12月20日
パイプオルガンの音が、高い天井に厳かに響き渡る。
隣のおばあちゃんがよく通る綺麗なソプラノで、賛美歌を歌っている。
私はあまり歌に自信がないので、それに合わせて口をパクパクさせていた。
こういう時は普通、神様に祈りを捧げるものなんだと思うけど…
私がお祈りの時にいつも思うのは、先に天国に行ってしまった大事な人達のこと。
さよならも言えずに、突然いなくなってしまった…優しかったパパ。
それに…
明るくて活発で、きらきらしていた…親友のひかり。
ひかりが入院していた頃は、毎週ここでお祈りしたものだった。
『ひかりが早く良くなって、ソフトボールの試合に出られますように』って。
私が良い子でいて、一生懸命お祈りすれば、神様は願いを聞き入れてくださるんだって、神父様はおっしゃったけど…どうやら、お願いは神様に届かなかったらしい。
ひかりはすごく良い子だったし、素晴らしい才能を持っていたから、きっと神様は早くお傍に置きたいとお思いになったんだろう…と、仕方がないので考えることにした。
もう…3年も経つのか。
小さかった弟の仁くんも、ひかりが亡くなったのと同じ年になってしまった。
彼はひかりの遺志を受け継いで野球を続けており、中等部の野球部を引退した今も、高等部野球部に混じって毎日練習に励んでいる。
彼がボールを投げている姿を、フェンス越しに見かけることがあるが…
『あれ、ひかり?』と、時々錯覚してしまう。
投球フォームの綺麗だったひかりに叩き込まれたのだろう。仁くんのフォームはひかりによく似ている。それに、ひかりは男の子みたいなショートヘアだったから。
ポジションを訊くと、ピッチャーです!と元気良く答えてくれていた…小学生の頃の彼。
昨日偶然話す機会があって、久しぶりにポジションを尋ねたら、何でもなさそうに『ライトです』と言われた。
『ピッチャーは才能ないんでやめました』…とか。
最近の子は、なんていうか…あっさりしてるんだな。
ひかり、すっごく楽しみにしてたのに。
『仁のコントロールは抜群なんだもん!きっとこれからもっともっといい球投げられるようになって、中学高校でスカウトに注目されて、ドラフトの目玉とか言われてプロ入りして、球界を背負うすっごいピッチャーになるんだから!』
目をきらきら輝かせながら、彼女はよくそんなことを言っていた。
『ひかりは?』
私がそう訊くと、にやりと笑って彼女は言うのだ。
『ソフトボールの代表に選ばれて…オリンピックで金メダルよ』
そんなことを、いつも真顔で言っていた。
仁くんがプロ野球選手になることも、自分が金メダリストになることも、彼女は信じて疑わなかったのだと思う。
まさか突然の病魔に襲われて、その夢が叶わないなんて…
彼女は微塵も考えていなかった。
毎日毎日、彼女はひたすらボールを投げ続けた。
夢に向かって一直線に突っ走る、ひかりはとても眩しかった。
彼女のことを思い出すたび、私は…
『医者になろう』という決心を新たにするのだ。
なんとなく熱っぽいな…と思いながら出かけた教会の帰り道。
だんだん頭が重くなってくるのがわかる。
…風邪かしら。
そういえば、昨夜から少し喉が痛かった。
どうしよう…明日テストなのに。
ただいまーという声は、自分で聞いててもかなりおかしかった。
たまのお休みで、コーヒーを飲みながらテレビを観ていたママが、目を丸くして私を見る。
「文、どうしたの!?顔赤いけど…熱でもあるんじゃないの?」
「…そうかも」
ソファに座らされて、体温計を挟まれる。
熱…38度。
「インフルエンザかしら…大丈夫?」
「んー………多分」
だるくてあまりしゃべりたくない。
背筋がぞぉっと寒くなる。
放っておくと、熱はまだまだ上がりそうな気配だ。
ちょっと待っててね、とママは階段を登り、すずに何か頼みに行った様子。
ぼおっとする頭に…ふとよぎったもの。
昨日の女の人…誰だったんだろう。
綺麗な人だったな………
