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9. 世界樹の葉を求めて

 十歳の子どもが、病気の知識なんてないのは当たり前だ。医学の知識が乏しい、というだけではなくて、身近に病が存在していないのだ。例えば、癌だとか、脳卒中だとか名前だけなら、映画やテレビで耳にすることはあっても、その病が意味することまでは知らないのが普通だ。それが、複雑怪奇な名前の病であれば、尚更のこと。風邪くらいしかひかない、いたって健康な子どもには、理解できないものだ。

 だから、ヒメの病名を聞いても、ぼくはピンとこなかった。それが当たり前のことだった。だけど、そんな自分を許せなかったのかもしれない。

 ヒメの家に駆け込んだぼく目の前で、胸元を押さえて苦しむ彼女の姿を見ていると、まるで自分の心臓が掴まれたように苦しくなる。何とかしてあげたいとさえ思うのだけど、子どものぼくに、何が出来ると言うのだろう。

「ごめんなさいね」

 と、ヒメのお母さんはぼくたちに言ったけれど、何に対して謝っているのかは良く分からなかった。きっと動転していたのかもしれない。お昼ごろまでは、ぼくたちがやって来るのを楽しみにしていたそうなのだが、突然、何の前触れもなく、ヒメは真っ青な顔をして額に脂汗を滲ませ、苦しみ始めた。

「今日から明日にかけてがヤマでしょうな……」

 匙を投げると言う言葉がある。医者が、治療を断念して、薬の量を測るための匙を投げ捨ててしまうことに由来している。まさに、その光景が目の前で繰り広げられることに、ぼくは怯えた。

 白髪の目立つ、初老の医師は瞳を伏せたまま、「もう手の施しようがない」と言いたげに、溜息をつく。ヒメのお母さんは、小さく震えながら、立っているのがやっとといった感じで、娘の顔を見つめる。ぼくは、ぼくたちは、どうしていいいのかも分からず、傍らに立ち尽くす。

「ううっ」

 と、ヒメが呻けば、尋常な気持ちではいられない。「どうか、ヒメを助けてください」と神さまに祈ってみるものの、都合よくぼくの願いを聞き入れてくれるような神さまはこの世に居るはずもなく、だだただ、ヒメが苦しむ姿を傍観するほかなかった。

 不意に、ヒメの口元が動く。

「シュウくん……助けて」

 確かに、ヒメはぼくの名を呼んだ。リコも、ヨンちゃんもそれを聞いていたのか、揃ってぼくの顔を見る。ぼくは、そっとヒメに近づこうとした、その瞬間誰かが強くぼくの肩を鷲づかみにする。その大きな手は、ヨンちゃんのものでも、ましてリコのものでもない。もっと、シワシワのお爺ちゃんの手だ。

「帰りなさい、君たち」

 低く、くぐもった声。振り向くと、そこには見るからに貫禄のある背の高い老人が立っていた。その人が、ヒメのお祖父ちゃんであることに気付く間の数秒間に、

「いますぐ、帰りなさい」

 と、ヒメのお祖父ちゃんは繰り返した。それは、鉛のように重たく、冬のように冷たい。ぼくは、慌てて「看病させてください」と言おうとしたのだけど、ヒメのお祖父ちゃんはそれを遮るように被せて、ぼくを睨みつけた。

「君に出来ることなど何もない。それに、夏音が苦しんでいるのは、君たちの所為じゃないのかね? 頼みもしないのに、君たちがお見舞いと称して、毎日夏音のところへ来るから、夏音は無理をしたんじゃないのかね?」

「そんなこと、ありませんっ! だって、わたしたち、ヒメの友達だから!」

 と、いち早くヒメのお祖父ちゃんにたてついたのは、リコだった。だけど、ぼくは言い返す言葉が見つからなかった。お祖父ちゃんの言うとおり、「見舞いに来て欲しい」とヒメに言われたことは一度もなかった。ぼくたちが……いや、ぼくが勝手にヒメのところへ足を運んでいたに過ぎない。好きな女の子とお近づきになれた、という嬉しさに舞い上がっていただけだとしたら、今、ヒメが苦しんでいるのがぼくの所為だと言われても、仕方のないことのような気がした。

「だったら、夏音をそっとしておいてやってくれ。これ以上、可愛い孫娘を苦しめないでくれ。あの子は、君たちのように、野山を走り回れる体じゃないんだ」

「はい」

 ぼくは俯き加減に返事した。「いいの? シュウちゃん」と尋ねるヨンちゃんに、無言で頷きを返すと、そのまま部屋の出口に向う。ふと、もう一度だけ、ヒメの顔を見たい。ぼくは、ドアのところで立ち止まって、ベッドを振り向いた。ヒメの苦しそうな顔。一秒だって見たくない。何とかできる力がぼくにあるなら、今すぐにだって、ヒメを助けたいと思う。

 だけど、医者も匙を投げるような病気に、ぼくに何が出来る? 傍にいて元気付けることも、ヒメの祖父に断られた。好きな子のために、何も出来ない自分の無力さが、途方もなく情けない。

 ぼくは、項垂れて洋館を後にすした。外は、夏の空が広がっていて、いつもなら心がウキウキするような天気も季節も、すべてが恨めしく思えた。リコもヨンちゃんも同じ思いだったのかもしれない、ぼくたちは並んで、まるで雨空の下を歩くように沈みきっており、一言も口を利かないまま、交番の前に差し掛かる。

