12月25日
彼の呼ぶ声がした。
遠く…遥か遠くで。
私の名を呼ぶ…優しい声。
真っ暗な穴の中から…瞼に透けて見える、明るい光の射す方へ、ゆっくり首を傾け。
重い瞼を………ゆっくり開く。
眩しさに目を細めて見ると…
あの人だ。
私のこと…呼んでる。
行かなきゃ。
また…『早く来ないと置いてくよ』って…笑われちゃうもの。
でも………そうだった。
もう…一緒にはいられないの。
私のことは、もういいから。
こんなに最後まで、そばにいてくれて嬉しかった。
ありがとう。
あなたのおかげで…もう、怖くない。
あなたを安心させたくて、私はにっこり微笑んで見せたけど。
暗い穴の中にいたから、見えなかったみたいだ。
彼はただただ泣いていた。
そんなに泣かないで。
私は大丈夫だから。
さよなら。
あなたのこと、大好きだった。
だから………
目を開けると…
そこは、どこか高いビルの屋上だった。
ヘリポートのような模様の上に…さっきの魔法円が光っている。
「………ここは」
ふと…自分が見たことの無い、白い服を着ていることに気づく。
厚手の上質そうなウールで出来たそれは、教会の聖職者が身につけていそうな法衣で。
白い…鈍い光を放っていた。
熱とさっきの薬でぼーっとする頭に…
『気ガツイタミタイネ』
若い女性の声が響き。
はっとして…見ると。
土橋が冷たい目をして、こちらを見つめており。
少し離れた所で…着物を着た少女が、静かに微笑んで立っていた。
「どうかしたかね?」
余裕の表情で尋ねる土橋に、その子は誰?と問い掛けると………
彼は怪訝な顔をして、片方の眉を吊り上げた。
この人には、この子が…見えてないのかしら?
『ソノ通リヨ』
にやりと笑って、私が言う。
………私?
そんなはず………
でも………あの子。
服装は、まるで戦国時代のお百姓の娘みたいだけど。
あの顔は…いつも鏡で見てる、私の顔。
『ソレニ…コノ声モネ』
くすりと笑う少女を呆然と見つめていたら………
冷たい汗が一筋…背中を流れた。
「君にはどうやら…何か人知を越えた存在が見えているようだね」
土橋の愉快そうな声に、慌てて首を振り、否定するが。
「混乱するのも…無理はなかろう」
彼は満足そうに頷いて、ゆっくり顎に手をやる。
「君は生まれながらにして、この壮大なゲームのキーパーソンでありながら………そのことを一切知らずに生きてきたのだからね」
「………キーパーソン?」
『私』は少し上目づかいに私を見て…感情のない声で、唱えるように呟いた。
『ゲームマスターハ…アナタヨ、文』
「………ゲームマスター?」
はっとする。
「あなた………私のこと…騙したのね?」
からからと大きな声で笑い、土橋は私に名乗った。
自分は土の精霊ノームのパートナー、土橋研二郎であると…
「君のおかげで他の精霊を倒し、石を手に入れる手間が省けた…礼を言わねばならないね」
そんなことをつぶやいて、彼は『私』のことを語り始めた。
「その昔、一人のキリシタンの娘が死んだ。川の神を鎮める…人柱なぞという、迷信じみた名目でね」
『ソレガ…アナタヨ』
「………私」
そして………
着物姿の少女に向かって、心の中で問いかける。
それは…あなたでもある、ということね?
くすっと笑って…そうよ、と彼女は頷いた。
覚えてるでしょ?
あの…呪わしい一週間のこと。
白羽ノ矢ガ立ッタンダト。
アノ キリシタンノ家ラシイナ。
『済まないね…ほんにお前には、申し訳ないと思っておるんだ』
領主様の言葉は…呆然とした耳を、まるで他人事みたいに流れていった。
『うちの倅の嫁に…なぞと言っておきながら、こんな………』
構いません、とつぶやいた自分の声も…まるで他人の言葉のようだった。
『何とかしてやりたいのはやまやまだが…川の神様がご所望とあっては、我々にはどうすることも出来んでの』
神主様も、申し訳なさそうな目で私を見る。
母さんは倒れてしまって、布団から起き上がることが出来ずにいる。
だから………
こんな難しい話、一刻も早く終わらせて、家の仕事をしなくちゃならない。
『神様の思し召しなら仕方ありません…私でよければ、喜んでお受けいたします』
その代わり。
私は、父さんに土地をくださるよう…
家族がお腹をすかせることなく、安心して暮らせるように、領主様にお願いした。
『あなたは…本当にそれでいいのですか?』
神父様は、嘆かわしいというような表情で…つぶやいた。
『ええ。村のみんなの為ですから』
『神から頂いた命を自ら絶つことは…神の教えに反するのですよ?』
思わず…言葉を失った。
『こういうのも、やはり………自害ということになるのでしょうか』
『………そう…ですね』
『異国の神にこの身を捧げるということ、神様はお許しにならないでしょうか?』
神父様は困った顔で黙り込み…
私達が教会として使っている小屋の奥に掲げられた、古びた十字架を見つめた。
『それは………私にもわかりません』
『………そうですか』
そうよね。
こんな経験、異国から渡って来られた神父様にとって…初めてのことだろうし。
あんまり…困らせちゃいけないと思った。
『でしたら私は………信仰を捨てます』
これは私自身が決めたこと。
誰にも迷惑は掛けたくなかった。
なのに………
両肩を掴んだ彼の腕は…わなわなと震えていた。
『気は…確かなのか?』
『………ええ』
もう決まったことなんだもの。
くるりと踵を返し、どこかへ駆け出そうとする彼の、着物の袖を咄嗟に掴む。
『待って!…どこへ行くの?』
『領主様と…神主様のところへ』
はっとした。
『お願いしてくる。お前のこと…助けてくださいって』
『そんなの無理だわ。だってあなたはもう…』
『確かに俺は、この村とは無関係な人間だ!でも………このまま、黙ってるわけにはいかないじゃないか!?』
『待って!!!お願い!!!』
取り縋る私に、どうして止めるんだ?と尋ねる彼の瞳は…
悲しみの色を帯びて、やや潤んでいた。
思わず…私も、泣いてしまいそうになったけど。
ぐっと堪えて…にっこり微笑んだ。
『いいの。だって…あなたがここで騒ぎを起こしたら、ご奉公先にご迷惑がかかってしまうでしょ?せっかく先の戦で手柄を立てて、これからっていう時なのに…』
彼は…私のことなんか、もう忘れてしまうべきなのだ。
家柄の良いお姫様をお嫁さんに貰って、もっともっと上の役職に取り上げられて…
幼い頃…貧しい思いをして、苦労をしたのはお互い様。
やっと、ここまで来られたんだもの。
あなたには…幸せになって欲しかったの。
『アナタハ イイワネ』
少女の声に、はっとして…我に返る。
「昔のことでも…思い出していたのかね?」
土橋が低い声で言って…私に背を向けた。
「さっき手間が省けた…と言ったが」
コツコツという靴の音が、冷たいアスファルトに響く。
「それはどうやら…私の早合点だったようだ」
「…どういうこと?」
「君の妹さんはまだ…賢者の石を所持しているらしい」
「………すずが!?」
元々あった石を小さく割って隠し持っていたようだ…と、彼は苦々しい顔でつぶやく。
思わず………小さく拳を握る。
…ナイス、すず。
「件の若者にもまだ、シルフィードの力が残っているようだしね…彼らは君を探して、ここへ向かっているようだ。が………」
悪人めいた笑みを浮かべ、彼はまた…ヘリポートの隅へと歩きだした。
「無駄なことだと思うがね。共に戦う精霊がいない以上、彼らに出来ることなど…たかが知れている」
土橋が去り………
冷たい風の吹き荒れるヘリポートには、私一人だけが残された。
………いえ。
正確には、私と…
黙って虚空を見つめる『私』に、私は静かに問い掛ける。
「さっきの…『いいわね』って………何?」
『ワカラナイ?』
「…解らないわ。だって、あなたは私なんでしょ?だったらあなただって…」
あの日から、何百年経ったのかはわからないけど…生まれ変わって、私の中で…
この世界を生きているはずなのに。
『コノ建物ノ…真下』
乾いたその声に…
ぞくっと背筋が寒くなる。
彼女はニヤリと笑い、小首を傾げて私を見た。
『タマシイノ大半ハ アナタト共ニアルワ デモ………私ハ 取リ残サレテシマッタノ』
ゲームを存続させるため………
精霊達を、この世界に留めおくための…依り代として。
『デモ…ヨカッタ ゲームガ終ワレバ アナタト 一ツニナルコトガ出来ルモノ』
……………?
