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2-19 慟哭と憤慨

 陽光街、第三太陽館でも戦いは激しく繰り広げられていった。

 館の主を護る寵愛者の少女二人と、人外を通り越して世界から外れた地獄犬が、それぞれ激しい動きを繰り広げつつ攻防を繰り返していった。

 片手ずつ両手に投擲用のナイフを構えるダリア。

 両手で大剣を握り、乱暴に振り回すユリ。

 対照的な二人の連携の取れた攻撃に、オルトは舌打ちをしかねないほど顔を顰める。


「……くそっ、厄介な小娘たちだ…………!」


 先ほどから彼女たちの攻撃はいたってシンプルだ。

 ダリアのナイフが閃光を放ち目を眩ませる。

 ユリの大剣が熱を帯びて赤みがかった白色に照らす。

 右に、左に、あらゆる方向から攻め立てる白刃を全て、オルトはかろうじて紙一重で回避する。


「貴様、逃げてばかりで何を手を抜いている!」

「ちょっとぉ! 本気で戦うなら反撃しなさいよぉ!」

「くそ……!」


 この二人の戦い方はなかなかやっかいなコンビネーションを取る。


 ダリアの投擲したナイフが、目に突き刺さるほどの激しい光を放ってオルトに飛来する。

 正確にはオルトだけじゃなく、牽制するようにオルトの脇を通りかかる。

 オルトの動きを狭める他、ナイフから放つ光によって視界も狭めていく。

 そうして相手が怯んだ隙をサングラスを着けたユリが突いていく。


 先ほどからオルトはかろうじて接近する敵の場所を嗅覚で感じ取り、視界を覆う光に怯まずユリの大剣を躱し続けている。

 光と熱で切れ味を増したユリの大剣は床も壁も容赦なく刻んでいく。


「逃げないでよ! 私は犬派なんだからさぁ!」

「意味わかんねえことを言うな!!」


 閃光ナイフが飛び交う廊下の中、オルトは互いに一進一退を繰り返して、ユリとダリアの猛攻を躱していくなか、かすかな必勝法を見出していく。


(大体こいつらの手は見えた。そろそろ反撃に移るぞ……!)


