6. あの夏の日へ
二十年目の再会に話したいことは沢山あった。リコは木陰で絶えず口を動かしていたし、ぼくも絶えず相槌を返した。話すことは、あの頃のこと、そして今のこと。変化に乏しい田舎の町でも、それなりに二十年と言う歳月がそこには確実に存在していた。
例えば、良く三人で遊んだ遊具のない児童公園は、今ではマンスリーマンションになっているしい。こんな田舎で、マンスリーマンションを借りる人なんていないだろうに、とリコは苦笑する。反対に、かつて我が家があった場所は今も健在で、二十年の間に何人かの手に渡った後、現在は空き家となっている。秘密基地を作ろうとした野原は、今でも子どもたちの格好の遊び場だし、草すべりをして誰が一番速いか競い合った土手は、護岸工事が行われ、草すべりは出来ないものの、見違えるようにきれいになったらしい。
そんな話を聞きながら、ぼくとリコとヨンちゃんの三人で駆け回り、毎日が楽しくて仕方なかったあの頃がとても懐かしいと、郷愁に胸詰まらせるのは、もう充分に歳をとったということなのだろうか。高齢社会である現代において、三十歳なんて、まだまだ青二才だと思うけれど、その反面、あの夏の日にまだ十歳だったぼくらからすれば、二十年後なんて、遠い遠い未来だった。
「でも、どうして突然、ここに帰ってきたの? まさか、幼なじみの顔を見るためだけってワケでもなさそうだし……」
昔から、カンの鋭いリコは不意に、ぼくの顔を覗き込んだ。まるで推理小説探偵がするように、疑いの眼をぼくに向けてくる。いつか、リコからもその質問が来ることは予期していた。
「いや、不意に時間が出来るとさ、暇をもてあましてしまうもので、つい望郷の念に駆られたんだよ。そんで、ちょっと想い出に浸りたかった、それだけだよ」
「望郷の念ねえ……、それにしては、ボストンバッグは荷物なんじゃない?」
言い訳がましく聞こえるぼくの科白は、ごまかしの聞かないリコには通用せず、その瞳はぼくのボストンバッグに注がれる。確かにその指摘は的を射ている。「ちょっと」と言う割には、旅行鞄は大きすぎる荷物だ。
さらに、リコの眼が光る。
「それに、ずっと浮かない顔してるわ。何もなかったってワケじゃなさそうね。さっきは忙しいって言ってたのに、今度は暇をもてあますなんて、矛盾しているわ」
「リコは、相変わらずだな」
「何よそれ。答えになってない」
「ヒトの嘘を見抜くのが得意だってことだよ……」
そういいながら、ぼくは重たい溜息を吐き出した。夏の景色に似合わないどんよりとした色の溜息は、すぐに風に吹き飛ばされ、セミの鳴き声にもみくちゃにされ、照りつける日差しに洗われる。
「いろいろあるんだよ、大人には。分かるだろう? リコだってガキじゃないんだ」
「いろいろ、ねぇ。それは、二十年ぶりに再会した幼なじみを心配する、わたしにも言えないようなことなの?」
リコはあの日と変わらない真っ直ぐな瞳でぼくのかを見つめる。ぼくは、先生に嘘を見抜かれた子どものように眼を泳がせつつ、視線を逸らした。
どう説明すればいい? 笑い話にも出来ないようなことを、せっかくの再会の場で語るべきじゃないことくらい分かっている。それに、相手が幼なじみだからこそ、余計に弱音を吐きたくないという、変なプライドが鎌首をもたげてもいる。
「幼なじみの顔を見たくなったっていうのは、嘘じゃないよ、半分はね」
「半分は? じゃあ、残りの半分は何なの?」
「残りの半分は……世界樹」
ぼくは立ち上がり、問題のボストンバッグを手に取り、食い下がるリコに、その言葉を告げた。すると、リコは驚きと怪訝が混じったような複雑な顔をしながら、「世界樹……」と繰り返す。
「もう一度、あの場所へ行きたい。自分が、見つめていた未来がなんだったのか、それを確かめたいんだ。そうじゃなきゃ、道を見失った自分が何のために在るのか、それが分からない」
ぼくの視線は真っ直ぐに、空の彼方をみつめた。白い雲を浮かべた、突き抜けるような空の青さに、少しだけ眼が眩む。
「ねえ、シュウくん。ひとつだけ訊いてもいい?」
リコも立ち上がる。あの頃は、ぼくより少しだけ高かった背も、いつの間にか、頭ひとつ分以上、ぼくの背丈の方が高くなっている。リコは、ぼくの返答を聞く前に続けた。
「シュウくんが、お医者さまになったのは、ヒメのことがあったから?」
