◆3 決行は今夜。異議はないわね?
「浮気なんです」
この世の終わり、という風情のエイラが地を這うような声で言った。
仕切り直しのティータイム。
どうにかこうにか落ちつきを取り戻したエイラを宥めすかして座らせて、ようやく発した最初の言葉がこれである。
晴れやかな青空から降り注ぐ明るい陽光もなんのその。
彼女の周囲半径1mには、闇よりもなお深い闇が渦巻いている。
…いや、もちろんほんとにもくもくと闇が湧いてるわけじゃないけど。
こう、なんていうの?
どす黒いオーラっていうか、なんていうか…。
その威力と言ったら、庭にさっきまで聞こえていた小鳥のさえずりがぱたりと途絶える程。
こっちまで気が滅入りそうな表情で、白いテーブルの一点を見つめる彼女の正面。
「…」
優雅に椅子に腰かけながら、ティーカップ片手に頷くでもなく聞いているのはアル。
実に美味そうに、私のいれた紅茶を味わっていたりする。
…聞く気はあるのか、この男。
ていうか、なんであんたがそこに座ってんのよ?
思わず心中でつっこみを入れるも、この雰囲気の前ではとてもじゃないが言葉にはできない。
2つある椅子は、エイラとアルに占領され。
2つのティーカップはそれぞれアルとエイラのもとにある。
そのティーカップに紅茶を注いだ私は、といえば。
お察しの通りテーブルの脇に所在なげに突っ立っているわけで。
…これって、間違ってるわよねぇ?
曲がりなりにも、私のティータイムなのよ?
エイラは仕方ないとしても、なんでお邪魔虫であるアルが、椅子に座って寛いでんのよ。
黒い艶やかな髪が作り出す頭頂のつむじを見下ろしながら、心の中で悪態をつく。
見下ろす視線は自然、半眼になり。
「浮気、してるに決まってます」
ぽつり、沈みこむようなエイラの声で、私は現実に引き戻された。
はわ。
だめだめ、思わず心の中でアルに罵詈雑言のスペシャルフルコースをお見舞いするところだったわ。
ティータイムは、エイラのお悩み相談タイムと化している。
家臣の悩みは主君の悩み、ってね。
気を取り直して、私はエイラへと視線を向けた。
…う。
密度の濃い闇に反射的に引きつつも、話の続きを促す私。
「と、いうのは…?」
彼女の顔が僅かに上がって、見下ろしている私と視線が合う。
泣いたために腫れた大きな瞳が、さらにうるりと潤んで私に向けられた。
「ここ数日、毎晩のように、彼ったらベッドを抜け出して…」
「二人はすでに一緒に住んでるんだ」
ズズ、と紅茶を啜る音とともに間延びしたアルの一言。
…いやいやいや。
そこ、突っ込むトコロじゃないから。
「朝になったら戻ってくるんですけど。だけど、私に一言もなく夜な夜な出掛けていくなんて…」
アルの一言をきっぱりすっぱり見事に聞き流して彼女。
そこまで話すと感極まったように両手で顔を覆う。
「浮気っ!浮気だわっ!!そうに違いないわっ!!!そうでしょう、お嬢様!?」
もはや、『そうと言って、お嬢様!!』のノリである。
思わず迫力に圧倒されて「そうね」と滑りかけた口を慌てて封じる。
「え、ええ…と。…その、彼にはちゃんと聞いてみたの?」
エイラの様子を伺いながら、なるべく彼女の感情の起伏を乱さないよう尋ねてみる。
キ、と覆っていた顔を上げた彼女。
「ええ、聞きましたわ!もちろん、聞きましたとも!!」
…試みは見事失敗したようだ。
「そうしたら、彼、何て答えたと思います!?」
「さ、さあ…」
想像もつきません、はい。
「あろうことか、堂々とこう言ったんです!」
そう言うと彼女、突如へら、と笑ってひらひらと片手を振って見せた。
「『何言ってるんだよ、エイラ。僕はずっと寝てたじゃないか。寝惚けてるのかい?』」
「…上手いね、エイラ」
見事な再現に、アルが口を挟む。
再び聞き流されるかに思われた一言に、しかしエイラはまだ張り付いた『へら』顔のまま、「どうも」と一礼してから私に向き直った。
「どう思います、お嬢様!」
…いや、どうと言われましても…。
いつもとは違うエイラに、私は完全に気迫負けしている。
とにかく、落ちついてくれると助かりますです、はい。
黙っていると、エイラが地団駄を踏みそうな勢いで口を開いた。
「言う事かいて、寝惚けてるのかい、ですよ!言い訳するならまだしも、ここまでコケにされたら黙ってられませんっ」
「…で、どうしたの」
恐る恐る、聞いてみる。
エイラはぐ、と拳を握ってガッツポーズをとった。
「叩いてきました」
殴ってきました、の間違いじゃ…。
妙な気迫に、僅かばかり見知らぬ彼氏サンに同情する。
途端、急に風船が萎んだように萎縮した彼女が、覇気を失った声で続けた。
「…でも、モヤモヤは取れません。どうして寝てたなんて嘘をつくのか…」
エイラの中で、彼の浮気疑惑はすでに確信となっているらしい。
「もう彼のことばかり考えてしまって、何も手につかなくて…」
俯きながらそう付け加えた彼女に、私は一つ嘆息した。
今日の失態はそれでだったのかしら。
エイラにしては、珍しいとは思ったけれど…。
「それで、彼は毎晩、ドコへ行ってるんだい?」
どんよりムードを突っ切って、ことさらのんびりとアルの声が響いた。
視線を移せば、いつの間にやらスコーンを片手にアルがエイラを見ている。
…人のスコーンまで食べるんかい。
顔を上げたエイラが、小さく首を振る。
分からない、と返ってくるかと思いきや。
「それが…、途中で撒かれてしまって」
…つけたわけね。
「いつも同じ場所で見失うんです」
しかも、何回も。
「毎晩の事で、ここ3日間、ろくに寝てなくて…。今日なんて、立ったまま寝ちゃえたくらいで」
……。
……つまり。
………私のティーポットは、その犠牲になったってわけね…?
「分かったわ、エイラ」
私は僅かに口許を引き攣らせながら、吐息とともに口を開いた。
「あなた、今日はちゃんと寝てなさい」
このままだと、近い内に私のティーセットは壊滅だ。
え?と顔を上げたエイラが口を挟むより早く、私は腕を組んで彼女を見下ろした。
「彼が何処に行っているのか、確かめればいいんでしょう?」
「お嬢様」
大きな茶色の瞳が私を見上げて瞬いた。
私は一つ頷くと、スコーン片手に茶を啜っているアルを見下ろす。
「決行は今夜。異議はないわね?アル」
言い放つと、チラ、とアルがこちらを見上げた。
「…どうしてそこで僕の名前が」
「何言ってんのよ。あんた、こんなに可憐極まりない、かけがえのない大事な幼馴染の私を、たった一人で夜中の街に送り出すつもり?」
片眉を上げて私。
「…修飾語に多大な誤りが含まれてる気がするね」
「あら、ごめんあそばせ。『美しくも儚げな、例えようもなく大切な幼馴染』の私に、あんた、まさか一人で尾行しろ、なんて言わないわよね」
にっこり笑顔で言いなおした私に、アルは興味なさそうに視線を外すと、一つスコーンを齧った。
…溜息が聞こえた気がするのは、私の幻聴に違いない。
かくして、私とアルの、即席探偵ズが出来上がり。
初の仕事はいざ今夜。
我がティーセット壊滅の危機を救うため、エイラの期待を一身に受け。
そうして、夜は更けていったのでありました。