 しかし、変化が見られたのはオルトだけではない。

 ダリアとユリも、いい加減にはやく止めを刺す為、一気に畳み掛ける。


「ユリ、本気を出す! 伏せろ!!」

「うん!」


 向こうでダリアがそう叫ぶと、ユリは大剣を床に置いて地面に平行に伏せた。

 その様子を確認したダリアは改めてナイフを構え直すと、ダリアの手から離れたナイフが、まるで空間から消失したかのように突然消えた。

 いや違う。先ほどよりもさらに早く、光ほどの速さでオルトに向かう。

 そう理解した瞬間からオルトの体は近くの壁に向けて跳躍して行く。


「うおおっ!?」


 ほぼ直感で壁から天井へと跳んだオルトの体を、ぎりぎりでナイフが豪快に掠めていく。

 どれも致命傷には程遠い傷だが、内心動揺が広がっていく。


「あぶねえなぁ……!!」


 かつて似たような経験を月華街で経験したことから、何とか回避できたに過ぎない。

 ゆえにオルトは天井を蹴り、真っ先にダリアの方へと跳躍する。


「ふん。こっちの方が速い!」


 自分の方へ跳びかかるオルトに向けて、ダリアはもう一度数本のナイフを投擲した。

 今、空中にいるオルトは投擲されたナイフを回避しようがない。


「ワンちゃん、これで終わりだよぉ!」

「いいや、終わりじゃねえ!」


 だからことオルトは回避とは別の方法でダリアのナイフを防いだ。


「噛んで受け止めた……!」


 オルトの体中にナイフが掠るが、眉間を狙ったナイフだけはオルトが歯で受け止めた。

 そして、ナイフを加えたままオルトはダリアへと飛び……


「待って! ちょっとなんで君がここにいるのよぉ!?」

「ん?」

「え?」


 その時、オルトとダリアは突然ユリが叫んだことに気を取られてしまう。

 かと思うとダリアの姿が消えたことに、オルトは気がついた。


「!」


 ほんの一瞬、気を取られてしまったことを迂闊に思い、ダリアのいない地面へと着地した。

 そして、すぐにダリアが近くにいないか、オルトがあたりを見回す。

 するとダリアは先ほどいた場から大きく動き、次に姿が見えたのは目的地の扉とは反対方向だった。


「なんだ……?」


 妙なことが起きてしまい、戦うどころじゃないオルトは、目的地の前にしても振り向かずにはいられない。

 オルトは、ダリアとユリの二人がなにか言い合っている先に、女の人の姿が見えた。


「あの女は……」


 見覚えのある顔が見える。

 直接面識はないが、確かあの女は……


「おい、何をしている! ここは一般人には立ち入り禁止だぞ!」

「ちょっとぉ! いくら君でもさすがに危ないよぉ! と言うか話を聞いてる?」

「…………」


 ……おかしい。なにか様子が変だ。

 ダリアとユリを前にしても、“彼女”は何も言葉を返さない。ややうつむきがちで聞こえない程度に口を動かしている。

 意思が疎通していない。言葉が伝わってこない。まるで一人だけの場所に閉じこもっているように、外から何も通してこないようだ。

 と言うか、そもそもなぜ“彼女”がここに来ているのか……


「え……?」

「うわっ……!」

「ぎゃぁ!!」


 何が起きたのかさっぱりわからない。

 それなのに急に、ダリアとユリの双方の体が宙に吹き飛ばされたことが見えると今度は少女の顔が間近に映り…………


「!?」


 次の瞬間、オルトの視界は音もなくブラックアウトした。



          2



「想像以上に……無理をしたわ…………」


 腹部から大量の血を流し地面に伏せているナージャは、パウルが動かなくなったことを確認すると、改めて自分の体を確認した。

 まだ下半身は動かない。パウルに撃ち抜かれた背骨はまだ回復に時間がかかる。

 しかしそれ以上にパウルはよりひどく負傷している。左腕と胴体から先を切り離され、『魂移しの指輪』まで切り離された以上、もうなす術はないはずだ。

 とはいえやはりこちら側も満身創痍だ。これでパウルが手負いでなければ確実に危ないところだった。


 早くパウルに止めを刺さなければならないと、ナージャはポケットの中にあるケースを取り出す。

 そして、その中から取り出すのは不思議な緑色を放つ歪な短剣。

 不老不死の肉体を持つ脱獄者の魂を刀身に封じ込める『魂封じの剣・二式』だ。

 ナージャはそれを手にパウルへ、両腕を動かしてほふくのまま寄っていく。


 と、ここでパウルが地面に横たわったまま口を動かす。


「……先ほどの行為、いくら僕を倒すためとはいえやっていることが正気じゃない」


 体の断面から血を流し、息も絶え絶えとなったパウルの声が聞こえてくる。

 この状態でもまだ喋れる気力に呆れつつ、ナージャは這っていく腕を止めない。


「……君はいったい何のために戦っている」

「……は?」

「僕はただ、護りたいものがあるから、失いたいものがあるから、だから君と戦っている。だけど、君はなぜ僕と戦っているんだ!」


 ここにきてまだ同じことを訊いている。

 オルトに、タンピーアに、そしてこいつに……

 なぜいちいち戦う人間は敵に戦う理由を訊いてくるのか。


 そんなことただ煩わしいとしか言いようがないのに。


「何度も同じことを言わせないで。あんたが脱獄者で、罪を犯しているからよ」

「そんな理由は納得できない!」

「なぜ?」

「君からは意志が感じられないからだ!」


 先ほどからナージャの戦い方、表情、そしてそれ以外からパウルが感じ取ったこと、

 そこから導き出される結論から、パウルは彼女に納得しきれないのだ。


「君の行動、君の主義、君の目的! どれを選んでも君の意志が見えない! 君が述べているのはただの事実に過ぎない!!」


 パウルが叫びだすと同時に、彼の背中から大きな花が突き破るように咲いていく。

 ほんのりと紫がかった赤色の花弁が多数重なり、天井の太陽石に向けられんばかりに大きく開いていった。


「……そんなことのために死ぬわけにはいかない」

「!」


 すると、背中から大きな花を咲かせたパウルの体が、全体に光を帯び始めた。

 太陽石の光を無理矢理奪い取るように、花から貪欲に光を取り込んでいく。

 まだパウルは戦いを諦めてはいない。未だに屈しない意志の強さが表れる。


「事実だけのために、僕は死ぬわけにはいかない!」


 パウルの口元に光が集まる。先ほどの水の槍のように、吸収した光を一斉に放射するつもりだ。

 いや、鋼鉄さえ斬り裂いた光の鞭のことがある。その威力は先ほどとは比べ物にならないかもしれない。

 だからこそ、ナージャの行動は早かった。両腕を立てて一気に歩行する様にパウルに近づくと、


「がっ!?」


 そのパウルの口の中に躊躇なく左手を突っ込んだ。

 さらにパウル体の向きを、射線上に入らないように捻っていく。

 そして、


「が……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああッ!!