あれ?ひょっとして私…あの時から熱あったのかもしれないな。
それで…幻覚を見たのかもしれない。
それはそれで、ちょっとがっかりだけど。
「ムツキ…か」
誰なんだろう。
男?それとも女?大人なのか、子供なのか…
その時。
コートのポケットに入っていた携帯がブルブル鳴る。
…メールみたいだ。
タイトルは『ちょっと質問』。
『こういうの、好き?』という文章と共に、添付されていた写真は…
シルバーの華奢なブレスレットだった。
ころんとした正十字のチャームには、小さなジルコニアが散りばめられていて、きらきら輝きを放っている。
そのチャームと一緒にくっついているのは、ハート型のトルコ石。
トルコ石は私の誕生石だが、すずの4月のダイヤモンドなんかと比べるとなんだか地味で、こんなに可愛い誕生石のアクセサリーって、今までに見たことがなかった。
「わぁ…かわいい」
思わずつぶやいて、『好き』と返信する。
熱に浮かされてうつらうつらしていると、ママが私の名前を呼んだ。
ママは薄くお化粧をしてコートを羽織り、車のキーをチャリチャリ言わせている。
「ごめんね、お待たせ。病院行きましょうか」
どうやらママはすずに、休日診療をしている病院を調べさせていたらしい。
すずがリビングの入り口から顔を覗かせて、大丈夫ー?と呼びかけている。
「うん………ありがと」
だるいし寒いし、動きたくないけど…
受験生なんだし、ひどくなる前に治さなくては。
それより何より…せっかくすずが調べてくれたのに、行かないのも申し訳ない。
ぼーっとしたままふらふら立ち上がり、靴を履いていると、向こうの部屋でママがまた何か、すずに頼み事をしているような気配。
えーめんどくさい…とかなんとか…文句を言う声が聞こえる。
思わず顔が緩んでしまう。
すずのそういう素直なところ…実はちょっとだけ、羨ましい。
そういえば。
さっきのメール…何だったんだろう?
携帯を見ようと、ポケットから取り出すが…
「文、行くわよー」
ママの声がして、またポケットにしまう。
変な棒を鼻の奥に突っ込まれて、痛い思いをして調べられてみたものの。
どうやらただのタチの悪い風邪で、大流行中のインフルエンザではなかった。
受験生なんです、早く治さなきゃいけないんです…と嘆願すると、お医者さんは変なにおいのする注射を打ってくれて、少し元気になったような気がした。
「ちょっとお買い物してくるから、待っててね」
暖房を効かせるためにエンジンをかけたままで、ママはそう言って車を降りた。
はぁ…と大きくため息。
冷たい車の窓におでこをくっつけて見上げるショッピングセンターは、サンタの飾りやクリスマスツリーで華やかだ。
行きかう人々も忙しそうで、ちょっとうきうきした様子。
もうすぐクリスマス…というのは、大人も子供もうきうきするものらしい。
私にとって、もうすぐクリスマス…というのは、もうすぐ誕生日…というのと同義だ。
イエス様と同じ日に私が生まれたこと、敬虔なクリスチャンだったパパはとても喜んだらしい。誕生日が来るたび、ママはそんなことを嬉しそうに話す。
私としては、せめてあともう一日遅かったらな…と思う。
すずは誕生日とクリスマス、二回お祝いできるのに、私は一回だけだもの。
プレゼント二つにしてあげようか!?と訊かれたこともあるけど、それも何だか自分が欲張りになったみたいで、一つでいい…と答えたものだった。
彼氏が出来たら…どうだろう。
やっぱり一度に二つお祝いすることになるのかな。
それはちょっと…寂しいかも。
と、ぼんやり考えていたところで…
さっきのメールのことを思い出した。
差出人も確認せずに返信してしまったけど…何だったっけ?
確か、ブレスレットがどうとか…
メールを見て………しまったと思った。
昨夜の…あの人だ。
ドキドキ鼓動が速くなる。
寒気とかではなくて…何だか少し、鳥肌が立つ。
どういうこと?『こういうの、好き?』って…何?
