた体勢のまま大筒を構え直すのは厳しい。

 十分に動きが取れないなか、近づいてくる少女は静かに口を開いた。


「……ナージャ、さ、ん」


 俯いているバレリアから小さく呟かれる。

 あの明るくて物腰の柔らかい声はなく、ただプログラムされた内容だけを実行するような無機質な言葉。

 しかし、理性など感じられないはずなのに、そこには何かしらの呪いのようなものが感じられる。

 まるで無機質に怨恨を生み出しているような機械のようだ。


「パウル様を、殺す……殺したくないから、殺す……誰が……誰が…………誰を…………」

「?」


 その途中でノイズが入るように、バレリアが肝心の内容を思い出せないように言葉に詰まらせ、足を止める。 

 少女の異変に気付いたパウルが、畳み掛けるようにバレリアの意識を取り戻しにかかる。


「ヴァレリィ! 目を覚ましてくれ! 僕の声を聴いてくれ!!」


 どれだけ叫び声を挙げようと、肝心の彼女には届かない。

 代わりに、耳に強く障りのある声が、少女の懐から発せられる。


『ヒハ、だから今目の前にいるお姉さんじゃない。ほら、君がナージャさんって慕ってた……』

「シスカー! これはいったいどういう事なんだ!! 街の皆を護るって……そのつもりじゃないのか!!」

『ん? そのつもりだよもちろん。だからこうしてこの娘を動かしているんでしょ?』

「ふざけるな! こんなの事にこの子を無理やり巻き込んで……!」


 怒りに満ちたパウルの怒号が響くも、やはり肝心の少女には届かない。

 そればかりか、シスカーの言葉のみ聴き取っては感知する。


「ナージャ、さん…………そうだ。ナージャ、さんを先に……先に……さきに……さき、に…………!」

「!」


 そして、バレリアは再びナージャの元へ、再び疑似的な殺意を纏って歩きだした。

 その様子を見てナージャは確信する。やはり、多少この子に意識はあれど、ほとんどの所操られているのと対して変わらない。

 つまり……


「シスカー、あんたどこで私を見ているのよ!」

『ヒハハ、ちょっと決めつけるんじゃねえよ! たとえ見なくてもオマエラの状況なんてわかるんですわ!』

「こっちの様子を知ってるのは否定しないのね…………!」


 とはいえ、近くに肝心の奴がいる気配がしない。この街にいることは間違いないと思いたいが、少なくとも今この状況でできることはない。

 無関係なはずの少女を無理やり動かすようなやり方に憤りを覚えるが、それに対して自分もまだ十分に行動を起こすことができない。


「あ……ぁ…………」

「……どうしようか」


 あと少し、ほんの少しの時間で傷は完全に治る。

 そうすれば脊柱は繋がり、両足を動かせばなんとかなるのだが……


「そう許してはくれないわね…………」


 バレリアの右の手の平をこちらに向ける。

 またなにかが来る。不可視でうまく認識できない何らかの攻撃だ。

 やむを得ず。ナージャは右手にある大筒を少女の方へ向けるように構えようとし、


「…………くっ!」


 ドッ! っと、またも見えない質量のあるなにかに衝突したかのように攻撃を仕掛けられた。

 それも右手にある大筒を弾くようにピンポイントに宙を舞ってかなり遠くの地面に情けなく落ちた。

 武器を持たない丸腰となったナージャを前に、躊躇なく耳障りな言葉が、バレリアの次の行動を促していく。


『フルボッコだド! 一思いにやるよりそっちの方が効・果・的! ヘィ!』


 それに従い、バレリアは横たわるナージャのそばに寄ると、ゆっくりと体を動かしてナージャの上に覆いかぶさっていく。 

 両の手を固く握りしめると、それをナージャの体へと振り降ろした。


「…………ッ!」


 一発……だけでは済まされない。

 二発、三発と次々に少女の拳が凶暴な音を立てて、ナージャの体を砕きにかかっている。

 それは生身の体から発せられる音じゃない。打ち付ける拳には何かしらの作為的な強化……いや、そもそも拳が体に触れる前から体が陥没している。なにか念動力のようなものだと思われる。二度も見えない力に弾かれたのも同じようなものだろう。

