◆18 お礼の一つも言えないわけ
「…何か、いるね」
小声であるにも関わらず、そう言ったアルの声は、張り詰めた空気を大きく震わせる。
その手は腰の剣の柄を掴んでいて、隙はない。
私は、意識を『視線』へと集中させながら、ゆるりと周囲を探る。
状況を分かっているのか、スカートを握る少女の手に力が篭った。
――そこか…!
庭の奥にそびえる大木、ゆうに屋敷の2階部分までは届くだろう背丈のその木。
「…隠れてないで、出てきたらどうなの」
緑の葉に覆われたその一点を見据えながら、私は厳しい声を向けた。
一瞬の沈黙。
はら、と、視線の先で緑色の葉が一枚、空中へと舞い落ちる。
目が自然と、その動きを追い――。
「あ〜あ。バレちゃってるよ」
辺りに、緊張感ぶち壊しの間延びした声が響いた。
ひらり、と。
空中に身を躍らせるその様は、まったくと言っていい程、重力を感じさせない。
木の上から飛び出してきた人影は、危なげなくクルリと一回転すると、そのまま大地を目指し。
視界の中、宙を舞う緑の葉よりも早く、芝生の上に着地する。
片膝をついた形で地面に辿りついた侵入者は、そのまま、何事もなかったかのようにその場に立ちあがった。
――って、ちょっと!!
何でそんな平然としてるのよ、あんた!
今、飛び降りてきた高さ。
あれ、軽く2階建ての建物くらいはあったわよ…?
度肝を抜かれながらも、表面上は平静を装って、そこに佇む青年を観察する。
夕陽に映える髪は短く、淡い色なのだろう、今は橙に染まって見える。
背の高い、ひょろっと細い体躯。
柔和な笑みを称えるその表情は、人好きのするものだ。
細められたままこちらを見る目は、色素の薄そうな茶色。
シャツと細身のズボンの、動きやすそうな服装に、腰元には太めの皮のベルトが巻かれている。
一見、ごく普通にその辺にいそうなオニーチャン、というのが第一印象。
…さっきの見事な空中芸を見ていなければ、の話だけど。
アルはいつでも腰元の剣を引き抜ける状態のまま、青年を見据えている。
そんな状況でも、私達の10m程先に立つ彼の様子は緊張感に欠けている。
優しげに細められた目と、緩く弧を描く口許。
構えの一つも取らずに、飄々とそこに突っ立っている。
警戒を込めて睨む私と目が合うのに、その顔に浮かんでいた笑みが深まった。
「…悪いけど、ココはうちの庭よ。用があるなら、玄関から訪ねてもらいたいものね」
背後に、怯えて固くなっている少女を庇いながら、用心深く口にする。
青年の口が僅かに開いて、彼は笑ったようだった。
「そりゃ失礼。今度からはそうするよ」
軽い仕草で肩を竦めながら、一歩、こちらへと距離を詰める。
アルの手元が小さく鳴って、夕陽の中に鈍色の剣がすらりと抜き放たれた。
あいにく、武器になるものを持ち合わせていない私は、少女と共に一歩後ろに下がる。
「…いやだな、そんなに毛を逆立てないでくれよ。別に、とって食おうって訳じゃない」
言いながらさらに一歩。
ゆったりとした動きで、しかし確実に近付いてくる。
武器を手にしてもいないのに、その姿には得体の知れない威圧感がある。
彼の纏う空気は、まっとうな社会を生きている者の空気では有り得ない。
「――用がないなら、さっさとお引取り願いたいわね」
私は乾いた唇で、相手を睨みつけながら言葉を吐く。
途端、青年の歩みが止まった。
その距離、剣を構えるアルからおよそ5m。
「そうするよ。――用はすぐ済む」
軽く首を傾げて、優しげな青年がそう言ったのと同時。
背筋にゾクンと悪寒に似た感覚が駆ける。
「リィン!!」
アルの声が鋭く名を呼ぶ。
――後ろ!?