何だか…ものすごく気味が悪い。
「お待たせ…あら?どうしたの…また、具合悪くなった?」
ママが深刻な顔で尋ねるので、何とか笑顔を作って、大丈夫、と答える。
変に心配させてもいけないし…
きっと、昨日と同じ…ただのいたずらだろう。
家でソファに沈み込み、またしばらく、うとうとする。
と…
ただいま!という元気な声と共に、すずが外から帰ってきた。
休みの日に外出なんて、あの子にしては珍しい。
パタパタ走ってきたすずは、にやりと笑って、私の目の前に小さな紙袋を突き出した。
「…なぁに?」
「…なぁに?は、こっちの台詞ですぜ、お姉ちゃん」
………変な子。
見ると、それは若い女の子向けのアクセサリーブランドの袋だ。
袋の中にはリボンのかかった小さな箱と、カード。
カードには『不知火文さま』と書いてあった。
その字………何だかどこかで見覚えがある。
何何!?とママも目を輝かせて私を見つめている。
「彼からのプレゼント!?」
「…そんなんじゃないわよ」
すずがにこにこしていたのは、このことで私を追及するためだったらしい。
「ええー!?そんなんじゃない、じゃなくない!?前にネットで見たことあるけどさぁ、結構高いでしょ、そのブランドのアクセって」
「…そうなの?」
もう、お姉ちゃんとぼけちゃって…とすずは私の肩をぽん、と叩く。
「クリスマスも間近に迫ったこの時期にぃ、アクセサリープレゼントする奴なんてぇ、もうぜーったい彼氏でしょ!常識的に考えて」
「だから…違うってば」
私がドキドキしてるのは…二人が考えている理由とは多分、違う。
「ねえ、見たい見たい!早く開けてよお姉ちゃん!」
「もう、すず!そんなに急かしたら文ちゃん可哀想でしょー!?」
二人とも、この家で初めてのこういうイベントに、目をキラキラさせている。
どうしよう………
でも…開けなきゃ二人に怪しまれるし………
メールの話をしたらきっと…すずにすごい剣幕で怒られるだろうし………
意を決して、私は包みのリボンを引っ張った。
中から出てきたのは…
「わぁ!かわいい!!!」
「トルコ石の…ブレスレット!?」
眩暈を起こしそうになったが…なんとか平静を装うことが出来た。
そう。
それはさっきの携帯メールに写っていた…ブレスレットだったのだ。
差出人の名前はない。
でもカードの端っこには…イニシャルらしき、Mの文字。
Mってまさか……………睦月のM?
ねえねえ、とすずが私の服の袖を引っ張る。
「お姉ちゃん、相手誰なの!?うちの学校の人?同じ学年?同じクラス?ねぇー教えてよお、たった二人だけの姉妹でしょー?」
「………内緒」
寝る、と二人に言い残し、私は足早に階段を登った。
どうしよう。
そんなの決まってる。返さなきゃ。
でも…
どこの誰かもわからないのに、どうやって返したらいいんだろう。
『不知火文さま』というあの字は確かに…付箋紙に書いてあった文字と同じ筆跡だった。
そうだ、すずに相談………
いや、駄目だ。
『バカじゃないの!?何考えんの!?』と…熱でふらふらする頭ですずに怒鳴られたら、私…ショックで死んじゃうかもしれない。
いや、死ぬ…なんて、こんなに軽々しく使っちゃ駄目だわ。
でも………どうしよう。
小さなノックの音。
「お姉ちゃーん夕ごはんだよー…」
心配そうな、すずの声。
「…食べたくなーい」
「なんでぇー?早く治して学校行かないと彼氏も心配するでしょー?」
「だから…彼氏じゃないってばぁ」
「じゃあ…誰なのよMって」
………う。
さすがすず…カードちゃんと見てたのか。
「とりあえず、薬飲まなきゃなんだから、何か食べなさいってママも言ってるよぉ?」
「ごめん………後で食べるから今は寝かして」
少し沈黙するすず。
「わかった、ママにそう言う。なんか欲しかったらメールしてね」