『勝者ノ願イヲ叶エタラ…アナタモ私ト一緒ニ………消エテシマウンダモノ』
轟々唸る風の音が…何故かとても、遠くに聞こえた。
………何?………それ…
ずっと一人で淋しかったの…と、彼女は静かに笑う。
『可哀相ダト思ウデショ?…アナタナラ…ソウ思ウハズダワ ソレニ…一緒ニイテクレルハズ』
だってあなたは優しいもの。
彼女は無表情に呟いた。
『ダッテアナタハ…イイ子ダモノ』
少女が暗闇の中に消えてしまい…
冷たい静寂が辺りを包んだ。
私に…考える猶予を与えようとでも言うのだろうか。
手の甲で額に触れると、想像していたよりも熱くて…
まるで命の最後の灯を、燃やしているみたいで………
………そっか。
このところ、ずっと具合が悪かったのは…そのせいか。
私は今度もやっぱり…18歳の誕生日を迎えることは…出来ないのか。
『バカじゃないの!?』
すずの怒鳴り声が聞こえた気がして…思わず身を固くする。
…すずの声?
いえ………違う。
「ひかり………?」
………そうだ。
私………まだ…やり残したこと、沢山あるもの。
ひかりと約束した。
私は医者になって…
ひかりみたいに、夢半ばで倒れるような子供が、いなくなるようにするんだって。
土橋の消えた…ヘリポートの隅にある、鉄の階段をじっと見据える。
生きなきゃ。
私は………
両手をついて立ち上がり、階段へ向かって駆け出した。
が………
「きゃっ!!!」
突風に煽られて、魔法円の中心に引き戻される。
はっとして…見ると。
目の前に立っていたのは………
「シルフィード…」
『あなたを行かせるわけには参りません』
今まで聞いたことのない、無機質な声。
「お願い!睦月さんや…すず達が下で私のこと待ってるの!私…早く行ってあげなきゃ」
『そうは参りません』
「………どうして!?」
『プレイヤーの命令だからです』
どきんと心臓が高鳴る。
「…土橋が?」
『土橋の命令に従うように…と。文さん…これはあなたの命令だったはずですが?』
「それは………」
しまった…と思う。
でも。
「じゃあ…撤回する。あなた達は皆、元のプレイヤーの所へ」
『それは出来ません』
「………何故?」
『あなたはゲームマスターとしての、正当な手続きを踏んでいません。だから…今、あなたの命令に従うことは出来無いのです』
「正当な…手続き」
そう、と頷く彼女の瞳からは、一切の表情が読み取れない。
そうか。
さっきは土橋がお膳立てをした上で、私が命令したから…言う事を聞いてくれたってわけ。
方法はきっと…あの古文書に書いてあるはず。
でも、本は彼が持ってどこかへ行ってしまったし…
難しいなぁ。
何か…他に方法は………
そうだ。
さっきの子…どこへ行ったんだろう。
ゲームの依り代だって言ってた…あの子にお願いすれば、きっと。
すうっと大きく息を吸い込んで…
彼女を呼ぼうと、口を開き。
………はたと、気づいた。
私………
あの子の名前…忘れちゃってる。
どうしてだろう…自分の名前なのに。
そういえば…睦月さんの名前って…何だったっけ。
………睦月さん?
