◆31 聞き覚えがある、この声は
立ち上がる私の動きに視線を上げた司教と目が合う。
ようやく場の状況に気付いたらしく、カノーマー司教が慌てた様子で立ち上がった。
「すいません、長くお待たせしてしまった上に…」
その長衣にしっかりとしがみつくフレアの肩を抱くようにしながら、申し訳なさそうにそう言う彼の姿は、やはりどこか砕けた感じだ。
一心にそんな彼を見上げているフレアの様子に、私は小さく笑いながら首を振る。
「いいえ」
私の言葉に笑みを浮かべた彼の瞳が、私とエイラから自然とその横に移る。
そこには、浮遊するふにふにズ。
ふに男の水色の体が、挨拶するように小さく揺れた。
「お久しぶり…じゃのう、マスター」
ピクシーから漏れた渋い声に、司教の瞳が再び見開かれた。
「――…驚いたな。喋れるのか、君たちは」
「研究所では、無害で無能なピクシーを演じておりましたの」
高い声が響いて、司教の瞳がふに子を映す。
そのまま、彼は小さく肩を揺らして朗らかに笑い出した。
「…参ったな、私達はすっかり騙されていたらしいね。――という事は、フレアがいなくなったのも、君たちの仕業かな?」
苦笑交じりに軽く眉を上げてそう言う司教の様子は、どことなく楽しんでいるようでもあった。フレアを伴って私達の前までやってくると、腰掛けるよう促してその手が動く。
先に座った私達を見回してから、司教は正面のソファにゆっくりと腰を下ろした。
その隣、フレアがぴたりと寄り添って腰掛ける。
「まずは、フレアをこうして無事に私のもとへと連れて来ていただいた事、感謝します」
私とエイラを見て、司教が優雅に頭を下げた。
それだけの仕草が、彼にかかると何故かサマになる。
隣で卒倒しそうな表情のエイラを他所に、私は首を振った。
「この子達のご希望通りに動いただけよ」
自然、口調は砕けたものになる。
私の視線の先、ふにふにズの身体がふわりと舞い降りてテーブル上に落ち着いた。
それを見届けてから、私は正面の司教へと視線を戻す。
ほんの少し、その目を細くした。
「ただ――」
「ただ…?」
言いながら、カノーマー司教の様子を伺う。
「追っ手らしき奴らには襲われたわ」
そう告げた私の言葉に、司教の表情が眼に見えて曇った。
「…そう…でしょうね」
頷く彼の蒼い瞳は伏せられて、愛しそうに傍らのフレアを見つめる。
どうやら知ってはいたらしい。
ゆっくりと上がってきた司教の視線と再び目が合う。
「――私の捜索の手が追いつかぬ内に、奴らの手の者がフレアを見つけてしまった、という事ですね。可能性は考えていましたが、私の不手際です」
優しい手つきで、司教の手がフレアの髪を梳く。
「怖い思いをさせたでしょう」
申し訳ありませんでした、とこちらを見つめる瞳は真摯な光に満ちていて、私は即座に首を横に振った。
カマをかけてみたんだけど…、こうこられると逆に居心地が悪いわね。
…そりゃ、この人なら大丈夫だとは思ったけどね?
だけど、私達が襲われたのは事実。
ふにふにズが頼りにする司教は、その間何をしてたんだろう、とか、思うわけよ。
で、ちょっくら反応を見るために言ってみたんだけど…。
彼の返答からすれば、一応彼もフレア捜索の手は出していたみたいだし。
研究所内での彼の位置がさっぱり分からない私には、判断材料も乏しいけれど。
どうやら司教が「奴ら」と呼ぶ存在がいるようで。
「君たちも、フレアを守ってくれてありがとう」
司教の柔らかな瞳が、テーブル上に落ち着いたピクシーへと向けられた。
そのまま、軽く首が傾げられる。
「あの後…、君たちがフレアと共に消えてから今まで、どうしていたんだい?」
その瞳が、再びフレアの上へと落ちた。
「君たちはまだしも、フレアはこの街中では辛かったんじゃないかな…?」
「生体エネルギーの吸収、ですわ」
「…ほんの僅かづつじゃが、ある人から生体エネルギーを分けてもらっておったんじゃ」
話を聞いていた司教の表情が僅かばかり険しくなる。
「生体エネルギーの…。それは、もしかして…」
「フレアの能力ですわ」
「…じゃあ、研究所でのあの事件は――」
言いかけた司教の言葉を、ふに男が頷きとともに引き継いだ。
「そうじゃ。フレアの能力が暴走した結果じゃな」
司教の視線がふにふにズとフレアの間をゆっくりと行き来する。
その隣、フレアが頼り切った表情で、カノーマー司教の横顔を見上げている。
「――なるほど。それじゃあ、その生体エネルギーを分けてくれていたというのが…」
こちらを見る司教に、私は慌てて首を振った。
「ああ…、私達じゃなくて」
「わ、私の、彼、彼です」
緊張のあまりか、どもりながらエイラが自分を指差す。
その顔はゆでだこのように真っ赤だ。
エイラの声に頷いて、水色の身体がふわりと浮き上がった。
「わしらの能力で研究所を抜け出してから…、思った以上にフレアの衰弱が激しくての。道端で身動きが取れなくなってしまったんじゃよ。人通りも少なくての、もう駄目かと思ったところに…」
「偶然通りかかって下さったのが、『エイラさんの彼』さんですわ」
言ったふに子に、ふに男が一つ身体を揺らして先を続ける。
「声を掛けてくれたその青年から、わしらの監視のもとで、フレアに生体エネルギーを吸収させたんじゃ。もちろん、彼に支障がない程度にの。…じゃが、そんなものは一時凌ぎにすぎん。そこでわしらは、その青年から定期的に生体エネルギーを頂くことを考えた」
「私たちも、その場に留まっている訳にはいきませんもの。近くにあった樹木の力を借りて、転送のサークルを描いた後、彼に毎晩そこまでやってくるよう暗示をかけましたの」
まさかああまで上手く掛かってくださるとは思いませんでしたけど、とコロコロ笑うふに子。
今明かされる事実。
…てことは何。
ルクスを操ってたのも、この子達だったってわけなのね?