 パウルの口元にあった光の集合体は暴発した。

 寸前に腕を黒化したため、手元が若干焦げ付いた程度であり、

 パウルの方は口元が爆発したため、むごたらしく顔面が崩壊しかかっていった。


 最後の切り札らしきものも暴発で終えてしまい、手を尽くした彼に非情な言葉がかけられる。


「…………!?」

「バカね。理由とか、意志とか、そんなもの知っても意味なんてない。あんたを殺すという目的があるだけよ」


 非情な言葉を掛けられたと同時に、脱獄者の特性である再生能力が、先ほどの暴発で傷つけられたパウルの顔を治しにかかる。

 さすがに、ナージャの命道術で傷つけたわけじゃないため、顔面の治りは早い。

 喉元が修復し終えると、震えるような声でパウルは言う。


「…………なぜだ。なぜ君からは……なにも感じられない」


 言葉が震えていく。肯定からも否定からも、彼女の“人間”さが全く見られない。

 自分の中に当てはまらない彼女の存在は、ただただ得体の知れない怪物のように見えてしまう。


「正義感とか、自尊心が感じられない。かといって憎しみや恨みではなおさら違う……どうしてそこまでして……いったいなんで僕らと戦っているんだ……」

「あんたには知ったことじゃないし、知ったところであんたがそれを…………」


 と、ここでナージャの言葉が不意に止まる。


『お前は、あたしたちからパウルを奪う。あたしを除いた寵愛者を、皆を、家族を、パウルのつながり全てを無視してまであいつの命を奪うなら、君はほんとうに底なしの……』


 突然記憶の中から蘇った光景。

 さっきから苛立ちが収まらないのはあの言葉を聞いた時からだ。


『人でなしだ』


 パウルの罪に影響された現世の住人。

 決して殺してはいけなかった存在。たとえ敵に回ろうが、脱獄者から護らなくてはいけなかった。

 それなのに脱獄者を護るために命を落としたことに、彼女は苛立っていたからだ。

 だからこそ……ナージャは少しだけ無駄口を叩くことにした。


「……私はたとえ脱獄のことを抜きにしても、あんた達の存在そのものを許しはしないわ」

「え?」


 この時、初めて彼女の中の感情を、パウルは初めて垣間見た瞬間だった。

 それがよりにもよってこの時でしかなかったことが悔やまれるほどに


「けど、そんなことは私の個人的な事情でしかない。だってあんたが何者だろうとなんだろうと……」


 魂を封じる短剣を構える。

 その動きは罪人に罰を下すがごとく、一切の慈悲も感じられない。


「罪を犯していることに違いはない。だからこそよ」

「…………」


 その言葉に含まれる意味は何なのだろうか。

 彼女は脱獄者の一人がパウルであることを見ていない。

 パウルも脱獄者の一人であるというようにしか見ていないんだ。

 その意味を、その背景にある彼女の中を、パウルは感じ取った。

 何もかも遅かったこの時に、だ。


「はは……そういうことなん……だね…………」

「なにがおかしいの?」

「いいや。こんなにも辛いことを抱えているなんて……どうして気づくのが遅すぎた…………」


 パウルはナージャの事を知らない。

 地獄唯一の人間としかしらない。彼女の抱える事情も感情も、なにもわかりはしない。

 だからここから先の事はパウルの推測でしかなく、しかし必ず当たる確信はあった。


「君は……君の望んだものを自ら捨てた脱獄者ぼくたちが、絶対に許されないんだ……」


 目の前に迫る再処刑人の中に渦巻いているもの。

 それは、妬みにも似た希望のようなものだと、パウルは解釈した。


「…………」


 不条理に地獄を生きた彼女にとってどれだけ願い、手を伸ばそうとしても手に入らない存在を、罪の重さに関係なく咎人はそれらの可能性を持っていたのだ。

 それを脱獄という形であっさりと切り捨ててしまった脱獄者じぶんたちの存在が彼女にとって許しがたい存在となっている。


 だが、それ以上に彼女を突き動かしているのは、彼女自身から湧き上がる望みでしかない。


「君は、生きたいんだ……たとえ僕らを踏み台にしても、整理のつかない葛藤があろうとしても、どれだけ非難を浴びようと君がっ!?」


 しかし、最後まで言い切る前に、ナージャの体がパウルの上へと覆いかぶさる。

 短剣を片手に無言で睨み付ける彼女の双眸。

 そこには否定したい本心を映しており、パウルの言っていたことが本当であることの裏付けとなった。