私、どうして彼が睦月さんだって…思ったんだろう。
でも…理由はわからないけど、やっぱり睦月さんだ。
睦月さんはきっと、私のことを覚えていて…それで私を探し出してくれたんだと思う。
『君のことは絶対………俺が守る』
この前確か…そんな風に。
…そうだ。
睦月さんはきっと、ここへ来てくれる。
「睦月さん…」
つぶやいた…その時だ。
「文ちゃん!!!」
ビルの屋上に現れたその姿に…
ほっとして…私は思わず、ため息をついた。
「睦月さん!」
睦月さんは穏やかな表情で、じっとシルフィードの顔を見つめた。
「シルフィード…彼女をこちらへ渡して」
『あなたの命令には従えません』
「…やっぱりそう」
じゃあ、とつぶやく彼の周囲に…冷たい風が吹きすさぶ。
「力づくでも…渡して貰わないとね」
シルフィードの華奢な体に、激しい風が吹き付ける。
両腕で覆うように体を庇い、彼女は瞳をぎらっと光らせた。
「睦月さん!」
次々に襲い来るかまいたちを、白く光る一振りの刀で回避しながら、彼は私達の元へ駆け寄ってくる。
そして。
シルフィードの目の前で、彼はぐっと右手を突き出した。
風の塊が彼女を襲い。
咄嗟に、風の塊を繰り出して反撃するシルフィード。
二つの風は白い眩い光を放ち、激しくぶつかり合うが…
やがて…睦月さんの放つ風が、シルフィードの攻撃を弾き飛ばした。
彼女の体はヘリポートの端まで飛ばされ、地面に叩き付けられる。
ドサっという音と共に倒れ、ぐったりと動きを止めたその姿に…少し不安になるが。
「大丈夫だよ。精霊にとってはあのくらいの攻撃、なんてことないから」
冷静な声の睦月さんが、シルフィードに向かって声を掛ける。
「下で沢山の分身を動かしてるから…本体の方には力をあまり残してなかったんだろう」
『……………』
「いいからお前は…そこで体を休めてな。後は俺に任せて」
彼の温かい腕に抱きしめられ…
目から熱い涙がこぼれ落ちた。
「遅くなってごめんね…大丈夫?」
「………はい」
よかった…と微笑んで、彼は私の頬を流れる涙を拭ってくれる。
やっぱり…来てくれた。
睦月さん………
「すずと…仁くんは?」
「今は下にいるけど…大丈夫だよ」
「…よかった」
「じゃあ、とにかく…二人と合流しなきゃね。早くここを降りて」
「そうはさせんぞ!」
はっとして…見ると。
さっき睦月さんが現れた階段を、駆け上ってきた土橋が…荒い息で怒鳴る。
「シルフィード!そいつらを捕まえろ!!!」
むっくりと体を起こしたシルフィードは。
呆然とした表情で…私達と土橋を交互に見た。
「何をしている!?早くそいつらを…」
言いかけた彼に睦月さんが駆け寄り、風の塊を放つ。
大柄な彼の体はコンクリートの床に押し付けられ、身動きが取れなくなってしまう。
焦った様子で、息苦しそうに喚く土橋。
「貴様っ…はなせ………」
「文ちゃん!今のうちに下へ…」
「でも…睦月さんは」
「俺は大丈夫だから!だから早く下へ」
「シルフィード!早く捕まえろ!!!」
「駄目だシルフィード!土橋の命令には従うな!」
無言でこちらを見つめる彼女の瞳に…迷いの色が見える。
「約束しただろ!?俺達で彼女を守ろうって…」
『………ムツキ』
「彼女の幸せを、俺達はずっと…願ってきたんじゃないか」
『……………』
「シルフィード!!!」
怒鳴る土橋を冷たい目で一瞥して、駄目だ、とシルフィードに再び声を掛ける。
「彼女を行かせてやれ!」
「睦月さん…」
「いいから行って!文ちゃん!!!」
シルフィードと目が合う。
彼女はまだ…迷っているみたいで。
「文ちゃん!!!」
「貴様…シルフィード!プレイヤーの命令に従えないのか!?」
『私は………』
「その男はもう…お前のパートナーではない!私の命に従うようにと、ゲームマスターによって命じられたはずだろう!?」
青ざめる彼女に…低い声で彼は命じる。
「ならばよい…娘を捕まえろ!さもなくば…その男を殺せ!!!」
………何ですって?
「風群睦月を殺せ!それが出来ないならば…その娘を捕まえるんだ!」
静かに目を閉じ…睦月さんが厳しい声で言う。
「シルフィード…彼女を行かせてやれ」
「…睦月さん」
「いいから…行くんだ!!!文ちゃん!!!」
「命令に従え!シルフィード!!!」
意を決した様子で、彼女は私達に近付き…
風の刃を………
彼の背中に突き立てた。
「そうだ………シルフィード」
長身の体が…ふらりとよろめいて。
「それで………いい………」
乾いた音を立てて…床に崩れ落ちた。
「睦月さん!!!」
駆け寄って、その体を抱き起こす。
苦痛に顔を歪める。
彼の背中を支えていた、私の白いシャツが…赤く染まっていく。
彼の着ていた黒いシャツは大量の血を吸って、びしょびしょになっていた。
「………睦月さん」
呼ぶ声が…掠れる。
『睦月』
シルフィードが傍に跪く。
『これで…本当に良かったのですね?』
「そんな…良いわけが」
「いい…んだよ………文ちゃん」
弱々しく微笑む、睦月さん。
「昔………約束したのに………君を守れなかったから………」
「睦月さんっ…」
「君を殺した連中を………皆殺しにしてやったけど………そんなの…君は望んじゃいなかったんだろうね…きっと………俺の自己満足だったんだと…思う」
「…そうですよ。私は………あなたに………幸せになって欲しくて」
「もう一度会えて………本当に…嬉しかった」
「睦月さん!?」
「今度こそ…君のこと………守りたいって思ったんだ…でも………」
「こんなこと…私…ちっとも嬉しくありませんよ…」
そうだよね…と………微笑む彼の頬を…涙が一筋流れる。
「これで君を守れるって思ったけど…やっぱり………これも…俺の…自己満足…かな…」
「………睦月さん!!!」
彼の呼ぶ声がした。
遠く…遥か遠くで。
私の名を呼ぶ…優しい声。
真っ暗な穴の中から…瞼に透けて見える、明るい光の射す方へ、ゆっくり首を傾け。
重い瞼を………ゆっくり開く。
眩しさに目を細めて見ると…
あの人だ。
私のこと…呼んでる。
とてもとても…愛おしそうに。
聞いたことの無い名前。
私の名前は文なのに。
でもとても…懐かしい名前。
『蘭!』
「………一也」
動かなくなった彼の体が、次第に冷たくなっていく。
うつむいた私の背後で…
土橋の笑い声が響き渡った。
じっと睨む私に構う様子もなく、彼は得意げな声で私に問いかける。
「どうだね?自分の為に、恋人が犠牲になった気分は…」
「………最低」
私の答えは勿論…気分の話じゃなくて。
この…人の皮を被った悪魔のような………男のことだ。
唇を噛んだシルフィードは、くるりと私達に背を向け…小刻みに背中を震わせていた。
ずっとずっと彼と一緒にいて…かけがえの無いパートナーだったのに。
………そっか。
だからこそ………シルフィードは睦月さんの言葉に従ったのだ。
守りたかった?
………私を?