その優しさに…じーんと胸が熱くなった。
大声で呼ぶのは辛いだろうから、同じ家の中だけどメールの方が楽だと思ったのだろう。
前にすずが熱を出して寝込んだ時、同じようなことをしてあげた記憶がある。
『ぽかりのみたい』
変換するのも億劫というのが痛いほど伝わってくるそのメールに、慌てて近くのコンビニに走ったことを思い出した。
メールって、本当に便利だ。
声に出して言えないことも、メールなら言えそうな気がする。
………そうだ。
これがもしいたずらだとしたら…多分、相手のペースに乗っちゃ駄目だ。
でも…一度返信してしまったし、これは絶対に受け取れない。
思い切って…もう一度メールする。
『受け取れません。お返ししたいので、送り先を教えてください』
こんなメールに、返信が来るとは思えない。
でも…いらないっていう意思表示は、はっきりしなくちゃ。
えい!と送信する。
メールは送信されました、の表示を見たら、何だか体の力が抜けて…
すずにも『寝る』って言ったことだし…少し眠ろうと思った。
お嫁に行くことになったの。
そう言うと、彼は驚いた様子で目を大きく見開いた。
領主様のご子息が、私を気に入ってくださったという話、父さんは昨夜、とても嬉しそうに話してくれた。母さんなんか涙ぐんで、よかったねぇと私を抱きしめた。
私が領主様のところへお嫁に行けば、父さんも母さんも楽になるのだ。
沢山いる妹や弟達も、おなかを空かせて泣くことはない。
そう思ったら…嫌だなんて、言える訳もなかった。
どんな人なの?と、彼は感情の無い目で私に尋ねる。
領主様のお屋敷は遠くにあって、私はその人に会ったことがない。
でも、とっても良い方なんですって…と、私も他人事みたいに答えた。
そうか…とつぶやいて、彼は空を見上げたまま黙り込んでしまう。
その沈黙に………圧しつぶされそうだった。
いつ?と…彼は沈黙をやぶって、もう一度尋ねる。
急な話なんだけど、年明けまで待てないっておっしゃるものだから…と、父さんは困ったように笑って言っていた。
5日後。なんだか、日が良いんですって。
そうか、という彼のつぶやきは…消え入りそうな声だった。
でも…その日なら私も光栄だわ。だって降誕祭の日ですもの。救世主様が祝福してくださるわ、きっと。
そんな風に…自分に言い聞かせるように、話した。
黙って私を見つめる彼の瞳は…本当に悲しそうだった。
そんな顔しないで、となんとか微笑んでみせたけど…
ごめんね。
『大きくなったらお嫁さんになる』って…約束したのに。
守れなくて…本当にごめんね。
着信音にしていた『We wish you a merry Christmas』が鳴り響き、びっくりして起き上がった時、私は何故か涙を流していた。
心臓の鼓動が速い。
変な夢………
携帯のディスプレイを見て…心臓が止まるかと思った。
………あの人だ。
電話………どうしよう。
すずに………
でも…あんなに強気でも、やっぱりすずは女の子だもん。
こういう時、やっぱりパパがいて欲しかったと強く思う。
携帯電話は暢気にクリスマスソングを奏で続けている。
出ないと…ママからもすずからも、怪しまれるかもしれない。
いや、出ないで切ればいいんだけど…でも………
覚悟を決めて…通話ボタンを押す。
「あの、私…郵便受け見ました、ありがとうございました!でも、知らない人からあんな高価なもの、貰うわけにはいかないので、お返ししたいんですけど、どうしたらよろしいでしょうか!?」
電話の向こうの人物は黙ったままで、早口でまくし立てる私の声を聴いているようだ。
「さっきのメール…私実は熱がありまして、ぼーっとしてて、誰か友達から来たメールかと思ってうっかり返信しちゃったんです!他意はないんです本当に…ですから…ごめんなさい、このブレスレットはお返しします!一回もつけてないし、箱からも出してないので、返品もきくと思います、ですから…」