 本当は、こんな夏休みがやってくることを望んではいなかった。

 新しい友達と過ごす夏休み。ぼくにとってはそれだけじゃない。初めて好きになった女の子と、一緒に過ごす夏休みに、どれだけ期待を寄せていたことか。それが、あっという間に暗転してしまった。

「おや、どうした。通夜に言ってきたみたいな顔して、何かあったのかい、仲良し三人組」

 交番の前で、お巡りさんがぼくたちを呼び止める。腰に帯びた警棒は、真新しく、この街の平和さを物語っているようで、ちょっと頼りない。それでも、目配りの利く、お巡りさんはぼくたちの、沈みきった姿を見逃さなかった。そりゃそうだ。三十分ほど前、交番の前で、ちょっとしたコントを繰り広げていたぼくたちが、今度は、暗い顔していれば、気になって当たり前だ。

 だけど、そんな大人の気遣いも、今のぼくたちには伝わらない。すぐに、リコが鋭くお巡りさんをにらみつけた。

「そんな、縁起でもないこと言わないでよっ!」

「す、すまん」

 あまりの剣幕に、お巡りさんはたじろいだ。そのあたりが彼の、頼りないと評される所以なのだろう。

「あーっ! ムカムカするっ。何あのお祖父ちゃん! ヒメの具合が悪くなったのが、わたしたちの所為みたいに言ってっ!!」

 リコは、がおーっと、吠えるように空に向って叫び声を上げる。

「そうだよっ。なんで引き下がったのさ、シュウちゃん!」

 続けて、ヨンちゃんがその矛先をぼくに向けた。ぼくは、やっぱり俯いたままで、

「だって、仕方ないよ。もしかしたら、ぼくの所為かもしれないし。それに、ヒメが苦しむ顔を見ていられなかったんだ」

 と、矛先から逃げようとする。そんなぼくに、リコが少しふくれっ面をしながら、「臆病者」と呟いた。

「そんなわけないでしょ? シュウちゃんが来てくれるのが嬉しいって、ヒメ言ってたじゃない」

「そうだけど……」

 だんだんぼくの声が弱々しくなる。リコは、額に四つ角を作って、ぼくの背中を思い切り叩いた。衝撃が痛烈に背筋を駆け上っていく。本当は、リコだって分かってる。もしかしたら、自分たちの所為かもしれないと。だけど、それを認めたくないという気持ちが、ぼくの背中を打ったのだ。

「こらこら、女の子が暴力とは感心しないぞ」

 と、見当違いなことを言ったお巡りさん、更にリコの矢のような視線に晒される。その傍らで、ヨンちゃんが、重たく溜息を吐き出した。

「今夜がヤマだなんて、そんなのないよ。四人で、海へ行こうって約束したのに」

 約束……。突然ぼくの脳裏に、ヒメがぼくにだけくれた笑顔と言葉が蘇る。小指と小指を重ねて、指きりした約束。あの指の細さも、温かさもはっきりとこの手に伝わる。

『じゃあ、約束。いつか、野崎くんがわたしの病気を治してくれるって』

 ヒメはぼくに助けを求めている。ぼくと、ヒメの交わした約束を果たすのは、今だ。でも、奇跡でも起きなきゃ治らないような、難しい病気をぼくに治せるわけがない。それこそ、奇跡でも起きなきゃ、例えばヨンちゃんの好きなテレビゲームのような……。

 はっと、ぼくは息を呑んで、きょとんとしたヨンちゃんの顔を見た。

「ねえ、ヨンちゃん。あの話、ホントのこと?」

 不意にぼくが言い出したものだから、その意味を図りかねたヨンちゃんは、眉間にしわを寄せて、「何のこと?」と聞き返してくる。

「あれだよ、あれっ! ヒメに話してた、『世界樹』の葉っぱのこと」

「えっ? うーん、どうだろう。あの話、俺のお祖母ちゃんから聞いた話だから、ホントかもしれないし、作り話かもしれないし……」

「でも、『世界樹』の葉っぱがあれば、どんな病気だって治せるんでしょ? だったら、ヒメの病気だって、治せるかもしれない!」

「それだっ!!」

 横から、リコが両手を打った。だけど、ヨンちゃんは困った顔をして、

「でも、隣町との境にある、こおろぎ山だよ。とっても遠いよ……子どもの足だけじゃ」

 と、苦言を呈するように言い返す。

「でも、遠いって言ったて、汐浜の海岸に行くよりは近いはずだよ。行こう、シュウちゃん! 世界樹の葉っぱを採ってきて、ヒメを助けるの! ほら、ヨンちゃんも、ぐずぐずしてたら、すぐに夜になっちゃうよ」

 リコは、苦言などお構いなしで、ヨンちゃんの手を引っ張った。リコの言うとおり、電車で二つ先の駅まで行かなくてはならない、汐浜の海水浴場に比べれば、おなじ町内にある山に行く方がずっと近い、と思うのは、子どもの甘い算段だった。もっとも、ぼくはヒメを救う手立ては、他にないと思っていた。奇跡じゃなきゃ治せない病気なら、奇跡を起こしてやればいい、なんて、本当は言葉にするほど簡単なことじゃないことも、十歳の子どもには分からなかったのかもしれない。

 それでも「仕方ないな」とヨンちゃんが言えば、旅は始まったも同然だ。

 かくして、二十年前、ぼくは幼なじみと一緒に、ヒメの命を助けるために、世界樹の葉を求めて、旅に出ることとなった。だけど、それは、とても険しい道のりとなることを、ぼくたちは知る由もなかった……。

 

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