◆30 これで、良かったんじゃないの
中庭を取り囲む回廊、その一番奥に位置する客室。
そこが、私達が通された部屋だった。
小ぢんまりとした室内は、さすが教会の中だけあって、質素に纏められている。
白い壁と、飾り気のない木のチェスト。
その上には白い花瓶に生けられた一輪の小振りな花が、室内に彩りを添えている。
部屋の真ん中にこれまた質素なローテーブルと接客用のソファが置かれていて、しかしそれ以外に目をひくような物は何一つとしてない。
ま、せいぜい、部屋の割に大きく取られた窓から、鳥の囀りが時折思い出したように聞こえてくるくらいかしらね?
あまりクッションの効いていないソファに浅く腰掛けながら、私はすでに何度目かになるため息をついた。
視線を明るい窓の外へと向けながら、カップを引き寄せる。
一口含んだ珈琲は、すっかり冷め切っていて、舌の上に苦い味が広がった。
「…マスターはまだかのう」
ぽつり、渋い声が私の耳元を右から左へとスローペースに行き過ぎる。
首を巡らせれば、ソファに腰掛ける私とフレアの間を、のったりと水色の浮遊体が通過していくところだった。
「まだですわねぇ…」
こちらもやや間延び、高い響きはそのままに、覇気のない声が答える。
こちらはフレアの膝上でまったり落ち着いている桃色ピクシー、ふに子である。
「……もうちょっと、我慢なさい」
私の声も、やや低め。
ほとんど自分に言い聞かせるように、ゆっくりと口にする。
一番大人しくちょこんとソファに腰掛けているフレアが、どこか心配そうにこちらを見上げた。
部屋に通されて、早40分だ。
――本来、私は気の長い方じゃないわけよ。
そりゃ、司教様が忙しいのは分かってるわよ?
突然押しかけたのは、こっちの都合だし。
分かってる…分かってるんだけど…。
この空虚な時間を、どうやって過ごせと…?
傍らを浮遊するふに男、フレアの膝上でだれるふに子に、そして何より…。
視界の端を定期的に行き過ぎる薄グリーンの色彩に、私はついに耐え切れなくなって顔を向けた。
「――ちょっとエイラ」
ぴたりと、その薄グリーンが動きを止める。
きょとんとした表情のエイラが、こちらを見遣った。
「な、何でしょう、お嬢様?」
「あなた、少しは落ち着いたらどうなの」
余所行きらしい薄グリーンのスカートをひらめかせて、始終室内を徘徊していたエイラは、しかし私の言葉に頭が飛びそうな勢いで首を振った。
「落ち着いてなんていられませんよっ!」
懸命に首を振りながら、その胸もとで手がきつく組み合わされる。
「だって、だって、もうすぐあの司教様が…っ!!ミラルド様がそこのドアからいらっしゃるんですよ!?」
…そりゃ、窓からはいらっしゃらないでしょうよ。
「そうして仰られるんだわ!…『待ったかい?君』」
アモーレ、とでも言い出しそうなエイラのキラキラ瞳に、私の疲労は一気に増した。
今までで一番深い息を吐き出しながら、そのまま妄想世界を突っ走っているらしいエイラの表情を見遣る。
「…その憧れの司教様に、檻の中の熊のごとき姿をお見せするつもりかしら?」
「そ、それは…」
う、とばかりに詰まってエイラ。
木製のドアと、私達の腰掛けるソファを交互に見遣る。
ややあって、すごすごと彼女は私の隣へと腰を落ち着けた。
動き回る物音が消えれば、途端、室内は静けさに満ちる。
明るい光が斜めに差し込む窓の外は、裏庭にでもなっているのか、まばらな緑がチラチラと陽光を遮っていた。
…平和だわ。
いや、まあ、それにこした事はないんだけど。
襲撃者だとか、研究所だとか、なんだか嘘みたい。
フレアを、司教に託すまでが、約束した協力。
それまでに二度目の襲撃があるかとも思っていたし、警戒を解いてる訳じゃないけど…。
なんていうか、ねぇ?