『熱があるというのは…お風邪を召されているのですか?』
どきんと心臓が高鳴る。
忘れる筈もない。この前の…ブロンドの綺麗な女の人の声だ。
「えっと…でも…もう、大丈夫です!インフルエンザじゃなかったですし…」
知らない人に私…何言ってるんだろう。
インフルエンザって何です?と誰かに聞いているみたいな声がして、彼女はまた、私に向かって優しい声で話しだした。
『そのブレスレット、どうかお気になさらず受け取ってください。サンタクロースからのプレゼントだと思って…と、申しておりますので』
「申しておりますって………その…『睦月さん』ですか?」
まるで…旦那様か何かみたいな言い方。
おじさんなのかな?睦月さんて…
ええ、とその女性は、少し嬉しそうな声を出す。
『睦月がそう申しておりますので、どうかお納めください』
「でも………あの」
この人…こんなに口調が丁寧なのは、怒ってるからなのかな、と思ったけど…違うのかな。
「私、その…『睦月さん』とは会ったこともないですし、援交とかでは決して無いので…」
『えんこうって…何ですか?』
「いえっ…あのっ…」
外国の人だから、そんな事言ってもわかんないのか。
「とにかく、睦月さんとは全然関係ありませんから!もうこういうこと、しないでくださいって伝えてください!」
受け取ってくださいって…言うならちゃんと、自分で言えばいいのに…
この国のことよく分からない奥さんに言わせるなんて…一体どういうつもりなんだろう。
そんな風に思うと…だんだん腹が立ってきた。
『そういう訳には参りません』
彼女は穏やかな口調で、しかしきっぱりと言い放つ。
『睦月はあなたのこと、心から想っているのですから…今はお会いすることは叶いませんが、必ず近いうちに、あなたに会いに行くと申しておりますから』
「何言ってるんですか!?奥さんはそれでいいんですか!?」
『………は?』
「あなたがお分かりにならないなら、それでもいいです!とにかく睦月さんには、私はあなたと会う気はありませんし、あなたのこと好きでも何でもないので、こういうの迷惑なんですって伝えてくださればわかりますから!!!」
その時。
電話の向こうで…男の人の笑い声が聞こえた。
なんだか、すっごく聞き覚えがあるみたいな…その笑い声。
『何か…誤解があるようですね』
彼女も少し笑いながら言う。
かあっと顔が…余計に、熱くなる。
『私は…そういう者ではございませんから、どうかご安心ください』
「ご安心って…だから私はっ」
『お見舞いに伺っても、よろしいですか?』
…お見舞い???
そうか。あんな物届けられるくらいだもの、住所まで調べられちゃってるってことか。
『何か…召し上がりたい物、ありませんか?』
「………そんなことしてもらっても困ります」
何なんだ…この人。
「それに…うちに来ても、多分………母や妹に追い返されますよ?」
全面的に拒否する私にお構いなしで、彼女はまた『睦月さん』と何か話している気配。
『…チョコレートは、お好きですか?』
「………好きですけど」
相手のペースに乗せられて、思わず答えてしまう…自分がとても情けない。
『でしたら、持って参ります…本当に申し訳ないのですが、睦月はちょっと手が離せませんので…私が』
「あの…さっきも言いましたけど、うちに来ても母が」
『それでしたら…あなたのお部屋に直接、伺いますから』
………は?
『三十分以内には参ります…どうか、驚かないでくださいね』
ぼんやりした頭を…色々なことがぐるぐる回る。
何だろう………部屋に直接って。
また…これもいたずら?
あの人達…私をからかって喜んでるんじゃないだろうか?