ひどい。
『取リ残サレタ者ノ気持チガ 少シハ分カッタカシラ?』
顔を上げると。
あの子が立っていた。
彼女は楽しそうにくすくす笑いながら、私に手を差し出す。
『ネエ 早ク一緒ニ逝キマショウ?』
「………あ…なた」
『ダッテ 彼ノイナイ世界デ アナタハドウヤッテ 生キテイクツモリナノ?』
「恋人のいない世界になぞ…君も未練はないだろう」
土橋が彼女の言葉を追うように、語りかけてくる。
………ころしてやる。
あんたなんか………
『アナタハ 一也ト 同ジ事言ウノネ』
はっとした。
『自己満足だったんだ』
………そうね。
きっと、自分が犠牲になって…
家族もあなたも幸せになれるんだって…
そんな風に思ってた………私もきっと。
「自己満足…だったのね」
ふふふ…と笑って、彼女は首を傾げる。
『生キテイタッテ仕方ナイワ』
「それならば、一人の哀れな男の願いを叶えてくれても、罰は当たらないと思うがね」
………何よ、それ。
意味わかんない。
ジョウシキテキニカンガエテ、おかしいでしょ。
すず………
大丈夫かな。
仁くんは………
どうしただろう。
でも………
きっと…なんにもしてあげられない。
私には、睦月さんすら…助けられなかったんだもの。
どうしよう。
誰か助けて。
怖い。
悔しい。
悲しくて………
絶望で…体が引き裂かれそうだった。
痛くて痛くて…泣き叫んでしまいそう。
私は俯いて…
冷たくなった睦月さんの額に…手を置く。
血が出るほど唇を噛んで、懸命に…痛みに耐えることしか出来無い。
何も考えられなくて…まるで使い物にならない頭に………
あの子の笑い声だけが…大きくこだましていた。
「顔を上げろ!!!娘!!!」
苛立ったような土橋の声。
はっとして………
背筋が凍りつくのが分かった。
「………すず?」
「お姉ちゃん…」
頭から血を流したすずは…
土橋に…その小さな体を拘束されていた。
すずの頭の横に突き出された土橋の手の中には…銃のようなものが見える。
あんなもの………
「あんたこんなもん、どこで手に入れたのよ!?」
すずが空元気を振り絞って、土橋に向かって怒鳴るが。
彼が動じる様子など…微塵も感じられない。
「ネットというものは…君も相当な通らしいが」
余裕たっぷりに口を開き、にやりとすずに笑いかけた。
「何とも便利な代物でね…誰でもどこからでも…何でも手に入る」
「し…信じらんない!!!あんたなんか………あんたなんか…死んじゃえばいいのよ!!!」
「………君の姉上の答え次第では」
上機嫌だった声が、急に低く険しくなり。
カチャリ…と、銃の安全装置を外す音がした。
「死ぬのは君だよ…不知火すずくん」
青ざめるすずを一瞥して、土橋は厳しい目を私に向けた。
「………こんなひどいこと………なぜ?」
「そんなこと、決まっているだろう!?」
自分の願いを叶えなければ…すずを撃つ。
彼は淡々と…そう言った。
『サア…ドウスルノ?』
彼女が楽しそうに尋ねる。
『可愛イ妹ヲ犠牲ニシテマデ アナタハ生キテイタイノ?彼ノイナイ コノ世界ニ』
すず………
『ドウシテアナタハ 私ノオ願イ 聞イテクレナイノ?』
…それは。
そっか、と笑って、彼女はどこかを指差し、私を見た。
『夢…ダッタワネ。アノ子ノオ姉サント 約束シタンダッタカシラ?』
………あの子?
彼女の白くて細い指先の向こう。
仁くんと、傷だらけのウンディーネの姿が見えた。
すずを拘束したまま、土橋は愉快そうに笑う。
「どうやら…あちらも決着がついたようだね」
ぐっと唇を噛んで、仁くんは…土橋に向かって行こうとする。
でも………
「じ………ん………」
虫の息といった様子のウンディーネが、細い声で彼の名を呼ぶ。
はっとした顔で、今にも泣きそうな表情で…仁くんは彼女の身体を抱きしめた。
二人は何か、話してるみたいだったけど…
その声はとても小さくて、何を話しているのかわからなかった。
ただ………
「私も…仁が………すきでした」
微かに笑って消える前の、ウンディーネの言葉だけが、風に乗って私の耳に届いた。
………そっか。
仁くんも………私と一緒か。
大事な人に…置いていかれちゃったのね。
ひかりだけじゃなく………あの子にも。
私もきっと…あんな風に打ちひしがれて見えるのだろう。
膝に、冷たくなってしまった睦月さんの重みを感じながら…
コンクリートの地面に両手をついて、小刻みに身体を震わせている仁くんの姿を見つめ、呆然とそんなことを考えていた。
「水月!」
土橋の手から逃れようと、体をじたばたさせながら、すずが仁くんの名を呼び。
はっと…我に返る。
ノームの使いらしき、岩で出来た化物が、仁くんに近づき。
青く光る石の欠片を、彼の手からもぎ取った。
「駄目!駄目だってば!!!水月!!!」
放心状態の彼に、すずの叫びは届いていないらしく。
絶望に満ちたその瞳は…まるで。
ひかりが死んだ………あの日のようだった。
「聞き分けが良くて結構なことだね、仁くん」
ゲームの勝者が…満足げな声でつぶやく。
「さあ、ゲームマスター!君はどうする?」
返事は分かっている…と言わんばかりの態度で、土橋は私に声をかける。
「石はこれで全て揃った!そして、君のかわいい妹さんの命は…私の手の中にある」
『コレ以上 誰ニモ傷ツイテ欲シクナイ』
はっとする。
彼女はずっと、私の傍に立っていたらしい。
一時の沈黙の後。
彼女は…弾けるように笑い出した。
楽しくて楽しくて仕方ない…そんな様子で。
『…何がそんなに可笑しいの?』
『ダッテ!ソウ思ッテタデショ!?』
『そりゃ…思ったけど』
『アナタッテ本当ニイイ子ナノネ!信ジラレナイワ』
『私は………あなたなのよ?』
『デモ信ジラレナイノ アマリニ アナタガ…バカバカシクテ』
お腹の底から…怒りがこみ上げてくる。
あなた怒ってるの?と、彼女は依然愉快そうに尋ねる。
『逃ゲチャエバイイノニ』
『出来ないわよ、そんなこと』
『ジャア アノ男ヲ殺シテシマエバ? アナタガ命ジレバ 精霊達モ従ウンジャナイ?』
『その間に…すずに何かあったらどうするの?それに』
『ソウヨネ アナタハ…自分ノ手ヲ汚シタクナインダワ』
ズキン、と胸が痛んで…
心臓に何か…突き刺さったような気がした。
くすくす笑いながら、彼女は小首を傾げて微笑む。
『ダカラ ヤッパリ今度モ 前ノ時ト同ジヨウニ…アナタハ死ヌコトヲ選ブノネ』
『………それは』
「さあ!!!儀式を行い私の願いを叶えたまえ!!!」
土橋の声が、ビルの屋上にこだまする。
『可哀想ネ アナタッテ』
………可哀想?
『ソウヤッテ イイ子デイナキャ…ッテ コノ後ニ及ンデ思ッテルンデスモノ』
そうなの…かな?
私………
心臓の鼓動が耳に響く。
膝に抱いた、冷たい睦月さんの額に…手を当てる。
私のことを愛してくれた人。
命を賭けて…守ろうとしてくれた。
私は彼のために………
何が出来るだろう?