…平和よね。
「マスターはまだかのう…」
さっきとほぼ同じ口調。
そろそろ待ちくたびれてきたらしいふに男が、手持ち無沙汰に呟いた。
「…まだですわねぇ」
「――ねえ」
繰り返される台詞を遮って口を挟んだ私に、全員のどこかぼんやりとした視線が集まる。
空中を浮遊するふに男を視線で追いつつ、私は再び口を開いた。
「その『マスター』ってのは、何なわけ?」
実は密かに気になっていた事だ。
ふにふにズが言わなかったから、敢えて聞かなかったんだけど…。
「マスターは、マスターですわ」
さらりと、高い声が返答を返した。
ふに男のゆったりとした声が後に続く。
「ミラルド・カノーマーは、わしらの前ではマスターと呼ばれておったんでの」
「…それはつまり、カノーマー司教も例の研究所に一枚噛んでる…と」
――そういう事、よね?
ほんの僅か目を狭めた私に、水色の体が微かに揺れた。
答えないふに男の代わりに、ふわり、フレアの膝から浮き上がったふに子がその隣へと並ぶ。
「でも、マスターは…。あの人だけは…」
何か言いたげに、桃色の体が震えた。
その黒い瞳が、フレアへと向けられる。
「あの人は、フレアの…」
「――ミル…」
言いかけた高い声に重なるように、聞きなれぬ透明な声が重なった。
…え?
一瞬、聞き間違いかとも思ったほんの小さなその声。
それは。
「お嬢様…!」
驚いた表情で白い髪の少女を見つめながら、エイラが私の腕を突く。
「え、ええ…」
とりあえずも頷きながら、私は隣に腰かける精霊の少女を見下ろした。
その表情は感情に乏しいものの、朱色の瞳は一心に閉まったままのドアを見つめている。
彼女の視線を追って目を向けた先、タイミング良くドアを叩く柔らかいノック音。
反射的に背筋を伸ばして、私は返事を返す。
どうぞ、の言葉を待ってから、ゆっくりと茶色いドアが押し開かれた。
現れたのは、予想通り、白い衣装の麗人で。
サラリ、銀の髪を揺らして頭を下げつつ、司教の穏やかな声が室内へと入ってくる。
「すみません、遅くなりました。大変お待たせして…」
「ミル」
今度ははっきりと、少女の唇が動いた。
ふらり、ソファを立ち上がったフレアの細い身体が、引き寄せられるようにドアの所に立つ司教のもとへと歩いていく。
カノーマー司教の蒼い双眸が少女を映して、僅かに見開かれた。
「――フレア!」
名前を呼ぶとともに、その表情が暖かく崩れる。
予想していなかった司教の表情に、私は立ち上がるのも忘れて、二人を見守った。
そこには、カリスマ司教のどこか神々しいまでの威厳は微塵も感じられない。
代わりにあるのは、血の通った人間の暖かさ、とでも言うのか…。
正直、カノーマー司教のこういう表情を、私は想像していなかった。
壇上で説教をしていた時の雰囲気とも、さっき懺悔室で会った時の雰囲気とも違う。
片膝を折った司教の腕へと、吸い込まれるかのように、フレアの身体が飛び込む。
白い司教服に包まれた両腕が、少女の華奢な身体をしっかりと受け止めた。
「フレア…」
柔らかく名を呼んで、安堵の表情を浮かべる司教の掌が少女の白い髪を撫でる。
離すまいとくっつくフレアの姿に、私の口元には自然、笑みが浮かんだ。
…なによ。
これで、良かったんじゃないの。
まるで親子のようにも見える司教と少女の姿に、内心息を吐く。
肩の荷が下りる、というのはこういう事なのかもしれない。
――ほんとは。ほんの少し、心配だったのよね。
ついさっき確認したばかりだけど、つまり、マスター…カノーマー司教は研究所の人間なわけでしょ?
ふにふにズに聞き出す前から、その予感はあったわけで。
そりゃ、彼らの希望だから、司教への橋渡しはしたけれど。
だけどやっぱり、不安じゃない?
一度関わってしまったら、後味の悪いのは嫌だしね。
けど、まあ。
視線の先で、固く抱き合う司教とフレア。
この様子なら、大丈夫そうね――
内心小さく頷いて、ようやく私は席を立ち上がった。