医療ミス。常に、医療従事者が危惧し続ける問題だ。医学と言うのは、とても難しい学問であり、手段である。人の生命は、その身体・精神を問わず、非常に難解な存在であり、そこに宿る病や怪我も同様といえる。「医は仁術」と言い、人倫の限りを尽くして患者に相対しても、救うことが出来ない場合もある。つまり、人の命を救うと言うのは、文字で書いたり、言葉にするよりも、もっともっと難しいものなのだ。だから、患者を救うことが出来なかったとしても、それをすべて医療従事者の責任としてしまうことは出来ないし、そのことは誰だって分かっている。
だけど、それがもしも人為的なミス、「ヒューマン・エラー」だったとしたら、医者の失敗で愛する人を失った患者の遺族は、納得できるはずがないだろう。
それでも、ぼくは医者だ。「ゴッドハンド」「スーパードクター」と呼ばれるような凄腕の医者ではないにしても、人の命を救う方法を知っている。そして、その方法を知るものとして、救える命を助けると言うことは、使命と同じだった。その一心で、看護師さえも苦言を呈するほど、無我夢中で、一人でも多くの患者を受け入れて、命を救おうとした。現実に聳える、医師不足などの現代医療問題に立ち向かうと言うことではなくて、それがぼくに与えられた使命だと思っていた。
その結果、ぼくは自分のキャパシティさえもわからなくなり、忙殺されて、判断ミスを犯し、一人の少年の尊い命を失ってしまった。
「医者が自らのエゴイズムで、患者を死なせるようなことがあれば、それは殺人となんら変わりはない」
医大生だったころ、ゼミの教授がぼくたちに教えてくれた言葉だ。医者のエゴイズム……ぼくの使命は、エゴイズムだったのだろうか?
津田幸浩くんのお母さん、美幸さんは愛息子の死を知って、絶望に泣き叫び、半狂乱になりかけた。平沢さんがなだめてくれたおかげで、センター長が送ればせながら救急救命センターに到着した頃には、落ち着きを取り戻していたものの、彼女の心には、判断ミスを犯し、息子を死に至らしめたぼくに対する、憎しみと悲しみが渦巻いていたに違いない。
それから、美幸さんがぼくを「医療ミス」で訴えると、大学病院に知らせた。大学病院の教授や院長たち幹部は騒然となった。幹部は諮問委員会が開き、ぼくに弁明を求めて来たけれど、ぼくに弁明の余地などなかった。
「センター長の指示も仰がずに、キミが一度に三名の患者を引き受けられるかどうかも図らなかったことは、無理な引き受けだったとは思わないのかね?」
幹部の一人がぼくを糾弾しても、ぼくはただ黙ったまま、罪の意識にうつろになりかけていた。そう、あれはすべてぼくの罪なのだ。それが分かっているから、何の反論もあるはずがなかった。諮問委員会は、ぼくの処分と裁判に対する対応を一週間後に下すとして閉会したものの、それからの日々は、院内の誰からも後ろ指を指され、針のむしろに正座させられているような気分だった。
「良くある話さ。次々に運び込まれている患者を助けるうちに、自分は何でもできる、すごい人間なんだって、勘違いするのさ。やがて、それが快感に思い始めた頃、現実にぶつかる。良くある、医者が陥るレトリック。ちょうど、野崎はそれに陥ったんだよ」
「まあ、これで、野崎先生が何処か行ってくれたら、この救命センターももう少し平和になるでしょうね。そうしたら、七尾先生が次のセンター長ですか?」
「いやいや、よしてくれよ。俺は、充分身の丈をわきまえているよ。それに、今は、医療ミスしたのが俺じゃなくて良かったって、ホッとしてるところ」
笑い声とともに、陰口にもならないような、同僚の七尾先生と看護師の会話を耳にする。いたたまれない気持ちになっても、逃げ出すわけには行かない。
そういう気持ちは、平沢さんも同じだったんだと思う。
「あの時、わたしが『行ってください』って言わなかったら、幸浩くんは助かったかもしれないのに……」
まるで、自分を責めるように平沢さんはぼくに言った。いつもの明るく元気な彼女の姿はどこにもなく、今にも泣き出しそうな顔を見るのは、もっといたたまれなかった。
「いや、平沢さんのおかげで、あの心筋梗塞のお爺ちゃんは助かったんだ。もしも、あの時処置室に残っていれば、どちらかの命は失われた。だから、すべては気道熱傷を見抜けなかったぼくのミスだ。平沢さんは気に病むことなく、いつも通り笑っていてくれ。その方が、患者さんたちも早く元気になる」
「先生。わたし、先生と一緒にこの仕事がしたいんです。先生は、ここをやめたりしませんよね?」
