◆32 何か、とてつもなく、嫌な――…
「おや、覚えていてくださったんですか」
至極光栄、と姿勢を正して一礼する姿には敵意は感じられず、むしろ和やかな雰囲気すら纏っている。
のんびりとドアの枠に肩を凭せ掛けているウィングは、こちらを警戒すらしていないのか、その両腕を組んで余裕たっぷりに私達を見回した。
柔和な笑みを湛えるその眼差しがフレアを捉えて、ほんの僅か細められる。
私は小さく喉を鳴らした。
油断しているようにも見えるその仕草に、だけど私は隙を見つける事ができない。
…嫌な感じだ。
入り口を塞いで立つウィングの姿は、私達を部屋から一歩たりとも出すまいとしているように感じられる。
――まずいわね。
そりゃ、狙われてるのはね、分かってたのよ。
ええ、分かってましたとも。
いつかは再襲撃もくるとは思ってたけど…、だけど。だけどね?
なにも、こんな時に来なくてもいいんじゃない…!?
何にしろ、状況がよろしくない。
ただでさえ、非戦闘員ばかりの中に、もう一人。
悠々とこちらを眺めているウィングの動きに細心の注意を払いながら、私はちらりとカノーマー司教を伺った。
「…君たちは」
本能的にか、フレアを己の方へと引き寄せながら、司教が険しい面持ちでウィングを凝視する。
…当然、非戦闘員な上に、ロイヤルちっくなお方まで混じっている今現在。
何も狙い済ましたように今襲ってこなくても…。
状況そっちのけで、思わず悲嘆に暮れそうになる。
くしくもココは教会。
ねえ神様、私一人で、どうしろってのよ…?
思いつつも、私の手は腰元のレイピアの柄を握る。
…いざとなれば、やるしかないのは明白だ。
「護衛の兵がいたはずだが…」
司教の低い声が警戒を含んで問うのに、ひょいとウィングが肩を竦める。
ギ、と木のドアが軋んでさらに開くその床上、いずれも王国警備兵の服装をした男が数人、手足を伸ばしてぐったりと倒れていた。
ひゅ、と背後でエイラが小さく息を呑む。
「大丈夫、殺しちゃいません。これでも余計な殺生はしないように心がけてるんですよ?」
柔らかな笑みのまま、軽いノリで小首を傾げるウィング。
「……」
フレアを庇って、背後に後ずさろうとする司教の動きを、しかし、ウィングは片手を持ち上げるだけで制してしまった。
「ああ、動かないで下さいね」
ほんの僅か低くなるトーン。
ピリピリと、肌を刺すような空気が室内に満ちる。
蛇に睨まれた蛙の心境を、身をもって感じる今この瞬間、である。
息が詰まりそうになるのを、そのまま息を潜めることでやり過ごした。
「言ったでしょう。余計な殺生は好まないと。…大人しく、そちらの少女を渡してさえ下されば、貴方達に手出しはしません」
ちらり、ウィングの視線が私を捉える。
そのままにっこりと親しい人にでも投げかけるような笑みが向けられた。
やはり間延びした声が、楽しそうに私に語りかける。
「――二度目ですねぇ、この台詞」
「…もうちょっと、捻りのある台詞は言えないわけ?」
強がりだと分かっていつつも、私は口角を持ち上げた。
愉快そうに、ウィングの肩先が揺れる。
「残念ながら。…この条件を飲んでもらえないとなると、こちらとしても手間がかかって困るんですよ。そちらの司教さんには手出ししないよう、上から言われているもんでねぇ」
「……」
無言でフレアを引き寄せる司教が、取引に応じる様子は微塵もない。
怯えた様子の少女が、カノーマー司教にぴたりと身を寄せて赤い瞳でウィングを見遣った。
視界の端にその様子を捉えながら、私は目を細くしてさらに笑みを深めてみせる。
「こないだと、返答も同じみたいね」
柄を握り締める手が、汗ばむ。
口調だけはしごく落ち着き払って、私はウィングを伺った。
背後にエイラ、テーブル上にはふにふにズ、その向かいには司教とフレア。
…守るには、ウィングを彼らに近付かせるわけにはいかない。
間合いを詰めようと、私は相手を伺う。
ほんの僅かな隙でもいい、飛び込んで、ウィングの足さえ止められれば活路は開かれるはずだ。
私の様子をどこか面白そうに眺めるウィングは、その両手を緩く組んだまま、戦闘態勢すら取ってはいない。
だけど、この威圧感は本物だ。
ふいに、こちらを見つめていたウィングの口元が歪んだ。
「――後ろがガラ空きですよ、お嬢さん」
言うと同時、背後で微かな音がして、
「おいこら!バラすなよな、ウィング」
