7. 洋館のヒメ
ヒメというのは、彼女の本名じゃない。だけど、いつも穏やかで、春の風のような温かい笑顔を携え、触れ他だけで壊れそうなくらい可憐な彼女には、ぴったりの愛称だとぼくは思う。誰が、彼女を最初にヒメと呼んだのかはわからない。そもそも、ぼくは彼女が転校してきて、しばらくの間ろくに口をきいたこともなければ、「ヒメ」と呼んだこともなかった。
ヒメが転校してきたのは、ぼくたちが小学四年生に上がったばかりの春のことだった。ヒメは、春風のような笑顔とともに、ぼくたちの教室にやって来た。先生が黒板に彼女の名前を書き記す。そのまえで彼女は、恭しくお辞儀した。
「浅井夏音です。F市から転校してきました。よろしくお願いします」
その鈴が鳴るような声は、雷のようにぼくを打ち据えた。十歳のぼくは、恋なんてしたことがない。当たり前のことだけど、特にクラスでも大人しい性格だったためか、女の子の友達といえば、幼なじみのリコくらいだった。そんなぼくにとって、彼女と目が合うたび、カーッとほっぺたが熱くなって、胸がドキドキするというのは、初めての経験だったことも含め、このモヤモヤ感の正体が何なのか、分からなかった。
山と田んぼばかりの夏八木町に転校生なんて、奇跡に近く、彼女はあっという間にクラスに溶け込んだ。もともと、彼女の祖父がこの町の有力者だったというのも幸いしたのかもしれない。彼女の祖父、浅井源一郎は地元の農業を発展させた人で、学校の裏手にある大きな洋館に住んでいる。ヒメは、とある理由でその祖父の家へと、引っ越してきたのだ。だから、街の人や子どもたちにとっても、他所の人という印象は薄かったのかもしれない。
だけどぼくは、ヒメと目が合うたびにつんとそっぽを向いて、廊下ですれ違う度に逃げるように走り去り、ヒメが話しかけてくれても、気付いていないフリをして無視をする。それじゃまるで、ヒメのことを避けているようで、こんなぼくのことをヒメが気にかけてくれるなんて在り得ないと思っていた。
大人ぶって言えば、それはジレンマだ。好きな女の子に、上手に気持ちを伝えられないからと言って、わざと「興味なんかないよ」と言う風を装って、嫌っているフリをする。でも、ホントはヒメのことが、どうしようもなく好きで、視線はいつだってヒメのことを追いかけていた。
そんなぼくの気持ちに、一番最初に気付いたのは、やっぱり、リコだった。その頃からリコは、正義感に篤く、世話焼きで、かつ大人びたところがある、ややっこしい女の子で、
「どうしたの、暗い顔して、溜息ばかり吐いちゃって。あ、さては、恋の悩みだな? うむむ……相手はヒメちゃんでしょっ!!」
と、唐突に言うものだから、ぼくは心臓が飛び出しそうになって、思わずうろたえてしまった。かえって、それがリコに確信を与える。昔から、勘が鋭いリコには、頭が上がらない。
「ふふん、シュウちゃんも恋をする年頃になったみたいね。確かに、ヒメちゃん可愛いもんね、分かるよ、その気持ち。恋に悩む溜息!」
リコは勝手に盛り上がりながら、ぎゅっとぼくの両手を握る。場所はお昼休みの教室。ヒメは窓際の席で、他の女友達と楽しそうにおしゃべりしている。廊下や運動場から聞こえる遊び声に阻まれて、ぼくたちの声が届くはずもないのに、彼女にぼくたちの会話が聞かれやしないかと、ひやひやしてしまう。でも、リコはお構いなしだった。
「恋とか、ダサイよシュウちゃんっ!」
突然、ぼくとリコの間を割って入るように、げっそりとした不健康そうな顔が現れる。当時のヨンちゃんは、栄養が足りているのか心配になるくらいやせっぽちで、針金か牛蒡のようだった。もっとも、本人はそのことを気にしているみたいなので、口には出さない。
「ダサイって何よ。恋のひとつもしたことないような、ヨンちゃんに言われたくないわよね、シュウちゃん」
