◆17 ――そう簡単にはいかないか
夕方の、柔らかい陽射しが斜めに降り注ぐ、ここは我が家の庭である。
傍にはやや大きく育った木が、春を前に赤い花を咲かせて。
葉の合間からは夕陽の淡い光の帯が、足もとの芝の上にまだらの模様を描いている。
のどかな夕刻。
庭の中ほどにある木の下で、私は立ち止まると一息ついた。
「…どう?少しは、マシかしら…?」
見下ろしながら尋ねる視線の先、私の長いスカートをしっかと掴んでいるのは白い髪の少女。
問い掛けに、スカートの影に隠れるようにしながらも、少女が私を見上げてくる。
「…」
言葉なく、少女の瞳が瞬いた。
…うーん…?
その感情を読み取ろうと、そのまましばし見詰め合う。
彼女の赤い瞳は、やはり不安に彩られているように思われた。
しっかりと掴まれて皺を刻むスカートと、少女の不安げな顔を交互に見て、私は密かに息をつく。
――そう簡単にはいかないか…。
実は、起きたのはついさっきだったりする。
昼頃に、一度起きて少女を布団に招き入れた記憶はあるものの、それから二度寝したのが悪かった。
すっかり寝不足は解消されたけど、逆に寝過ぎの感がある。
寝過ぎると、妙に眠いのよね…。
起きた時。
少女は布団に入った時と変わらず、丸まって眠っているようだった。
起こさぬようにそっとベッドを降り、服を替えて。
気付けば何やら下から引っ張られている。
顔を向ければ、いつの間に起きたのか、少女が私の服の端をそっと掴んでいた。
一向に服を放そうとしない少女を引き連れて、軽い食事を済ませ、驚く家族にはアルの親類だと言い訳をして。
勧めてみた食事も、当然のように少女は口にしなかった。
少女の顔色は悪い。
下手をすれば、今にも倒れそうな青さだ。
せめて少しでも自然に近い所、と考えて庭に降りてみたんだけど…。
油断をしたら出てくる欠伸を噛み殺して、私は少女の傍に腰を屈めた。
少女の瞳が、私の一挙一動を追っている。
彼女の傍にしゃがんだまま、そっと様子を観察してみるも、これといった変化はない。
片手で私のスカートを掴み、片手は自分の胸元をしっかりと押さえている。
そのネグリジェの胸元には、歳不相応の膨らみ。
昨日私が発掘したはずのぬいぐるみは、どうやら再びそこに収まったらしい。
「…それ、アナタのぬいぐるみ?」
指差しながら聞いてみる。
「…」
朱の瞳が一度閉じられて、胸元を押さえる腕の力が僅かに強くなった。
…うう、だめだわ。
こうしてくっついてきてくれるから、懐かれてるのかとも思ったけど…。
彼女の口からは言葉のコの字も出てこない。
コミュニケーションが全く出来ないのだ。
こっちが言っている事を、この子が理解しているのかどうかすら不明だ。
私が深々とついたため息に、少女の瞳が揺れて、不安の色が濃くなった。
「…あー…、なんでもないわ」
手を伸ばして、少女の髪を緩く撫でる。
一瞬びくりと身体を揺らしたものの、逃げようとする気配はなく、彼女はされるがままに私を見つめている。
「…随分と仲良くなったね?」
のんびりと、しかしどこか驚いたような声が届いて、私は顔を上げた。
テラスに現れたアルの姿に、少女が私のスカートの後ろに隠れる。
その様子を眺めながらゆっくりと腰を上げて、こちらに歩いてくるアルを見遣る。
「そう見える…?」
「まるで親子みたいだね」
真顔でそれは、冗談にならない。
片眉を上げて近付いてくる幼馴染を軽く睨んでやる。
「…一度お医者さまに、その二つの節穴を診てもらった方がいいんじゃなくて?」
青い細身の上下、余計な装飾などはなく、襟と袖に添って銀の刺繍が彩る騎士装束。
腰のベルトに剣を下げたままのアルが、私のすぐ傍で足を止める。
軽く腰を屈めて、少女を覗きこむアルに、少女は大きく身体を震わせるとさらに私の後ろへと避難した。
「僕じゃ駄目みたいだよ」
「…でも、会話はこれっぽっちもできてないわ」
小さく肩を竦めて私。
「というより、この子、もしかして話せないんじゃないかしら…?」
「――だとしたら、困ったことになるね」
屈めていた腰を伸ばして、アルが私に向き直る。
スカートの影から覗く少女が、上目遣いに私達を見上げていた。
そんな少女を見下ろしながら、アルがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「彼女の事情も分からない、だけど、このまま街中に置いてもおけない。場合によっては、それこそナッシェのところに強制連行だよ」
「顔色も、昨日より悪くなってる気がするわ…」
言った私の口許を、少女の青い顔が見上げてくる。
昨日の夜に出会った時から、不健康に青白い顔色だったけど。
今の少女のそれは、病人のようでもある。
「やっぱり、街中の自然エネルギーだけじゃ摂取量が足りないのよね」
「ナッシェにしても、森からは離れないようにしてるみたいだしね」
会話の途切れ目に、二人して少女を見遣る。
夕方の木漏れ日に照らされる細い姿は、そこにあるのが不思議なくらいに、か弱い印象を受けた。
「…困った迷子だわ」
ぽつりと漏らした私の言葉に、アルが頷いた。
その場にしゃがみ込むと、スカートに半ば隠れている少女へと視線を向ける。
「――僕の言葉、分かるかい…?」
柔らかな声での問い掛けにも、少女の瞳は怯えたままで反応を返さない。
「無理だと思うわ。昨日から…」
言い掛けた私の言葉を、しかし最後まで聞くことなく、アルがすっくと立ち上がる。
その表情は、少女に声を掛けた時とは一変して、険しい。
「…アル?」
腰の剣へと伸びるアルの手に、名を呼んだ私はそのまま口許を引き締めた。
沈む日が、全てをのどかに演出する庭先。
ただ、その空気だけが、異質だった。
密度の濃い空気。
張り詰めて、ぴりぴりと背中を針で突つかれるような感じ。
…――見られてる。