 強力な力を纏わせた拳に打ちつかれ血を吐きだしていく様子は、たとえ腹部の傷口を広げられることはないにしろ危険な状態であることに変わりはない。


「ヴァレリィ、止めるんだ……! 君が誰かを傷つけてはいけないんだ!」


 一心に目の前の敵を殴り続ける娘の光景にパウルは悲鳴を上げるが、逆に娘の様子がおかしいことに気がつく。


「……どうして……どうして…………!」

「…………?」


 一方的な暴力の中、バレリアは訳が分からないように戦慄していた。それは、どれだけ執拗に殴られようと、ナージャはたったの一度もバレリアに反撃をしないのだ。

 痛みは感じるし苦痛は味わっているのに、死ぬどころか意識を失う事もなく、逆に少しも抵抗を示さない。


「……はぁ……はぁ……はぁ……うっ…………」


 まるで人形を殴り続けるような時間が過ぎ、気が済むまで殴りつけて静止した少女に、今度はナージャの


「…………気は済んだ?」

「!」


 痛みに怯まず逆に凄むような目をして睨み付けると、バレリアはやや怯えたように顔を引かせた。

 先ほどからただなすがままに殴られ続けたわけじゃなく、ナージャはひたすらこちらに敵意を向ける少女を感じ取った。

 それは純粋な殺意とは程遠く、躊躇や葛藤、そして横入りに余計な思念が絡み合う濁りに濁った殺意であり、目的そのものに間違いがなかろうと、その手段のために今こうしていることになにかしらの迷いが少しだけ見えたのだ。