『可哀想なのは…あなたの方よ』
ずっとずっと一人ぼっちでいた…そのことも可哀想だけど。
『それよりもずっと…そうやって、自分の気持ちを裏返しにしてることの方が可哀想だわ』
『………ドウイウ意味?』
少し動揺した様子が、その声から伺える。
『あなたは何も感じないの?あんな風に悲しみに暮れている仁くんを見ても、あんな風に怖い思いをしてるすずを見ても、それに…こんな睦月さんの姿を見ても』
『……………カンジナイワ』
『嘘よ。あなただって可哀想だって思ってるはずだわ…何もしてあげられないのかなって、何とかみんなを助けてあげられないかなって…出来る事なら………あの人にも考え直してもらえないかなって』
『………馬鹿ジャナイノ?ソンナハズ…』
『いいえ、そのはずよ!』
あなたはいい子過ぎるの。
自分が犠牲になったことで、沢山の人を悲しませてしまった。
だから…いい子でいちゃいけないんだって。
あなたはそう…思ってるんでしょ?
『………チガウワヨ』
『私があなたを可哀想だって思うのは…私がいい子だからじゃないわ』
『…ジャア…ナニ?』
『いい子だから、そう思わなきゃいけないって思ってるわけじゃない…私に自然な気持ちなの。誰も傷つけたくないっていうのだって、いい子ぶって思ってるわけじゃない』
自分の気持ちに蓋をして、わざとそんな風に笑ってるんでしょ?
『チガウチガウチガウ!!!チガウワヨ!!!ワタシハ…』
泣きそうな顔をして、何度も何度も首を振る…少女。
その姿を見ていたら………
『一緒にいてって…さっき言ってたわね?』
黙って俯く…彼女。
『私…あなたと一緒にいてあげる』
驚いた様子で、大きく目を見開く。
『………アナタ…ヤッパリ自分ガ犠牲ニナルツモリナノ?』
さっきまで、あんなにそのことを促していたくせに。
彼女は非難めいた声で、私に尋ねた。
『いいえ。私ね………名案があるの。あなたと一緒に、みんなを助けるのよ』
…なぜだろう。
急に…何か方法がありそうな気がしてきたのだ。
この子を助ける方法。
そして、睦月さんやウンディーネを…
それに………
目の前で高らかに笑う…あの男のことも。
少女の姿が見えなくなる。
そして………
一瞬、体が暖かくなったような気がした。
意を決して、口を開いた時。
自分の声があまりに冷静で…驚いた。
「あなたの願い事って…何?」
「…何?」
「まだその事…聞いてなかったじゃない」
土橋に羽交い絞めにされ、恐怖で固まっていたすずが、はっとしてた顔で怒鳴る。
「駄目!!!お姉ちゃん!!!」
「おいおい、君は黙っていたまえ」
「うっさいわねぇ!お姉ちゃん!!!こいつの願いなんて…そんなことしたらどうなるか、わかってるの!?お姉ちゃん」
私が死んじゃうって…思ってるんだろう。
必死で私を思いとどまらせようと叫ぶすずの姿に、胸が熱くなる。
「すず…大丈夫」
あなたを悲しませるようなことは、絶対しないから。
「だから…大人しくしてて」
はっとした顔で私を見つめたまま。
すずは、小さく頷いた。
『でも…どうする気なの?』
彼女の目は…そんな風に私に尋ねている。
………どうしたらいいんだろう。
すずにも、あの子にも…大丈夫って言ってみたものの。
名案なんて…未だになんにも思い浮かばない。
「私の願い…か。そうだな………」
きっと何年も何十年も抱き続けてきたのであろう、その願い事を…
彼は厳粛な面持ちで、私に告げた。
「私を………民俗学研究の権威に」
すずが彼の顔を凝視する。
「………はあ!?」
「世界中の研究者がひれ伏すほどの最高の権威を、私の手に………それが、私の願いだ」
恍惚とした表情を浮かべる土橋に向かって、真っ赤な顔ですずが怒鳴る。
「信じらんないわあんた!!!そんなことの為に、私のお姉ちゃん死なせようっていうの!?それに…あんたのせいで、ウンディーネも…睦月も死んだのよ!?あんた目覚ましたらどう!?そんなちっぽけな願い事なんか…」
「黙れ!!!お前のようなガキに何が分かる!?」
「だ…からっ………それはあんたの努力不足でしょうが…」
「違う!!!」
苛立って地面を蹴る音が、静かな屋上に響きわたった。
「この業界はな…努力だけではどうにもならんのだ!何が真実であるかなど二の次、金や権力を持ったものの言い分が通る…勝ち組はずっと勝ち続け、そこから漏れた人間は…」
声を震わせ、彼はすずに向かって怒鳴り続ける。
「分かるか!?私は精霊の研究に何十年もの時間を費やしてきた。その間…どれだけの人間に絵空事と揶揄され、嘲笑われ続けてきたか………お前には想像出来るか!?」
そして………
今度は、私と仁くんに向かって…訴えるような必死な表情で叫ぶ。
「お前達も見ただろう!?確かに精霊は存在しているんだ!!!長い眠りから覚めた『精霊の書』は本物だった!!!だが世間の一体誰が、それを信用すると思う!?だから私には石の力がどうしても必要なのだ!!!この世紀の大発見を証明し、世界に発信し…」
苦しそうに、大きく一つ息継ぎをして…
彼は高らかに宣言した。
「今まで馬鹿にしてきた連中を嘲笑うのは…今度は私の番だ!!!」
一瞬…言葉を失った。
なんて………
なんて………可哀想な人なんだろう。
長い長い間、この人はずっと、辛い悔しい思いに耐え続けてきたのだ。
誰にも理解されず、相手にされずに…
ひたすらに、自分の信じたものを求め続けてきた。
『精霊はたしかに存在する』
どんなに嬉しかったことだろう。
でも………
やっぱり理解してくれる人なんて…一人もいなくて。だから………
こんな風に…感情が麻痺してしまったのだろう。
「やっぱり…そんなことの為にお姉ちゃん死なせるなんて出来ないわよ!」
優しいすずの叫びに、哀れな男は冷たく言い放つ。
「それは…君ではなく、お姉さんが決めることだよ」
そして、救いを求めるような目で…私を見た。
「ゲームマスター!さあ、この石を…」
差し出された4つの石を、手にして。
深く息を吸い込んで。
………考えた。
この人に、目を覚ましてもらうには…どうしたらいいんだろう。
ゲームなんて、最初から無かったら良かったのだ。
そうすれば、ウンディーネも…睦月さんも…失うことはなかったのに。
ゲーム………か。
拘束されたまま、私を思いとどまらせようと叫び続けているすずに…視線が止まる。
………そうだ。
「………お姉ちゃん!?」
まぶしく光り輝く魔法円。
『トンデモナイコト思イツイタノネ』
少女の声が脳裏に響く。
…そうよ。
あなたが思ってるほど…私はいい子じゃないの。
ゲームのルールに則って、それでみんなが不幸になるなんて………まっぴらだ。