「……だからこそ僕は望みを持つ君に、敗れたんだ…………」

「…………」


 そこからナージャはなにも言い返さず、代わりにパンツのポケットに手を入れると、中にあるものをパウルに見せるように取り出した。

 地獄の技術でも携帯電話でもない。取り出したのは、一塊の黒ずんだ物質だ。

 当然それがなんなのかパウルにはわからない。


「? それは……なんだい…………」


 物質の正体がわからないパウルに、躊躇いもなく彼女は答える。


「あんたを守ろうとした女の灰」

「!?」


 その言葉だけでパウル緒顔は青ざめた。

 どんな行為よりも衝撃が強く、知るには重い事実。

 その内容を言葉として聞いた時よりも、現実に直面していくこの瞬間に息をのむ。


「まさか……タンピーアの…………!」


 なぜ敵であるはずの彼女が、愛する者の遺灰を持っているのか。

 たとえタンピーア自身が脱獄者でないにしろ、こんなことをする義理も意味もないはずだ。


「罪を犯したクズを、私は許せないわ」


 彼女がパウルを守るタンピーアに対し、何の感情も抱いてなければ灰を残すことも、それ以前に遺体を燃やすこともしない。


「人を傷つけるのも、人を陥れるのも、悪意全てを許さない」


 だが、あの時タンピーアがナージャの前に現れた時、ナージャは何を思ったのだろうか。

 それは情がわいたわけでも、憐みをかけたわけでもない。


「罪を犯しているくせに、切り離せないものを作ったあんたの罪は重いわ」

「……それが、一番言いたいことなんだね」


 それは、パウルの罪に影響して命を落とした人間に対する、せめて物の手向けのようなものだ。

 つまりナージャはこう言いたいのだ。


「あんたのせいであんたの愛する人は死んだのよ」


 決してタンピーア自身が悪いわけじゃない。

 こんなことをせざるを得ない状況を作ったことも、パウルの罪のひとつだからだ。

 その証として灰を残したのだ。


「だからあんたが抱えたまま地獄に落ちなさい」


 ナージャの手の平から灰が零れ落ちてパウルの体にかかると、ナージャが魂を封じる短剣を掲げる。

 不老不死の命を唯一奪う刃を目の当たりにしたパウルに、もはや呟く言葉の一つもない。

 なにも気に掛ける必要もなく、その短剣を振り下ろそうとして……


「…………?」


 ふと、パウルの表情に妙な変化が現れた。

 なぜか彼がこちらを見ていない。かといって目を背けているのとは違う。

 口は開き、目はさらに見開いた状態で、顔を横にしてある一点を見つめている。

 パウルの視線を追ってみると、その先にはいつの間にかこの場所に足を踏み入れた何者かの姿が見えた。


「……こんな時に誰よ」


 今さら寵愛者の誰かが邪魔に入ろうと、パウルの再処刑は免れないと、ナージャは闖入者の方へ目を向けた。

 しかし、その目に映ったのは予想していたのとは全く違う姿だ。


「え…………?」


 緩やかで長い茶髪とやや乱れた白い頭巾。

 しかし、質素な恰好に反して顔の一部分にある大きな火傷やけどの跡が目につく。

 この特徴的な姿の少女をナージャは知っている。

 パウルの罪に影響された者の一人。


「…………」

「あんたは……」

「!?」


 バレリアだった。

 ナージャが陽光街で最初にあった少女であり、火傷の跡が強く目に引いたあの心優しい少女だ。

 そんな彼女が、なぜこの場所にいるのか疑問が隠せないが、とにかく場違いであることに違いはない。

 あとはすぐ下にいる脱獄者に止めを刺せば十分の話だが、いろいろと不都合なことが多い。

 念のため、彼女は冷え切った言葉で少女に退去するよう勧告する。


「なぜここにいるの。私の忠告、覚えているのなら早く去った方が……」

「…………ない」

「え…………?」


 次の瞬間、ナージャの反応速度を超えた何かが襲い掛かってきた。


「がぁっ!?」


 ……ナージャの右半身が強い衝撃を浴びて吹き飛んだ。

 約五秒ほど、空中へ打ち出されてから全身を地面に強打するまでかかった。


「…………な、にが……起きたと言うの…………!」


 即座に辺りを見回す。少し離れた所に横たわったパウル。いつの間にかそのそばにバレリアが立っている。

 必然的にパウルから距離を離された彼女だが、そこに怒りは生じなかった。

 あるのは、その相手に対する……疑惑だった。


「……させない。殺させない……」


 彼女の声から生来の起伏さが感じられない。