瞬時に、私は少女を腕に庇ってその場に身を屈めた。
視界で、アルの青い装束が翻る。
頭上で、金属同士がぶつかる短い音。
何が起きたのかまでは分からない。
しゃがんだ私の視線の先、そこに立つ青年が、腕を振り被るのがスローモーションのように目に映る。
夕陽を反射して、光るモノが、こちらへと放たれる。
風を切る鋭い音。
――ナイフ!!
私の目の前には、青い服に包まれたアルの脚。
私を狙ったんじゃない。
ナイフの飛んでくる先は――…!
遮二無二、腕を伸ばした。
アルの腰に下げられたままの剣の鞘、皮で出来たそれを掴んで引き上げ振りかざす。
瞬間、何かが皮に突き刺さる鈍い感触が、鞘を通して私の腕に伝わった。
ヒュウ、と口笛の音。
アルの背中、それを庇った鞘に見事なばかりに突き刺さっているナイフ。
弾くつもりで掲げた皮の鞘を、しかし、ナイフは貫通していた。
一体どういう力で投げれば、こんな事になるのか…。
私は震える息を吐き出してから、口笛を吹いた青年へと視線を向ける。
「なかなかやるね。見事な連携プレーだ」
パチパチと、両手を叩いて青年。
「――それに比べて…。何やってるんだよ、ラグウ」
叩いた手を、そのまま演技くさい仕草で、額へと持っていく。
彼の口調も仕草も、この空間には異質な程に飄々とした軽いものだ。
その視線は、私の後方上空へと向けられている。
「…う、うっせぇなっ!誰にだって失敗くらいあるんだよっ!!…くっそ、離せ…!」
聞いた事のない子供の声が喚いて、
「…離すと思うの?」
耳慣れた、アルのゆったりとした声がそれに続く。
しゃがんだ体勢のまま、ゆっくりと視線を上げれば、そこには暴れる二つの足。
片足が地につくかつかぬかの状態でぴょんぴょんと妙なダンスを踊っている。
そのまま視線で辿っていけば、アルに片手を取られてぶら下げられている少年の姿がそこにあった。
歳は10歳よりは少し上だろうか。
気の強そうな太い眉と上がり目。
栄養失調かと疑いたくなるくらいに細い手足は、枯れ木のようだ。
…それにしたって、アル。
あんた、子供を悠々と片手で、そんな…。
片手には抜き身の剣。もう片手で背の低い子供の手首を掴んでぶら下げている。
見上げる私と視線が合うと、アルの目が僅かに細くなって笑みを刻む。
「僕ごと引っ張り上げられるかと思ったよ」
まだ私がしっかりと持っている彼の鞘、今はアルの背にあるそれを、軽く首を回して確認しながらそう言う。
「…あんた、お礼の一つも言えないわけ」
片眉を上げて言い返す私に、アルは小さく肩を上げた。
「お互い様だと思うけど」
アルの視線を追えば、やや離れた所にはナイフが深々と芝生に突き刺さって光を弾いている。
最初の金属音、あれはアルがこの少年のナイフを弾いた音だったらしい。
「――くそっ」
抵抗を諦めたらしく、ぶら下げられたまま少年が大人しくなる。
私は掴んでいた鞘を離すと、そこに突き刺さったナイフを力を込めて引き抜いた。
鞘の皮を突き破って刺さっていたナイフは、刃渡りが20cm程の小型ナイフだ。
それを片手に、少女を庇って屈めていた身体を伸ばすと立ち上がる。
怯えきった様子の少女が、私のスカートを両手でしっかり握って身を寄せつつ震えている。
「…さすがに重いな」
一つ呟いたアルが、ぶら下げた少年の両足を地につけた。
と思いきや、素早く少年の身体を腕で絡めとり、背後からその首元に剣を寄せる。
…子供を人質にとるとは、卑怯なり、アル。