こんなもの………
彼女が嬉しそうに笑う声が聞こえた。
思わず私も微笑んで彼女に答える。
そうよね。
ゲームなんて………
二人で…壊してやりましょう。
「ゲームを………リセットします」
目が眩むような、白い光に周囲が覆われて。
思わず固く、目を瞑る。
そして………
いつも教会で捧げる祈りの言葉を…
あの子と一緒に、唱えた。
ゆっくりと………瞼が開き。
呆然と、自分の手のひらを見つめる睦月さん。
「………これは」
どこか不安げな表情で私を見つめる彼に…
私は少し首を傾けて、笑いかける。
「大丈夫ですか?」
睦月さんは子供みたいに、こくりと頷いてくれて。
ほっとして…思わず大きくため息をついた。
少し離れた所に…ウンディーネの姿も見える。
涙をぐっと堪えて、彼女の華奢な手を握る…仁くんが。
なんだかちょっとだけ…男らしく見えた。
大きく目を見開いたすずと…目が合う。
『もうヤダ!!!』
ちっちゃい頃、すずは半泣きで言い放つと。
決まって…ゲームのリセットボタンを押すのだった。
『おいおい…簡単に諦めちゃ駄目だよ』
そんなすずを、パパは呆れ顔で笑ってたしなめたが。
『駄目じゃないもん!次頑張るからいいんだもん!!!』
大きく首を振って、すずはいつもそう反論し。
しばらくすると…また同じ事を繰り返すのだった。
そんなこんなで、すずのゲームはちっとも進む気配が無くて。
最後はいつも泣き出してしまい、見るに見兼ねたパパが助け舟を出すのだ。
『すごいすごい!パパかっこいい!!!』
大はしゃぎで目を輝かせるすずに、パパは得意げに笑いかける。
そんな二つ並んだ背中を…私はいつも眺めていた。
それは懐かしくて、暖かくて、優しい…遠い記憶。
「………うおぉぉぉぉ!!!!!」
突如上がった叫び声に…はっとした。
土橋の握りしめた銃は、真っ直ぐ私に向けられている。
私を庇おうと前に進み出る睦月さんを制して、私は彼と向き合った。
「貴様!!!一体どういうつもりだ!?」
「どういうって………見ての通りよ」
「………私を…騙しおったな!?」
一瞬、言葉を失ってしまう。
この人には、まだ…分からないんだろうか。
「騙す!?先にそれをやったのはあなたじゃないですか!?私はゲームマスターなんです!!!ゲームマスターとして………こんなゲーム、到底認められません!!!」
「………何だと!?」
「人の気持ちを利用して、操って…自分は最後においしいところだけ持っていこうなんて、しかも…勝利の為には人の、精霊の命なんてどうでもいいなんて、そんなの…だからリセットしたんです!どうしても願いを叶えたければ、もう一度ノームと契約を結んで、そして他の精霊達から石を集めたらいいじゃないですか!?」
必死の形相の土橋に…
ノームは、何気ない口調でつぶやく。
「わしは…下りるぞ」
「………何だと!?」
有無を言わさぬ態度で、彼は石を空高く放り投げ。
それはきらりと光って、私の手の平に収まった。
「…どういうことだ、貴様私を裏切るのか!?」
「裏切る?」
呆れたように笑い、彼はのんびりした口調で土橋に反論した。
「わしはまだ、貴様とは契約を結んでいない…裏切るも裏切られるも無いわい」
はっとした顔で、辺りを見回す土橋。
と………
「どうする?すず…」
「どうって………当たり前でしょ!?あんたと組むのは私だけよっ」
「よし、上等!」
楽しそうに笑いあう、炎の精霊とすず。
はにかんだ笑顔で、でも…固く手を握り合う、水の精霊と仁くん。
そして………
「シルフィード?」
優しい彼の声が、彼女の名を呼び。
「はい…睦月」
穏やかなシルフィードの声が、すぐ傍に聞こえた。
土橋は………
愕然とした表情で…冷たい地面に膝をつく。
その瞳から、さっきまでの狂気は消え。
やっと彼はゲームの呪縛から解き放たれたのだ、と…思った。
「土橋…先生?」
怯えた小動物のように見える彼に、そっと手を差し伸べる。
「あなたがさっき…おっしゃっていた通りです。精霊は確かにいて…『精霊の書』は本物でした。たとえ誰もが信じなくても………私達には…先生の研究が真実だって、ちゃあんと分かってますから」
私を見つめるその目には…恐怖すら浮かんでおり。
出来るだけ刺激しないように、笑顔で静かに語りかける。
「正しいことを言ってる研究者が、信じてもらえないことって…よくあることじゃないですか。長いときを経て、それが真実だってようやく分かってもらえて、そうして名前が残ってる研究者って…世界にたくさんいるじゃないですか。私達…応援してますから」
これまで…彼はどんな風にして生きてきたのだろう。
どんなことを思い、どんなことに幸せを感じてきたのだろう。
ゲームばかりが全てじゃない。
聖夜が終わる、その前に…
目を…覚まして欲しかった。
「どうかこれからも…」
沈み込んだ、その肩に………
手をかけようとした。
………その時だった。
「………黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!!!」
彼は突如、立ち上がって叫び。
銃口を私達に向け、屋上の端の方に駆け出した。
「待ちなさい!!!」
………いけない。
「うるさい!!!貴様らのようなガキにはわかるまい!!!私の…私は………」
狂ったようにフェンスをよじ登る彼に。
もう一度、声をかけようとした時。
「………うわぁぁぁ!!!!!」
一生忘れることは出来無いであろう、叫び声と共に。
彼の姿は………
ふっと…夜の闇の中に消えた。
「………どう…して?」
最後に私達を見つめた…その目は。
確かに正気を取り戻したように見えたのに。
きっとまた、学者として真摯に研究と向きあってくれると…思ったのに。
肩に、ふっと…重みがかかり。
睦月さんが、静かな口調で話し始めた。
「ゲームの勝者になるということ…数十年もの長い年月、あいつはそれだけを思って、ここまで生きてきたんだろう………生活の全てを犠牲にして、ただひたすらそれだけのために…ね。このゲームに勝ちさえすれば、自分は名誉を手に入れ、生まれ変わることが出来る………そんな風に思ってたんじゃないかな」
「でも………」
困惑したすずの声を遮るように、彼は淡々と言う。
「あいつはきっと、ゲームに囚われてしまっていたんだろう………研究を世に知らしめるとか、そんな純粋なものだったろう最初の目的が………いつの間にかゲームの勝者になる、という欲望にすり替わってしまっていたのに…あいつは気づかなかったのかもしれない」
「………囚われる…か」
仁くんが、神妙な顔で言い。
小さく頷いて、微かに光が差し始めた…藍色の空を仰ぐ、睦月さん。