「気は済んだなら……いいかげんに…………」


 そこに何か付け入る隙があるのかと察し、ナージャは一つ賭けに出た。

 現世の住人であり、それ以上の理由で過剰に傷つけたくない少女のために……


「目を覚ましなさい!」


 すると、ナージャは握り拳を作ると、それをバレリアの腹部に向けて横から打ちつけるように殴りつけた。

 仰向けで十分に腕は引けず、大して威力はないものの、苦痛を与えるという意味では充分な効果を出した。


「がっ…………!?」


 バレリアの口から息が漏れ、苦痛に顔を歪ませる。

 その時、絞殺されようと首にかかっていた手がほどかれる。

 これだけでナージャはまだ止まらない。


「それと……あんたもよ……!」

『え?』


 そして、バレリアの衣服の隙間に手を入れると、指先に感じた硬い金属の感触が、


『あ、まって!』


 バレリアの懐から引きずり出されたのは、桃色の無機質な色と無駄にキラキラとデコレーションされた携帯電話。

 先ほどから聴こえたシスカーの声はこの機械から発せられており、見つけた以上やることは一つ。

 ナージャは携帯電話を力いっぱい握りしめると、バキバキと音を立てて金属片をまき散らしながら砕けていった。

 原型はかろうじてとどめてはいるものの、ひどく歪んでしまったそれはただの金属板以下だろう。

 それをどこかへと放り投げると、腹部の痛みに呻いていたバレリアにナージャは力で除けようとはせず、真剣に向き合う。


「ねえ、あんたってパウルが過去にいったい何をしたのか、もしかして知ってるの?」

「……………………」


 ナージャの問いかけに、少女は止まった。


「ヴァレリィ! 頼む、正気に戻ってくれ!」


 パウルからの叫びも、少女の心に届く。

 痛みと迷いと、そして大切な人の言葉が、彼女の理性を取り戻していく。


「あんたがパウルの娘だって言うなら、パウルがどんな理由でこの街にいるのかも知っているの?」


 あの時、月華街でパウルと戦う理由を話した時、バレリアは信じられないように目を見開いて驚いていた。

 あれはパウルの過去にあった事実を知って驚いたわけじゃなく、

 ナージャがその事実を知っていることに驚いていたからではないのか。

 仮にそうだとしても、彼女がいったいなぜそうまでしてパウルを護り続ける必要があるのだ。


「答えなさい。あんたの声を聴かない限り、私は殺されることを許しはしないわ」

「…………」

「もっとも、易々と死ぬつもりはないけど」


 それでもあっさりと情け無用なことを言うが、それでもナージャは相手の返事を待った。

 沈黙は長くは続かず、恐る恐る少女の口から紡がれる。


「……パウル、様は…………」


 動揺を抑えて必死に言葉を紡いでいく彼女はとても弱々しく、到底先ほどまで操られては殺気を漲らせていたとは思えない。

 やはり、心のどこかでナージャを殺そうとしたことをためらったのだ。それがナージャだからなのか、それともただ人を傷つけたくないからなのか。


「パウル様は……二度も母様の命を救ってくれました。一度目は母様以外の全部を敵に回しても、二度目は自分の命を捧げてまで母様を助けてくれました」

「え?」


 少女の話す内容はどこかで聞いたことのある内容だった。

 と言うより、バレリアからその言葉が出るのは意外としか言いようがない。


「母様だけでなく、私の命も救ってくれました。そのせいでパウル様が罪を犯したことを、あの人から聞いたのです」

「…………」


 あの人と聞いて、今さら改めて訊くまでもない人物が浮かび上がり、忌々しく小さな舌打ちをする。

 だが、やはりこの少女は知っていたのだ。パウルの過去……犯した罪を……


「ナージャさん。前に言いましたよね。この火傷の跡は所詮火傷の跡に過ぎないから、誰がどう思っても構わないって……」


 確かにナージャはバレリアの質問に対してそう答えた。街の住人は見慣れたものなのかあまり気にしてはいないようだったが、質問する彼女自身気にしていた様だ。

 震える指先で火傷の跡をなぞる彼女は、恐ろしく怯えたような声で語る。


「ですが……この火傷はそんな単純なものではありません。だってこれは……私がこの世に生まれてはいけなかった証でもあったからです」

「…………!」


 あまりにも大げさで、バカげたような台詞。

 しかし、彼女自身の青ざめた表情と、息を詰まらせてもなお必死に喋るような言葉は、それが現実感のあることを裏付けている。

 それは、ナージャにとってもある意味衝撃的に聞こえたからだ。


「私にとってこの傷は、私が醜いことの証でしかありません。その傷ごと私を愛してくれたのはパウル様だけ。パウル様が犯した罪も……私の存在があったから…………」

「ヴァレリィ……それは違う!」


 自分自身を呵責する娘の姿に、パウルは全力で否定にかかってきた。


「ヴァレリィは何も悪くない! 君が生きていることの何が悪いんだ! 君は何も悪くない! 脱獄をしたのは僕の意思なんだ! だから…………!」

「ですが、パウル様を失ってほしくありません!!」

「ヴァレリィ!」


 どちらも大切な人であるために、どちらも譲ることはできない。

 大切な思いを抱えて、少女は覚悟を決める。


「ですからナージャ、さん……お願い…………私からパウル様を奪わないで…………!」


