◆10 …あな怖し、女の嫉妬
時が止まったかのようだった。
誰も、何も言わない。動かない。
ただ少女の見開かれた瞳だけが、私達へと向けられている。
…これが、黒幕――…?
ガンくれモードのまま、緊張もそのままに心の中で首を傾げる。
これが…、夜毎ルクスの生気を吸い取っていたと思われる、危険な精霊…?
少女のまんまるに見開かれた目は、こちらを見て、恐怖しているようにも見える。
――とても、そうは思えないんですけど…?
張り詰めたままの空気。
突如。
その緊張を破ったのは、エイラの泣きそうな声だった。
「――女の子。…女の子じゃ、ないですかあ…」
ルクスの手を握るその手が、なぜかワナワナと震えている。
「キツネじゃなくて…女の子っ!!」
キッと眉尻を上げたエイラががばっと私の方に向き直った。
…へ???
わなわなと震えているのは手ばかりでなく。
今にも泣きそうに引き結ばれた口許までもが震えている。
「…エ、エイラ…?」
気圧されつつ、私は間抜けに彼女を見返す。
――な、なになに?
なんでそんなに怒ってるのよ…!?
遠くの精霊よりも、むしろ近くのエイラの脅威。
ずい、と彼女が私に一歩にじり寄った。
「どうしてお嬢様まで嘘をおつきになるんです!キツネと言ったじゃありませんかっ!ダーリンは、キツネに誑かされて、生気を吸われてるんだって!!」
「…そ、そうね。確かにそう言ったわね…」
ずずい。
自然と後退さる私に、さらに迫るエイラ。
「それが、こんな女の子だなんてっ」
少女の方をびしっと指差しながら、くるり、その少女へと顔を向ける。
「こんな…、こんな、年端もゆかぬ女の子に…ダーリンは…。ダーリンは…!」
……何ですと??
うるうると瞳を潤ませながら、微動だにしない少女を睨みつけているエイラ。
その横顔を呆然と眺めながら、思わず首を傾げる。
「…何か、大きく誤解しているみたいだね」
隣から、アルのいつもにましてのんびりとした声が聞こえてきた。
…あ、やっぱし?
乾いた笑みを顔に張りつけてアルを見遣ると、彼は軽く肩を竦めてみせた。
「エイラ…、エイラ」
ちょいちょいと、そのいかった肩を突ついてみる。
「何ですかっ!!」
「えーっと、ね。…話せばちょっと長くなるから、後で話すけど。…あれ、キツネさん」
口はへの字、眉は逆ハの字、鬼の形相とはまさにこの事。
かつてない程恐ろしいエイラにさらに一歩後退さりながら、へら、と笑んで少女を指差す。
ピクリとエイラの眉間の皺が増え、私と少女の間を視線が往復する。
「…あんたの彼の幼児趣味疑惑は、とりあえず置いておいてやってくれる?」
後で説明するから、と念を押せば、エイラの視線は私に向けられたまま停止した。
「…ちゃんと、説明、して下さいね」
不服そうな様子ながらも、とりあえずは怒りを納めてくれたらしいエイラに、私は僅かに肩の力を抜く。
…あな怖し、女の嫉妬。
「…二人とも。忘れてないかい?彼女のこと」
まだ口への字なエイラと、意味もなくへらへらと表情を崩している私の間に、アルの声が落ちてくる。
…彼女?
「!」
なんてことっ!!
あまりのエイラの迫力に、すっかり事態を忘れてたじゃないの!
そう、目の前にはひょっこり出てきた黒幕の精霊さんが!!
慌てて顔を泉へと向けると、そこにはまだ、例の少女が突っ立っていた。
…???
ねえ、あなた。
さっきから、全く動いてないんじゃなくて…?
赤い瞳は零れ落ちそうに見開いたまま、微動だにせずこちらを見つめて。
もはや、彼女の焦点がどこに定められているのかすら、分からない。
当然、そこには攻撃的な雰囲気などは微塵もない。
「…ちょっと」
耐えかねて、思わず声をかける。
途端、弾かれたように少女の全身がビクリと竦んだ。
そのまま、カタカタ、と。
傍目にも分かるほどに、その身体が震え出す。
「……」
「…怯えてるよ、リィン」
ぽつり、アルの非難めいた声が私へと向けられる。
そんなの、見りゃ分かるわよっ!
っていうか、ちょっと…それってどうなのよ…?
私は声をかけただけよ?優しーく、「ちょっと」って。
なんでそれに怯えてんのよ!
「…ねえ、聞こえてるかしら?」
僅かに剣呑さの混じった声になったかもしれない。
ベッドを迂回して、一歩。
まだ僅かな緊張を残したままに、少女の方へと近づきながら尋ねてみる。
私の問い掛けに、少女の小さい体が、さらに一縮みした…ように見えた。
当然のように、返答も返ってこなければ、反応もない。
…あああああっ!!!