「ゲームの勝者になれないとわかった瞬間に…あいつは、生きる意味を失ってしまったように感じたのかもしれないな。絶望に全身を支配されて…だから」
深い溜息をついて、ゆっくりと目を閉じ。
噛みしめるように…つぶやいた。
「土橋もまた…ゲームという虚しい夢に囚われた、哀れな男だったんだな」
少し…背筋が寒くなり。
思わず彼の大きな手を、両手でぎゅっと握り締める。
そうでもしないと、睦月さんが…どこか遠くへ行ってしまいそうで。
はっとした顔で見つめる彼に、私はにっこり微笑んで。
「帰りましょう…一緒に」
「………文ちゃん」
彼の瞳の奥にいる…もう一人の『睦月さん』に語りかけた。
あの時は………
ちゃんとさよなら言えなくて…ごめんね。
それに………
「睦月さんは、長い長い時間をかけて、私のこと見つけてくれたんですから…」
また、私が消えてしまうとでも思ったのだろうか。
少し震える腕が、ゆっくりと私の体を包み。
そして………
息が出来ないくらい、強く強く…抱きしめた。
…心配しないで。
私も、彼の大きな背中に手を伸ばす。
「私はもう…どこにも行ったりしませんから」
温かい彼の体温。
ちょっと早い心臓の音。
土橋先生を…助けたかった。
後悔は苦く苦く、体を締め付けるけど。
睦月さんのこと、取り戻せて…よかった。
すすり泣く彼は、まるで小さな子供のようだ。
もしかしたら、ずっとずっと…泣きたかったのかもしれない。
生まれてからずっと、ゲームの中を生きてきた…睦月さん。
ゲームのこともシルフィードのことも、誰にも言えず…
本当に会えるかも分からない、私を探し続けていたのだ。
どんなに孤独で、辛くて…心細かっただろう。
もう…なんにも心配いらないから。
「だから………ずっと…一緒にいて下さいね」
魔法円が眩い光を放ち。
中心に立つ…長い、白い髭の老人。
聖書の中に出てくる、預言者か何かのような出で立ち。
………そう。
『また…大胆なことを考えたものだのう、ゲームマスターよ』
彼は…このゲームの創造者だ。
「ええ。リセットしちゃいけないなんて…ルールにはなかったでしょう?」
『ふぉふぉふぉ…利口なお嬢さんじゃ』
「ただ………プレイヤーを一人失ったことは…誤算でしたけど」
『それは仕方がなかろう………』
「仕方…なかろうじゃないわよ、じーさん!あんたの仕掛けたこのゲームのせいで、私達どんだけ大変な思いしたと思ってんのよ!?」
怒鳴るすずに、老人は穏やかに笑いながら答える。
『しかし…お嬢さんらも命を賭けてゲームを戦っておったのじゃろう?』
「………だから!!!」
『このような過程が…石を昇華させるには必要だったんじゃ』
「………昇華!?」
左様、と小さく頷き。
彼は神妙な顔で、私達に語り始めた。
『偶然とはいえ、このような事態を招いた、禍々しい石を…再び無に帰すためには、どうしてもゲームという過程が必要でのう。しかし、お嬢さんらの言う通り、沢山の犠牲も出るであろうゲームが…実際に行われてしまうことを、わしも望んではおらなんだ』
ゲーム…それは、精霊使いの真の目的なんかじゃなくて。
自分の手で引き起こしてしまった悲しい出来事を、彼自身も悔やんでいるに違いない。
その証拠に………
穏やかな笑顔の奥には、暗い影が張り付いていた。
『そんな訳じゃから、極力先延ばしにするため、石を各地に隠したんじゃよ。長いこと眠りに付かざるを得なかった精霊達には、気の毒じゃったが………』
彼は自身の寿命を終えて尚、ゲームの行方が気掛かりで、こんな風に現世を離れることが出来ずにいたのだろう。
精霊使いのおじいさんの為にも…ゲームをちゃんと終わらせなくては。
そして…それが出来るのは。
『して…ゲームの勝敗は如何に?』
そう………
ゲームマスターである…私だけだ。
大きく一つ息を吐いて。
みんなをぐるりと見回して…宣言した。
「勿論…引き分けです。ゲームが始まり、どんな形であれ終了する…それが精霊使いさんのおっしゃる『過程』でしょ?」
『…これはこれは、本当に利発なお嬢さんじゃわい』
すずが老人に近づいて、小さく手を挙げる。
「願いを叶えるとか…そういうのしなければ、ゲームマスターは消えなくて済むの?」
『勿論じゃ。賢者の石が昇華する際に発する大きな魔力を用い、ゲームマスターの命を捧げることで願いを叶える…実際のところは、そういった仕組みでのう』
目を丸くしたすずは、満面の笑みを浮かべ。
「…やったぁぁぁ!!!」
両手を天に突き上げて、大きくジャンプした。
次に口を開いたのは…仁くん。
彼は真剣なまなざしで、精霊使いに問いかける。
「ウンディーネ達は…どうなるんだ?」
仁くんの顔をじっと見て、老人は小さく唸り。
それは、彼ら次第だ…と答えた。
「彼ら次第?」
「左様。ゲームが終息した以上、彼らは賢者の石から解き放たれることとなる。さすれば、どこへ行くも、何をするも、これからは…精霊達の意思次第、ということじゃよ」
四体の精霊が、神妙な面持ちで精霊使いの前に立つ。
『では…順番に聞いてゆこうかの』
ノームが、長い髭を一撫でして…語り始める。
「わしは…もう、疲れましたわい」
『ほう…疲れたとな』
こくりと頷き、ゆっくり目を閉じる。
「四体の中で最長老として、あの本を守っておったが…」
その様子はまるで…長い長い月日の出来事を、一つ一つ…瞼の裏に描いているようだ。
「これまでの長い時の中で…ゲームにまでは至らずとも、石の魔力に魅了され、己の欲望の為に狂う人間の姿を幾度も幾度も見て参った。ちと…疲れましてな」
彼もまた、好き好んでゲームを戦ってきたわけじゃないのだろう。
それに。
土橋の死を………
彼もまた、望んではいなかったのだ。
『して…どうする?』
「静かに眠らせていただきたい。わしは年じゃて…故郷に帰ったところで待つ者もおらぬ、故郷にずっとおったとすれば、もうとっくに命も尽きておろう」
そして、ノームは清々しい顔で、私達の方を振り返った。
「長い月日の中、色々な人間を見てきたが………お前さんらのような、気持ちのいい人間と出会ったのは初めてじゃったよ」
「いいのか!?本当に………」
仁くんが引き止めるように言うが。
首を横に振って、彼は依然穏やかな調子で答える。
「お前さんような、若い者にはわからんじゃろうが…ゲームと同じじゃよ。物事には全て、潮時というものがある」
「…ノーム」
「その…最後の最後に出会った人間が、お前さんらのような人間で…本当によかった」
ありがとう、と笑って………
彼は、白い光の中に…消えた。
精霊使いの前に立つ…ウンディーネ。