…チョコレートか。
KEIくん、チョコレート好きって言ってたな。
『最近流行のスイーツ男子!』と、自分で言って笑ってた。
外国の、とあるメーカーのチョコレートが好きだって雑誌で読んで…わざわざお洒落なそのショップまで買いに走ったことがある。
高いチョコレートなんて、ママがお仕事の関係で貰ってくる以外は食べたことがないので、味がよく分からなくて………当然、すずにも馬鹿にされた。
………あ、そうだ。
すずに………躊躇ったけど、メールでお願いをする。
言いにくいこともさらっと送信出来るから、メールって本当に便利だ。
KEIくんが夕方のラジオにゲスト出演するの…忘れてたのだ。
『ラジオ録音してください。よろしくお願いしますm(__)m』と出来るだけ丁寧に。
返信はすぐに来た。
『ばかじゃないの?』
………ぐさっ。
でも…すずは優しいから、何だかんだ言ってやってくれると思う。
携帯の時計を見る。
さっきの電話が切れてから…三十分はとうに経過していた。
なんだ、やっぱりいたずらじゃない。
ほっとしたら体の力が抜けて…なんだか眠くなってきた。
また変な夢見たらやだけど…ちょっと寝よう。
そう思って布団に潜り込んだ…その時だった。
「文さん?」
どきっとして、布団を一気に跳ね除ける。
「…あ………」
目の前に立っていたのは…
昨日ムービーで見たのと同じ…ブロンドの女性だった。
「あ…あなた…一体どこから………?」
彼女はにっこり微笑んで、ガラス張りの窓を指差す。
鍵は…掛かったままなのに。
「どう…やって?」
「申し遅れましたが」
彼女は外国の貴婦人みたいに、長いスカートの裾をつまんで、微笑みながらお辞儀する。
「私…風の精霊の、シルフィードと申します」
「かっ………風の………精霊!?」
あまりにびっくりして、言葉が上手く出てこない。
「そんなもの…本当に…いるわけが」
『妖精を見たことがあるの』
その時ふっ…と、ひかりが言っていた言葉が頭をよぎった。
秘密を教えてあげる、と誰もいない教室で、もったいぶったひそひそ声で。
『銀色の肩くらいまでの髪の、青い瞳の女の子。私ね、近くの神社で小さい頃見たの』
乙女チックな趣味とは無縁だった彼女が、目を輝かせながら教えてくれた、その話。
からかっているにしては…ひかりは妙に真剣だった。
思わず…
「私の友達が………妖精なら見たことあるって言ってたけど………」
「妖精?」
優しく尋ねられ…つい、その容姿の話をしてしまう。
彼女は上等な鈴みたいな声で笑って、それは、と人差し指を唇に当てた。
「妖精ではなくて…それはおそらく、水の精霊でしょう」
「あなたの………仲間なの?」
「ええまぁ…そのようなものですね」
なんて非科学的な話をしてるんだろう。
きっと…また夢を見てるんだわ。
熱もまだ下がらないことだし………
そういえば…お腹すいたな。
彼女は急に黙り込んだ私を心配そうに見て、そうそう、とまた穏やかに微笑む。
「お渡しするのを忘れておりました」
「あっ…あのっ、お渡し…じゃなくて、本当にこのブレスレット、持って帰って欲しいんですけど………」
仮に彼女が本物の精霊だとして…だ。
こんな物買うお金…一体どこで手に入れたんだろう?
睦月って人は…精霊と一緒にいるとかって…一体何者なんだろう?
「いえ、受け取っていただきます」
きっぱり言い放つ彼女の笑顔には…こちらが拒否することを拒むような強さがあった。
駄目です、持って帰ってください!と………言いたかったけど言えなかった。
彼女は幅の広い袖から小さな包みを取り出し、私に差し出す。
赤の包み紙に緑のリボンが掛かった…その包みは、間違いなくチョコレートだった。
しかも…
「あの………」
「何でしょう?」
私が素直に受け取りそうなのがよほど嬉しいのか、彼女ははしゃいだ様子で聞き返す。
「何で…このメーカーのチョコ…私が好きだって分かったんですか?」
「あら…そうでしたか」
これ…KEIくんが好きって言ってたチョコレートじゃない。
「存知あげませんでしたけど、それは幸いです…受け取ってくださいますね?」
「……………」
これはもう…
頷くしかない。
その時、乱暴にドアをノックする音が響き渡った。
「お姉ちゃん!ごめん!トラブル発生!!!」
「え!?…ちょ…ちょっと待って!!!」
動揺する私を見て、彼女はまた、静かに微笑んだ。
「では…私はこれで」
「………待ってください!」
窓の前に立つ彼女は、振り返って私を見つめる。
勇気を振り絞って…尋ねる。
「睦月さんて…どんな人なんですか?何で私に…こんなことしてくださるんですか?」
「睦月は…ゲームにおける私のパートナーであり、ゲームのプレイヤーです」
「ゲーム………?」
何…それ?
彼女はくるりとまた、窓の方に向き直る。
「またいずれ…ちゃんとご説明にあがります」
「あの、待って…」
「それと、睦月のことですが………あなたは睦月のこと…よくご存知のはずです」
そう言って彼女は…
窓ガラスをすうっと通り抜けた。
思わず…息を呑む。
あっという間にシルフィードの体は…暗い夜空に溶けて消えた。