どこかむくれたような、不満満載な声が室内へと飛び込んできた。
「――!!」
全員の視線が一瞬でそちらを向く。
ドアと対面する四角い窓、これまたいつの間に開いたのか、大きく両側に開かれたその窓枠に、小柄な少年が腰を下ろしていた。
枯れ木のように細い両足が、ぶらぶらと窓の下で揺れている。
薄汚いとまではいかないまでも、小奇麗だとは言い難い、布を張り合わせたようなくすんだ色の服を身に纏い、短い黒髪はツンツンと短く上を向いている。
その勝気そうな黒い瞳は、私達を通り越してウィングへと向けられていた。
「人がせっかく苦労してこっそり侵入したってのに…」
「遅かったじゃないか、ラグウ」
少年は、ウィングのからかう様な響きの言葉に、あからさまに不機嫌な表情を浮かべる。
「うっせぇ。わらわらわらわら、護衛の兵が湧いてくるもんだから、手間取ったんだよ」
背後を顎でしゃくるようにして言うラグウの姿に、私は僅か眉間に皺を寄せた。
――絶体絶命。
前門の虎、後門の竜。
…ラグウが竜かどうかはこの際置いておいて…。
両側を敵に囲まれて、私達は袋の鼠。
窮鼠猫を噛む、とはいえ、虎やら竜やらに果たして鼠が噛み付くのがどれ程のダメージを与えられるものだろう。
一見のんびりと言葉を交わしているように見える彼らには、だけど、驚く程に隙がないのだ。
神経は、一部の隙も無く張り付くようにこちらに向けられている。
背筋を、嫌な汗が伝っていった。
「…それにしても」
ゆっくりと、ラグウから外された視線が司教とフレアを見つめ、ふにふにズを眺め、そうして私へと向けられる。
私は乾いた唇を小さく噛み締めた。
どこか困ったように、しかし演技がかった仕草で、ウィングの手がこめかみに宛てられる。
「どうしてまた、ココ、なんですかねぇ…?」
「……?」
私に向けて言われたらしい言葉の意味が分からずに、私は眉を潜める。
ウィングの表情から、潮が引くように笑みが消えていく。
「何がしたいんです、貴方達は――」
「ほんっと、いい迷惑だよなぁ」
重なるように聞こえてくる声は背後から。
ひょい、と軽い動作で窓枠から室内へと着地して、首をこきこきと鳴らす。
「おかげで余計にやりにくくなっちまったじゃん」
呆れたように細められたその生意気そうな瞳は、真っ直ぐに司教へと向けられていた。
……何?
彼らの言っている意味が、分からない。
「…どういう、コトよ?」
思わず問い掛けた私に、ウィングは一瞥をくれることもなく、視線を司教へと向けた。
その瞳が、スゥ、と狭まる。
「……」
怯えるかと思われたカノーマー司教は、しかし、表情が消えうせた人形のようにその場に悠然と立ち尽くしていた。
まるで、彫刻のように、無機質なその表情。
「…カノーマー、司教…?」
異様な雰囲気に、思わず呼びかけた私に、司教の瞳がゆっくりとこちらを見る。
感情の読み取れない、その瞳。
知らず、鼓動が早まる。
何だろう…。
何か、とてつもなく、嫌な――…。
「私達の仕事はね、そこの少女の捕獲なんですよ」
す、と差し出されたウィングの手には、いつ取り出したのか細身のナイフが握られている。
その切っ先が向けられる先は、私ではなく、司教だ。
「で、その折、絶対に彼女を渡してはならないとされていたのが――」
全員の視線が、司教へと集まって。
――――…!!!!
一瞬、何が起こったのかが分からない。
突風が、室内に吹き荒れた。
花瓶が吹き飛び、チェストが倒れ、珈琲カップが天井にぶち当たって破片が降り注ぐ。
目も開けていられないほどの暴風が、室内を駆け巡る。
轟音が聴覚を奪い去り、エイラの高い悲鳴が途中で掻き消える。
ともすれば、体さえ浮き上がりそうなのに、反射的に床へと突っ伏し。
その瞬間、やけにクリアになった風の切れ目に、私は見を瞠った。
冷酷に細められた、蒼い双眸。
白い服をはためかせ、足元から渦巻く風を纏う、その姿を。
振り下ろされるその手の先に、風に揉まれた少女の軽い身体が枯れ草のごとく宙を舞う。
腕が少女に触れるかと思われた瞬間、彼女の身体が弾かれたように吹き飛ばされた。
「……っ!!!」
目を見開いたままでいることは許されない。
容赦なく吹き付ける風に、私はきつく目を瞑る。
誰が、どうなっているのかも分からない。
風が轟く合間に聞こえてくるのは、悲鳴なのか、何かが割れる音なのか。
吹き暴れる風の猛威。
私が出来ることは、ただ、床に這い蹲る事だけだった――