名残惜しそうに、仁くんの方を振り返る。
仁くんは………
彼女を促すように、励ますように…男らしく笑っていた。
『ウンディーネ、そなたはどうする?』
老人の問い掛けに、一筋の涙を流し。
彼女ははっきりと答える。
「元の世界へ…帰ります」
頷いて、精霊使いが右手を天にかざすと…
そこには、光の扉が現れた。
『では…行くがよい。この先に見える道をまっすぐに進めば、やがて…そなたの故郷へと辿り着くであろう』
はい、と答えるウンディーネ。
その声は、微かに震えているみたいだった。
シルフィードは、いつもの歌うような声で、精霊使いに告げる。
「私も、元の世界へ戻ります」
『では…お主もウンディーネと同じく、この扉をくぐるが良い』
「はい」
小さく首を傾げて答え、彼女はにっこりと微笑んだ。
最後に残ったのは…サラマンドラ。
神妙な面持ちの彼に、すずが慌てて声をかける。
「待ってよ!サラマンドラ!?」
「何だ?」
「あんた…帰っちゃうの!?そんなの…」
この上なく寂しそうな、すずの顔を見て。
彼は不敵に笑い、精霊使いに向かって、宣言する。
「俺…このまま、この世界に残るよ」
「………え!?」
すずの表情が、みるみる明るくなるが…
申し訳なさそうに笑って、サラマンドラは再び口を開く。
「俺、もっと…こいつらの世界を見てみたいんだ」
『…世界、とな』
「そ!あの街だけじゃなくてさ、色んな国の色んな人間を見てみたい。世界中を旅して…俺、どうせあっちに身寄りもねーし、帰りたくなったらなったで、きっと何か方法はあるだろうしさ」
夢を語る彼の瞳は、好奇心できらきらしていて。
ちゃんと話したことはほとんどなかったけど、すずがどうしてサラマンドラとこんなに仲良くなったのか…すごく良く分かる気がした。
『…左様か。ならば』
精霊使いは、精霊達の背後に立っていた、私達の顔を見て。
再びその穏やかな視線を、精霊達に向けた。
『皆、パートナーに別れを告げるがよい。過酷なゲームを共に戦い…お主達に命を預けた…この、勇敢な若者達に』
少しだけ、沈黙があって。
くるっとターンした彼女は、私と睦月さんを交互に見た。
「実は私…睦月に、秘密にしていたことがあるんです」
思わず、睦月さんと顔を見合わせる。
「秘密って…何?」
「私ね…むこうの世界に、将来を誓った人がいるんです」
「将来を…誓った人?」
こくりと頷いて、寂しそうな目で笑う。
「ええ、睦月が文さんを想うように、愛する人が…ね。そうは言っても、長い間行方をくらませていた私のこと…彼が待っていてくれる保証は…ありませんけど」
「そんなこと…ないわ!絶対彼は、あなたのこと…」
思わず叫ぶ私に、そうですよね!と楽しそうに答える、シルフィード。
「彼にずっと会えなくて、辛くて寂しかったけど………でも」
睦月さんを見つめ、静かに言う。
「だからこそ…『愛する人にもう一度会いたい』というあなたの願い、叶えてあげたかったんです」
「…シルフィード」
「会わせてあげることが出来て………本当に良かった」
「ありがとう…シルフィード」
睦月さんは目を細めて微笑み、握手を求めるように、右手を彼女の前に差し出した。
そんな彼の仕草に、肩をすぼめてくすっと笑うと。
シルフィードは、ふいに私の手を取り。
その手を、睦月さんの手の上にふっ…と、重ねる。
そして、二つの手の上に自分の手を重ね…
「この手…絶対に、離さないでくださいね」
冷たくて白い、シルフィードの手。
「たとえこの先どんなことがあったとしても…だって、二人は長い長い時を経て、やっとここで出逢うことが出来たのですから」
誓いの言葉を告げる神父のように、厳かな口調で彼女は言って。
さよなら…と、微笑み。
光の扉へと…消えていった。
ようやく陽の光を浴び始めた…静かな都会の街並み。
歩いているのは…
私と睦月さん…二人だけ。
『私、水月と帰るからさ』
すずは、そんな風にいたずらっぽく笑って、手を振っていなくなってしまった。
明るくなってきた街の中で…
すらりとした睦月さんの姿は、はっきり言ってとても目立つ。
今はまだ明け方で、誰もいないからいいものの…
誰かに見られたらどうしよう。
何の話をしたらいいんだろう。
さっきまで、あんなに普通に話せてたのに…
不安や迷いや恥ずかしさや…色んな想いが頭をめぐる。
睦月さんも…もしかしたら、私と同じ気持ちなのかもしれない。
アスファルトの道を、まっすぐ前を見て、黙々と歩いていた。
こんなに大きな街の真ん中を歩くことなんて、実は滅多に無いけれど…
朝霞に白む街並みは、まるで別の世界みたいに思えた。
私達が住んでいるのとも、シルフィードが帰って行ったのとも…違う世界。
空想していたら………不意に、怖くなった。
私は本当に、彼と一生一緒にいられるのだろうか。
また…離れ離れになってしまったら。
それに。
たとえ、遠い昔の記憶があったとしても…私はずっと、彼を愛し続けられるのだろうか。
それに………睦月さんは?
私は、本当は…聖女なんかじゃないのだ。
私のことを知っていくうちに、彼は幻滅してしまうかも知れない。
そんなことになったら………
急に冷たい風が吹きつけて、小さく身震いする。
と………
視界の隅に映ったもの。
それは………
大きな大きな、クリスマスツリー。
深い緑の木を覆う金銀の飾りは、朝日を受けて…きらきら輝いていた。
「………綺麗」
思わず呟いた私の肩に、そっと置かれる…大きな手。
「本当だね」
睦月さんの優しい声が、冷たくなった体に溶け込んでいく。
「睦月さん………私ね…この景色、前にも見たことがあるような気がするんです」
あれは…いつだっただろう。
確かに見た筈なのに…よく、思い出せない。
けど………
「私…夢だったんです。こんな風に…大好きな人と、クリスマスツリーを眺めるの」
今日は降誕祭で…私の生まれた日。
「この大切な日を、あなたと二人で…過ごしてみたかったんです」
「…そうだね」
目を細めて笑いながら、睦月さんは頷いて。
優しく私を…抱きよせた。
「泣かないで…文ちゃん」
彼の言葉で、初めて…自分が泣いていたことに気づく。
「あ…れ?私………変だな、何で涙なんか…出てくるんだろ」
「しょうがないなぁ…」
慌てて目をこする私を見て、彼が困ったみたいに笑うと。
懐かしい気持ちで…胸がいっぱいになった。
「これからは、そんな風に泣かなくていいように…ずっと傍にいるから」
「………本当に?」
「…本当に」
「………これから…ずっと?」
「うん…ずっと」
だから…と、睦月さんは私の顔を覗き込んで。
昔のままの優しい顔で…笑った。
「だから、笑って…文」