 そのために命を捧げようと構わないなど、たかが十代の子どもが言っていいことじゃない。

 しかし、すがるような彼女の瞳に余裕はない。ただそうするしかないようにも見える。


「奪うなら私も奪ってください! 私も同罪です……!」

「やめるんだ! ヴァレリィ!!」

「…………」


 今の言葉から推測して、彼女はパウルの脱獄に大きくかかわっているという事なのか? いや、そもそも彼女の母親とは、まさかとは思うが……

 だとしても、つじつまが合わないことがある上に、そんなこと上司である所長から何一つ聞かされていない。

 仮にパウルの脱獄の原因がこの娘であるとしても、それだけで済むほど簡単じゃない。

 地獄に戻ろうとはせず、地獄の技術を所持した上、こうして地獄へ戻ることに抗おうとしている以上、どこにも同情の余地はないのだ。

 そのはずだ。そのはずだったのだ。しかし……


 ナージャは、動かなかった。


 情にほだされた訳じゃない。今さらそんなつもりなどさらさらない。

 それなのになぜ彼女は今すぐ目の前の少女を突き飛ばし、もうすでに動くようになった足を動かしてパウルに止めを刺さないのだろうか。


 それは……ただ、脳裏に同じ光景がよみがえったからだ。


『ヒハハハハ、ねえ再処刑人さん。この光景、あなたにとって見覚えのある光景じゃない』

「!?」


 その時、ナージャが壊したはずの携帯電話の残骸から再び耳に付く声が聞こえてきた。

 先ほどからの陰鬱な空間に遠慮なく踏み込んでくる形で、シスカーが喋りだしてきたのだ。

 そのことにナージャはもちろん、パウルも動揺せざるを得ない。


「シスカー。これはいったいどういう事だ……」

『ヒハハハ、別にコイツは機械としてと言うより媒体のようなものなんだからね』


 どうやら携帯電話は従来の機能とは別で言葉を伝えていたにすぎず、少しだけ破壊しようと簡単にその機能はなくならないという事だ。

 それよりも先ほどシスカーに言われた一言が妙に気にかかる。


「私にとって見覚えのある光景って、どういう事よ」

『あらあらん? だ、か、ら……そうやって大事な人間を失う事に納得がいかず、理不尽に責められる光景を、あなたは覚えがあるんじゃないの?』

「何を言って…………」


 まただ。また同じような既視感がふと一瞬だけ映像のように浮かび上がってくる。

 そうだ。こんな悲劇を確かに何度も見た。嫌と言うほど、自分は悪くないのに、理不尽としか言いようがないくらい、不可解な現実ばかりが自分を苛んだことを。

 いや、そんなことはもうどうでもいいと目を強く閉じて振り払う。


「……なんであんたがそれを知ってるのよ……!」

『ええ? 別に適当にそれっぽいことを言っただけだよ。血も涙もないあなたならよくあることかなーって。あ、もしかして当たり? 当たっちゃったの!』


 だが、シスカーからの答えは、はぐらかすようなふざけた答えだ。 

 食えないような言葉にパウルからも追及が来る。


「シスカー! これ以上なにを企んでいるんだ!! よりにもよってヴァレリィにこんなことをして、いったい何をするつもりだ!」

『ひっどお~い! 今からパウル君にとっておきのサービスをしてやるんだから感謝感激しろっつうんだ』

「サービス……?」


 ここに来てもまだ訳の分からない主張にいい加減何を企んでるのかわからず、妙な不安ばかりがざわめいていく。

 これ以上奴はいったい何をするつもりなのか、シスカーは無駄に堂々と申し出る。


『ねえ、再処刑人さん』

「……なによ」

『私の所まで来て。パウル君のことなんか放って置いて今すぐにだよ』

「! やはり近くにいるのね……!」

『場所は陽光街の……なんか花時計が目立つ広場。もっとも花なんてみんな毟られちゃってるけど』

「ふざけないで。せっかく瀕死の脱獄者を置いてあんたの所へ行くなんてバカなことはしないわ」


 バレリアを前にしても容赦のない声に、彼女は身をすくめている。


 いくら切実に願おうが目的は変わらない。

 それも織り込み済みでシスカーはさらに追い打ちをかける。


『でしょうねえ。こんなパウル君にお別れの言葉一つも言わせてもらえない鬼畜さに、私ったら戦慄しちゃう! だが、お前は私の行動に従わざるを得ないんだ。でしょ? 飼い犬君』

『ナージャ! 来るんじゃねえ! これはシスカーの罠だ!』

『ナージャさん。ごめん……!』

「オルト……!? それにあんたも……!」


 携帯電話の残骸から聞こえてきたのは、覚えのある相棒や犬獣人の声だ。

 なぜここであの犬と少女の声が聞こえなければならないのか


「なんであんたがそこにいるのよ……」

『いや、その……パウルの女と戦ってはいたんだけど、シスカーの隣にいた女になんかされて……』

『オルトさんが急に倒れて、大人しくしないとオルトさんが大変なことになるからその……』

「……シスカー。あんた、何をするつもりなの」


 ここにきて人質などという手を使われて怒りを感じずにはいられない。

 こんな状況を作ってしまったこと、作られてしまったこと、そのどちらの意味にしても腹立たしいとしか言いようがない。


『ヒハ。べっつにー、パウル君を諦めろって訳じゃなくてー私を優先しなさいってー言ってるんだよー。それとも、いま私の手元にいる君の相棒がどうなっても、構わないのかい?』