と、リコに同意を求められても、ぼくは困るだけ。こと、恋の話においては、十歳の男子なんて、素人同然と言っても過言じゃない。ぼくたちごく普通の男子にとって、バイブルとも言える少年漫画には、恋の話なんて描かれていない。大抵、筋肉質なヒーローが必殺技の名前を連呼して、悪の怪人をやっけるような、お話ばかり。一方、女の子のバイブルはいつだって、恋の話で埋め尽くされている。男女の違いなんて、意識したことはなかったけれど、その時のリコは、なんだか恋愛の大先輩のように見えた。
「よし、オクテなシュウちゃんのために、わたしが一肌脱いで上げましょうっ! 要は、ヒメちゃんと仲良くなるきっかけが出来ればいいわけだよね。任せて」
リコはそう言うと、すっくと立ち上がり、そのまま無遠慮にヒメの方へと歩いていく。そういうのをお節介って言うんだよ、と止めようとしても、一度決めたら梃子でも動かないリコに、何を言ってもムダだと知っているぼくは、慌ててヨンちゃんを引き連れて逃げ出してしまった。
後になって、幼なじみが気を利かせてくれた、絶好のチャンスになったのかもしれないと、ひどく後悔したのを良く覚えている。こんなんじゃ、小学校を卒業するまで、ろくに口も聞けないかもしれないと思えば、また溜息がこぼれる。そんな毎日の繰り返しで、あっという間に季節は移り変わった。
まるで、ぼくの溜息が集まって空を灰色の雲で塗りつぶしたような、雨の季節。木造校舎の手前にある、花壇のアジサイが、雨天にわずかな彩を添える。
「ヒメって、病気の療養のために、夏八木のお爺ちゃんの家に引っ越してきたらしい」
と言う噂を耳にした矢先、ヒメは学校を休みがちになった。春先の笑顔は消え、ただ、ぽっかりと彼女の机だけが空席になって、寂しそうにしている。ぼくの溜息はますます増える一方で、どんどん空を覆い隠す灰色の雲が厚くなっていき、やがて大粒の雨が校舎や運動場を叩きつける。
そんなある日、家に帰ろうとしたぼくを、担任の先生が呼び止めた。
「野崎。悪いが、浅井に休んでいる間のプリントを届けてやって欲しい。それと、浅井の様子も看て来てやってくれないか?」
と、ぼくの有無を聞く前に、どっさりとプリントの束を手渡された。どうやら、ぼくに白羽の矢が立ったのは、クラスメイトの中で、家が一番近いと言う理由だけだったらしい。それが、新たなチャンスかどうかは知らないけれど、ぼくは黄色い雨傘を差して、一人でヒメの家に向うことになった。本当は、ヨンちゃんかリコ、もしくは二人に付いて来てもらいたかったけれど、リコが、「邪魔しちゃわるいから」なんてワケわかんないこと言って、ヨンちゃんを連れて姿を消したためだ。
道すがら、ぼくは緊張感に苛まれた。先生に頼まれたから、と言う義務感だけで、ヒメと口をきく勇気がない、情けないヤツ。雨の中、交番の前で家に向う道とは反対側の道に入った時には、爆発しそうなくらい心臓が鼓動を打ちまくって、そして、浅井家の洋館の前に立ったときには、気を失いかけた。
「ここでいいんだよね?」
誰に問うでもなく、表札を確認して、格子の門扉をくぐり、飛び石を踏みながら玄関へと向う。その先にある庭には、赤や黄色のバラが咲いており、庭を抜けると、ぼくの目の前にライオン型のノブが付いた、大きな玄関扉が現れる。我が家の玄関のウン倍はあろうかと言う、大きな扉をノックする。
すると、家の中から足音が近づいてきて、「どなた?」ととても美人な女の人がひょっこりと顔を出した。ヒメのお母さんだろうか?……なんて思っていると、女の人は怪訝そうな顔でぼくを見る。それで、一気に緊張感がピークを迎えた。
「あ、あの、ぼく。ひ、ヒメ、じゃなくって、浅井さんのクラスメイトの、野崎秋人ですっ! ぷ、プリントっ、持ってきましたっ、そっ、それと、お見舞いですっ」
どもるわ、裏返るわ、カタコトになるわで、ヒメのお母さんが吹き出すのも無理はない。恥ずかしくなって逃げたしたい気持ちになってくる。すると、ヒメのお母さんは、ヒメと同じように優しく微笑んで、
「あらあら、夏音のお友達ね。わざわざありがとう。雨に濡れるわよ、さあ、上がって。ちょうどさっき、夏音、目をさましたところなの」
とぼくを洋館の中に招き入れた。素直な感想を述べるとするなら、そこは西洋のお城のような場所だった。広い玄関ホール、赤いじゅうたん、二階へと伸びる階段、高価な調度品。すべてが、ごく普通の家庭に生まれたぼくにとって、異世界のように感じられた。