――無害な顔して、案外やるわね、ふにふにズ。
妙なところで感心している私をさておいて、話は進む。
「わしらは、とにかく、自然エネルギーの高い場所に移動する必要があったんでな。即座に付近で最も自然エネルギーの高い所まで跳んだんじゃよ」
つまり、それが王宮の森の園だったと。
最も自然がある場所が、人口の森ってのが悲しいけれど。
横で話を聞きながら、話の経緯を確認していく。
「そのままそこで息を潜めておりましたのよ。…彼らと出会うまでは」
言葉が途切れて、ふに子のつぶらな瞳がこちらを向いた。
つられたように、ふに男、司教、フレアの視線が向けられる。
ふにふにズは、あの後、本人達いわくオーバーヒートで仮死状態だったらしいから、その先を知るわけもなく。
それまで黙って聞いていた私は、ようやく口を開いた。
「精霊については、ほんの少しの予備知識があったからね。流れもあって、フレアを放っておくわけにはいかなかったし…連れて帰ったのよ。その後の襲撃には驚いたけど」
肩を竦めた私に、ふに男がふわり距離を詰める。
「そうして、わしらとコンタクトを取った」
「そう。あんた達に見込まれちゃったからね。それで今、ココにお邪魔しているってわけ」
言いながら司教を見遣れば、その蒼い瞳がこちらを映してゆっくりと頷いた。
私は再び言葉を続ける。
「貴方の所にフレアを届けるのがピクシー達の依頼よ。私達の協力はここまでだけど…」
視線を司教の隣、フレアへと移す。
懸命に司教を見上げていた少女が、それに気付いてかこちらを向いた。
曇りのない朱の双眸が、私を映して僅かに揺れる。
…私がこう言うのは、おかしいのかもしれないけれど。
「――フレアを、よろしくお願いします」
頭を下げた私の言葉に、司教の瞳がやんわりと緩まった。彼がしっかりと頷くのが視界の端に見える。
「ええ…、確かにお預かりしました」
静かな声がそう答える。
顔を上げれば、フレアの小さな手が司教の白い服を握り締めているのが見えた。
――さて。
どうやらこれでお役御免、のようね。
隣のエイラを引っ張るようにして、私はソファを立つ。
フレアやふにふにズとの別れは、やっぱりちょっと名残り惜しい気はするけれど。
いつまでも、司教サマの大事な時間を頂戴している訳にはいかない。
「それじゃ、私達はこれで…」
カノーマー司教もソファから立ち上がり、優雅な仕草でその腕を差し出した。
握手を求める動作に、私も手を差し出す。
「ありがとうございました。後のことは、私にお任せ下さい――」
指先が触れ、握手を交わそうとした二人の手が、しかし握手を交わす事はない。
暖かな空気の満ちた、和やかな空間。
「こんな時にお邪魔して、恐縮ですが」
唐突に、しかし、輪をかけて和やかな声が、ゆったりと割り込んでくる。
友好の握手に水を差したお邪魔虫な声が、間延びして先を続けた。
「そちらで勝手に話を進められちゃあ、困るんですよねぇ」
時間までがスローモーションになるような錯覚。
握手の手を差し出したまま固まって、私は我知らず喉を鳴らす。
…この、声……!!
聞き覚えがある、この声は。
息を殺して振り向いた私の視線の先、はたしてそこに予想通りの人物を見て、身体に緊張が走る。
「――ウィング…」
乾いた声で呟いた私に、いつの間にか開かれたドアの枠に凭れている青年が、その口端をことさらゆっくりと引き上げた――