その問いかけに、ぼくは答えを濁した。一週間後、大学病院はぼくの解雇を決定し、かつ、事態を穏便に済ませるため、多大な示談金で津田美幸さんから、告訴を諦めてもらうことにした。そうなることは分かっていた。だから、平沢さんの問いかけに、はっきりと答えることが出来なかったのだ。
ミスを犯し人の命を救えなかった、愚かな医者を見送ってくれる仲間などいない。ただひっそりと、静かにぼくは大学病院を立ち去った。すぐに、学生寮のようなアパートを片付けて、その足でぼくは、二十年前の故郷へと旅立った。
贖罪の旅? いや違う。罪に苛まれ、絶望した失意のぼくは、道を見定めたかった。このまま歩き続けることは出来るのか? それとも、もうこの先に道はないのか。その答えをくれるのは、きっとあの日の思い出だと、心の中で反芻し、故郷に来たのだ。二十年前のあの暑い夏の日の出来事を辿るため、「世界樹」と呼ばれたあの場所へ……。
リコの問いかけに、ぼくは答えなかった。正確には答えられなかった。リコは、困ったような顔をしてぼくのことを、不安な色をした瞳で見つめていたけれど、その視線に耐えることは出来そうにもない。泳ぐ視線は、校舎の壁面にかけられた大きな時計にたどり着く。すでに小学校を訪れて、一時間近くが過ぎている。そう言えば、リコは仕事中だった。これ以上邪魔しちゃリコに悪い、と勝手な理由をつけて、立ち去ろうと木陰から足を踏み出した。
「おおーい、高瀬先生、そんなところで、何してるの!! 電話、電話よっ!」
ちょうどその時、教員と思われる女性が校舎の窓から身を乗り出して、手を振りながらリコを呼んだ。彼女の手には、コードレスの白い電話があった。
「今行きますっ!! 待って、シュウちゃんっ!」
リコは、同僚に返事しながらも、ぼくを引きとめようと手を伸ばす。だけど、その指先は、ぼくの袖口を掠めていく。
「しばらく、この町にいることになると思う。そのうち、また会おう」
振り向かないで、リコに言うと、ぼくはそのまま校門をくぐった。子どもたちの声と、見つめるリコの視線が、背中に降りかかる。それでも、今立ち止まれば、幼なじみに迷惑をかけるだけだ。ぼくは、後ろ髪ひかれる思いから逃げるように、かつて何度も通った小学校の坂道を下っていった。
やがて、背中に感じるものが、軽くなる頃には、小学校のふもとにある住宅地へとたどり着く。
複雑に入り組んだ路地と、軒を連ねる家並みは、多少風景に変化はあるものの、あの頃の雰囲気を残しており、記憶を辿れば、かつて目の前の曲がり角に、毎日金槌の音を鳴り響かせる工務店があったことや、道の向かいに校長先生の豪邸があったことが思い出される。
更に道を行けば現在もリコの家があり、その脇に赤いポストが目印の小さな郵便局があって、郵便局から真っ直ぐ道なりに進めば「蛍池」と名づけた小さなため池がある。ここでヨンちゃんと一緒に蛍を乱獲したのは、遠い昔の思い出。その「蛍池」のわきを抜ける路地には、住宅街に似合わない場末のスナックがある。
そして、スナックを右手に通り過ぎると、突き当たりに交番のある曲がり角で、道は二つに分かれる。右に進めばかつての我が家がある。昭和の風情をたっぷり残した、木造平屋の赤い屋根の家。ひと目、我が家を見ておきたいと思ったものの、夕方の約束のことを思い出し、頭を振る。
「今は、それよりも」
と、内心に繰り返し、曲がり角を左側に曲がった。
二十年の歳月で変わったもの、変わらないもの、それらが混在した街並みは、温かくも懐かしくぼくを包み込むようだった。やがて、そんな路地を抜けると、眼前に森と一軒の洋風の民家が、ひっそりと建っていた。
他の民家とは明らかに一線を画する西洋風の白壁にはツタがまとわりつき、屋根瓦は色あせてツヤを失い、「ガーデン」と呼ぶのが相応しい庭は荒れ放題。窓と言う窓には色あせたカーテンがかけられ、中の様子を確認することは出来ないが、どうやらこの家は空き家となって久しいらしい。それが証拠に、豪奢な飾りのついた格子の門扉には、いまもぼくの知る、以前の住人の表札が掲げられている。
「浅井」
その苗字を見るだけで、胸がキュッと痛くなる。浅井夏音……忘れることの出来ないその名前が、ぼくの胸を締め付ける。
そう、ここが、ぼくの人生の始まりの場所。
そして、ここからぼくたちの旅は始まった。
今日みたく青い空が広がり、熱気を帯びた風がそよぐ、それはとても暑い夏の日。空を仰ぎ、瞳を閉じれば、その日のことが、今でも鮮明に蘇る。
ぼくの意識は、二十年前の、あの夏の日へ……。
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