ぼくは、ロボットみたいになりながら、二階にあるヒメの部屋へと通された。女の子の部屋に入るのは初めてだった。もちろん、リコの部屋には入ったことがあるけど、幼なじみだからノーカンだ。それに、ふかふかのじゅうたん、レースのカーテンや、白いタンス、可愛らしいぬいぐるみなど、それだけで、畳敷きのリコの部屋とは大違い。
「夏音、お友達がお見舞いに来てくれたわよ。野崎くん」
お母さんの言葉にヒメは、ベッドに横たわるヒメが驚きを顔一面に表して、そして自分がパジャマ姿であることに気付いて、恥ずかしそうに、布団の中にもぐりこむ。
「の、野崎くん、どうして?」
「えっと、あの、その、授業のプリントっ!」
ぼくは相変わらず上擦った声で、先生から預かったプリントを差し出した。ヒメはまた驚く。
「届けに来てくれたの?」
「う、うん。それと、浅井さんの様子を看に来たんだ。病気、大丈夫?」
妙にドギマギしちゃって、ぼくは部屋の真ん中で立ち尽くしてしまう。本当は、先生に命じられたからなんだけど、それは隠すことにした。
ヒメは、そんなぼくの内心のたくらみは知らないで、布団の中から顔だけ出して、何故だか嬉しそうに笑う。
「ありがとう、野崎くん、嬉しい」
あの時と同じ、鈴のなるような声。とても透き通っていて、ぼくの心に染み渡っていき、そのまま、溶けてしまいそうになる。きっと、ぼくは耳の端っこまで真っ赤になっていたんだろう。
そんなぼくとヒメの姿を、微笑ましく見つめながら、ヒメのお母さんはわざわざぼくのために、とても美味しい紅茶とお菓子を出してくれた。紅茶に含まれるポリフェノールには、気分を落ち着かせる効果があるらしい。もっとも、その頃のぼくはそんなことは知らなかったけれど、紅茶の香りに、ほどなくして落ち着きを手に入れることが出来た。
ヒメの様子は思ったよりも元気そうだ。夏風邪でもこじらせたのだろうか、なんてぼくが思っていると、
「夏が近づくと、いつも調子が悪くなるの。お医者さまは、奇跡でも起きなきゃ治らないような、とても難しい病気なんだって、教えてくれた。だから、お祖父さまのいる、空気のいいこの街に引っ越して来たの。少しでも、病気の薬になればってね」
と、ベッドの上で上体を起こしたヒメは、ぼくに話してくれた。
「重いの?」
「わかんない……でも、時々ものすごく息苦しくなって、発作で体が動かなくなって、もしかしたらこのまま死んじゃうんじゃないかって思うときもあるの」
可愛らしいピンクのパジャマの胸の辺り、小さなリボンを押さえながら、ヒメの横顔に翳りがさす。そんなヒメの顔を見るのは初めてだったし、いつも朗らかな彼女らしくないと思ったぼくは、
「じゃあ、ぼくが浅井さんの病気を治してあげる」
と、根拠のないことを口走ってしまった。ヒメの悲しそうな顔を見たくないと言う一心で、ほとんど衝動的に。だけど、ヒメは再び嬉しそうに微笑んでくれた。
「ありがとう……! ホントはね、わたし、野崎くんに嫌われてるんじゃないかって、思ってたの」
「え? そんなことないよっ」
「ホントに? だって野崎くん、いつもわたしのこと避けてるみたいだったから……」
「それはっ」
言いかけた口がこもる。それは、ぼくがヒメのことを好きだから、なんて言える筈もなくて、舌を噛みそうになりながら吐き出した言葉は、
「嫌いなわけじゃないよ、だってぼくたち友達じゃないか」
という、あまりにあいまいな言葉だった。すると、ヒメは白い手の小指を差し出して、
「じゃあ、約束。いつか、野崎くんがわたしの病気を治してくれるって」
屈託のない笑顔をくれる。この部屋にはぼくとヒメしかいない。つまり、その笑顔はぼくだけにくれたもので、その「ぼくだけ」というところが一番重要だった。
ぼくは、ヒメの細い指に自分の小指を絡めた。
「指きりげんまん、嘘ついたら、針千本のーますっ! 指切った!!」
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