ナニ、ナンなのよ!?
あんた、精霊でしょ!
生気ちゅー、の!
なんでそんなか弱そうで、その上、こーんな可憐な美少女相手にビビってんのよ…!?
(注・可憐な美少女とは、もちろん私の事よ!念の為!!)
さらに一歩歩み寄る。
精霊との距離は残りおよそ4歩。
ふいに、少女の瞳が、見開かれたままで私へと向けられた。
目が合う。
――…何か、くるか!?
一瞬息を詰めて警戒を強める私の目の前、しかし、少女は予想外に固まったまま。
「…あ」
小さく、エイラが驚いたように声を上げた。
「!」
視界の中、少女の華奢な体が、まるで操り人形の糸が切れたかのように力を失って、ゆっくりと前のめりに倒れていく。
考えるよりも早く、私は残りの距離を駆け寄って――。
とさり、と。
その小さな身体が、伸ばした私の腕の中へと納まった。
思わず抱きとめた精霊。
その身体は暖かく、普通の人間の子供とそう違うようには感じられない。
妙に軽いような気がするのと、血の気の失せた顔色以外は、まるで普通の子供のようだ。
両の瞳は閉じられて、身体は力なく私に抱きとめられている。
完全に、気を失っているようだった。
見た感じ…10歳くらいかしら…?
思わずまじまじと腕に抱きとめた少女を観察する私に、
「ナイスキャッチ、リィン」
アルののんびりした声とともに、拍手までもが寄せられた。
緩慢な動作で顔を上げて、アルを見返す。
「…どうしよ、これ」
まさか今さら放り出すわけにもいかず、抱きとめた体勢のまま少女を腕に本音をぽろり。
…いや、だって。
ついつい考えるより先に身体が動いてキャッチしちゃったけど…。
この子、精霊さんなのよ?
何でかすっかり怯えて気ぃ失っちゃったりしてるけど。
これでも一応、ついさっきまで黒幕だと思っていた精霊さんなわけよ。
戦わずして黒幕に勝利できちゃったらしいのはありがたい。
ありがたいけど。
その後、このいたいけな少女をどうすりゃいいわけ…?
あまりに予想外の展開に、私の頭はついていかない。
「ここに放っておくわけにもいかないだろうね。またルクスが狙われるかもしれない」
私の腕でぐったりとしている少女を眺めながら、ゆったりとアルが言う。
「…え!?じゃ、じゃあ…連れて帰るんですか…?」
ややビビりながらも、しっかりとルクスを庇うように身を寄せつつ、エイラ。
精霊さんを抱いて途方に暮れている私を見遣ってから、アルが一つ首を傾げた。
「連れて帰るにしても…」
言って、ぐるりと周囲を見まわす。
「ココ、どこなんだろうね?」
しごくまっとうな問いである。
そう言われてみれば…、精霊さんのご登場ですっかり忘れてたけど。
ここって本当に、どこなのかしら…?
「…こんな森、街中にないですよね。…郊外の森とかだったら、どうしましょう」
同じように周囲を見渡し、はては上空を見上げながらエイラが不安そうに言葉を受ける。
少女の軽い身体を抱き上げて、ベッドの端へと座らせるように支えながら、私も二人に従って木々を眺めてみる。
もちろん、ここがどこかなんて、分かるわけもない。
「…もしかして、私達、迷子って事になるのかしら」
ぽつりと呟いて、自分の言葉に事態をようやく理解する。
そう、迷子なのだ。
深夜にこんな森の中、ココが何処かもさっぱり分からず、どっちに行けばいいのかも全然分からない。
これはもう、立派な迷子だ。
しばらく黙っていたアルが、再び小さく口を開いた。
「…それよりも、もっと大変な事を思い出したよ」
珍しく、顎先に指なんて当てて真面目な表情だ。
?マークを顔に浮かべてアルを振り返る私とエイラに、当のアルがぎこちない仕草で見返してくる。
「街の中の『こんな森』。一つだけ、思い当たる場所がある」
「え?」
しばし黙り込む三人。
爽やかな風が駆け抜けて、やおら、エイラが口許を両手で覆う。
街の中にある、森。
城下街はしっかりとした都市計画に従って、整備されている。
公園はあれど、森、とよべるようなものはなかったはずだ。
…たった、1箇所を除いて。
ひやりと、冷たいものが背筋をつたう。
「…まさか、ねぇ…?」
乾いた唇で言った私の声に、エイラとアルの視線が寄せられて。
「――――誰か、おられますの…?」
突如、別の声が割り込んでくるのに全員が息を飲んだ。
空気ごと、私達はその場に凍りついた。