「……あの子や、役立たずどころか足を引っ張るような犬のために、みすみすパウルを置いて行かないわ」

『ええぇ!? ってな子と言っちゃって、せっかく君が重宝するこの犬の嗅覚がなくなっても同じことが言えるの? ええ、脱獄者を探したりとかさあ』

「……こいつ…………!」


 腹立たしいがたしかにその通りだ。ここでオルトが今後いないままになれば、残りの脱獄者を探すこと自体難しいことだ。

 残念ながら向こうの要求に従わざるを得ない。

 そして意義など挟むつもりなど、毛頭ない。


『じゃあ制限時間はお空が晴れるまで、よろしくね。じゃ!』

「晴れって……シスカー、それはいったいどういう…………」


 パウルの返事を待たず、携帯電話の残骸は確実に使命を終えた。

 後には沈黙ばかりが漂う中、ナージャは急速に思考する。


 先ほどのシスカーからの要求。

 不本意ながら従わざるを得ない。シスカーとオルトやリュナ、両方の意味で腹立たしくも人質などという言葉に動かされる。

 自身の行動の無意味、割に合わない選択。秤にかけるまでもないものなのに、かけざるを得ないことにもどかしく思われる。

 とはいえ、その答えはもうすでに決まっているようなものだった。


「……どきなさい。あいつの元へ行くわ」

「え…………?」


 ナージャは自分に覆いかぶさるバレリアに対し、最早さっきもなく淡々と静かに告げる。

 しかし、いきなりなにを言われたのかわからない様子のバレリアにナージャはつい、


「早くしなさい。じゃないと無理矢理どかすわよ」

「は、はい……!」


 思わず怒気を籠めてしまった。命を捧げる覚悟をしているくせにまだ恐怖はあるのだ。そのことが余計腹立たしく思えてしまう。

 そんなことのために自殺するようなことを言う彼女を、とても不愉快な存在と思えたからだ。

 同時にそれは自分にとって無理解の範疇であり、どう考えても非合理な話だと思える。


 水の槍で体を貫通されてからようやく立ち上がった彼女は、少しだけ体の調子を確かめるように伸びをした後、静かにパウルの方へと視線を向けた。

 さっきまでのように真っ先に止めを刺そうとするつもりじゃない。それ以上に面倒な優先項目が出来上がったからだ。

 それでもあえて警告を兼ねてナージャは言う。


「パウル。あんたが地獄へ落ちるのは変えられないわ。だからせいぜい残りの時間をその娘に費やしなさい」


 そう言ってナージャは後ろにある金棒を回収し、腹部の傷を確認すると走り出していった。

 途中、地面に落ちていたパウルの左腕から『魂移たまうつしの指輪』を回収してもう魂を映せないようにすると、扉を開けて階段を降りていった。


「…………」

「…………」


 後には父親パウルバレリアの二人だけがこの空間に残された。

 残りわずかな時間を、刻一刻と消費しつつ……



          ◇



 巨塔から長い階段を豪快に跳ぶように降りていく。

 シスカーの命令に従わざるを得ないいこの状況に、一刻も早く目的地へと到達しなければならないと、若干の焦りとそれ以上の大きな憤りが、乱暴な足音となって塔内に響いていく。

 その降りる途中、ナージャはポケットからイヤホンを取出すと、すぐ耳に着けた。

 パウルとの戦いの途中から外したが、まだ通話機能は切れていないことを確認すると、開口一番に怒鳴り込んだ。


「所長! これはいったいどういう事ですか!」

『…………』


 沈黙を貫き、知らないふりをしようが意味はない。まだ起動したままの感覚共有機能から、ナージャを通して先ほどの光景が所長に通じられたはずだ。

 当然、言及するのはバレリアの事だ。

 脱獄者の生前に詳しい所長が知らないはずがない。


『……すまん。奴を追いかけるお前にとっては必要ない情報だと判断し、あえて伏せていた。余計なことを知ればそれだけ失敗になりかねないと…………』

「その余計なことがわからないせいでこんな事になれば意味はありません! 私に対する余計な配慮はいらないし、生易しいだけのくだらない情なんて必要ありません!」


 苛立ちから若干口調が荒れた様子で所長を責めている。

 そばにいれば確実に殴っていたかもしれない。それほど彼女は荒れた様子である事をほんの少しの間だけ自覚する。


(……そうだ。シスカーの前ではとにかく落ち着かないと)


 自分自身の状態に気付いたナージャは一旦深呼吸をして気を落ち着かせると、今度は冷静な声で説明を求めた。


「……全部話してください。パウルの“娘”も、脱獄の理由も、シスカーの関連も、全部です」

『…………わかった』


 どうせ今頃知ろうがなんだろうが意味なんてものはない。

 しかし、上司がわざわざ自分に情報を隠していたことが気に入らず、その理由を知らなければ納得できない。

 そういった怒りを自覚し、抑えようとするまま、ナージャは上司の話を聞いていった。

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