 まるであらかじめ録音された台詞を繰り返して再生するように、呪いの言葉としてぶつぶつと呟いていく。


「いくらナージャさんでも……どんな理由があっても……許さない許さない許さない許さない許さない…………!」


 それがいったい何なのか、ナージャが今一つ判別しかねた。


 目は虚ろで歯はガチガチと噛み合わず、両腕をだらりと下げて顔を下に、幽鬼のごとくおぼつかない足取りで動いていく。

 一歩ずつ踏みしめるたびに、己を支配する感情の正体を確認し続け、少女は歩き続けていく。


「パウル様を傷つけたこと許さない……絶対に殺させはしない…………!」


 理由は単純に、愛する者が傷つくことを許さないだけだ。

 それしか見えないことに異常性しか感じられない。


「……随分と、頭が故障してきたところね…………!」


 少女の言葉に乗せられた感情。

 それは、決意の下に発せられたわけではない。

 理性をはるかに上回る暗い情動が、彼女自身を操っていく。


「嘘だ……そんなの嘘だ…………」


 その光景を見たパウルから出てきた言葉は、これ以上ない絶望の言葉だった。

 自分の傷にいくら耐えようと、愛する者を傷つけられた痛みに耐えきれはしない。

 体は違えど、その傷は心の内を侵食していくように、徐々にパウルから冷静さを崩れさせていく。

 そうして理性が抑え切れずに叫び声をあげることに、大した時間は掛けなかった。


「シスカァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

「! あいつが……」


 これまでにない、パウルの心の奥底から引きずり出したかのような叫び。

 それは憤怒であり、糾弾であり、慟哭であり、表現されない感情の坩堝がこの場に響き渡っていった。

 ただ町の住民の様子がおかしいことに対する反応ではない。過剰すぎる叫びの理由にパウルは続けて言う。


「僕の“娘”に……なにをしたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああ!!」

「…………え?」


 反面、ナージャの方はかえって冷静でありつつ、パウルの台詞に聞き逃しのない言葉があった。

 だが、それがなんなのか追及する前に新しい声が耳に突き刺してくる。


『ヒヒッ! これぞ私のサプラーイズってね!』

「!」


 その時、バレリアのところから独特の高い声が電子音として聞こえてきた。

 その独特の音声には聞き覚えがある。

 つい先ほどまで上司の声を聞いたのと同じ感じの音声だ。


「携帯電話……!?」


 直に見えるわけではないが、間違いないと確信する。

 しかし、なぜあの脱獄者がそれを持っているのか彼女にはわからないが、現にバレリアの服のどこかにある携帯電話は、スピーカーの音量でシスカーの言葉をそのまま伝えているのだ。

 たとえそれが悪意を表した言葉だろうと、


『ダ☆メ♥押♦し♪ ってね! どうこの神演出(笑)は!』

「……どうして……どうしてこんなことをするんだ…………!」


 パウルの顔が絶望に染まっていく。

 それはナージャの前では決して出さない、たとえ己の身に危機が迫ろうと決して見せない、

 そんな顔が大切な存在の豹変と、信頼していたものへの裏切りによって色濃く浮かび上がってきた。

 それらはナージャにとってただ理解の外であるというしかない。


「……パウル様……パウル様が…………」


 バレリアがおぼろげに言葉を放ち、歪んでしまったパウルの顔に目を移してしまう。

 バレリアから見るパウルは、苦しみと悲嘆によって歪んでいくように見えてしまう。それがいったいなぜなのか彼女は気づかない。

 その元凶だと思い込んでいる地獄の使者へ、視線を移していく。


「パウル様が苦しんでいる……パウル様が……パウル様が……」


 火傷跡の少女に正気は見られない。故にナージャに対して敵意のみしか向けていない。

 一歩一歩確実にナージャの息を止めるべく、少女は近づいていく。

 たとえそれまでに至る経緯に反する思想があろうと、無関係に歩みを進めていく。


「……ちっ! 本当に、厄介なことね」


 まだ体の下半分が動かない。立つことさえままならない。

 今度こそ瀕死の危機にナージャは舌打ちを交えていった。

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