5. 使命の果てに
「患者氏名は、津田浩人さん三十九歳。その奥さんで、津田美幸さん三十七歳。津田さん夫婦の長男で、幸浩くん十歳。就寝中自宅階下で火災に会い、浩人さん、幸浩くんは逃げ遅れ、全身重度熱傷。父親の意識レベルは、JCS300です。幸浩くんは、JCS100。美幸さんの意識ははっきりとしています」
到着した三台の救急車から、担架が降ろされる。救急隊員の報告どおり、母親の女性き青白い顔をしてはいたが、意識ははっきりとしている。おそらく、火事のショックから立ち直れずにいるのか、目はうつろであったが、火傷も腕の一部と顔のごく一部。視診だけで語れば、淡く発赤した水泡から、浅達性と思しき軽度の熱傷だ。
しかし、問題は、次の担架だった。銀色の耐熱ビニルに包まれた息子は腕と脚の一部をひどく爛れさせてはいるものの、意識ははっきりとしいて、痛みに顔をしかめさせながら、両親の名を呼んでいる。だが、それに応えるべき父親の方は目を覆いたくなるほどの状態だった。全身の皮膚が、爛れめくれ上がり、すでにケロイドの様相を呈しているにもかかわらず、疼痛にうめき声ひとつ上げようとはせず、ぐったりとしている。
「平沢さん、すぐにスキンバンクに連絡っ!! 奥さんの方は、診療室で熱傷創クーリング! 後の二人は、すぐに処置室に運び込めっ!」
「はいっ!!」
思わず声を荒げて、看護師たちに指示を飛ばした。しかし、返事は間髪いれずに戻ってくる。それを確かめたぼくは、自ら父親の乗せられた担架を押して、処置室へと飛び込んだ。先ほどの患者、則本さんが入れ替わり、処置室から出て行くと、処置室には父子の患者がならべられる。
「まずは、重篤度の高い父親の方からオペを開始する。息子の方も常に、バイタルをチェックしろ」
「いち、にっ、さん!」
号令よろしく、父親を担架から手術台へと移し変える。すかさず看護師が銀色の耐熱ビニルを開いた。皮膚の焼け焦げた匂いが、マスク越しにつんとする。
「津田さん、服切りますね」
ベテランの看護師が消毒されたはさみを片手に、父親の焼け残った寝巻きを切り開いていく。更に別の看護師が、乳酸リンゲル輸液のための点滴をつないでいく。その手際のよさに、舌を巻いている暇はない。
麻酔の後、壊死組織の除去をはじめとする手術は開始された。すべての処置を一人でこなす、オーバーワークがぼくの肩にのしかかってくる。しかし、熱傷の治療は急性期が肝要である。感染のリスクが高く、後日の後遺症や合併症を引き起こさないためにも、最速で、かつ的確な治療を行わなければならない。
「センター長はまだかっ!?」
メスを片手に、ぼくは怒鳴った。その声に弾かれるように、平沢さんがぼくの背中に言う。
「国道で渋滞に巻き込まれたそうで、到着までまだ三十分以上も掛かるそうですっ!!」
「くそっ! 念のため、七尾先生にも応援要請。それからっ!!」
ぼくは看護師に、薬剤の指示を飛ばしつつ、オペを続けた。思い起こせば、昨日から休む間もなく、こうしてメスを片手にしている。慣れた光景、慣れた日常。それでも油断していたつもりはない。ただ、疲労の蓄積は目に見えて明らかだった。そういえばここ二日余りで、睡眠時間は何分だったか。合計しても、平均的な睡眠時間の半分にも満たないような気がした。いや、それも、あと一日のこと。休日になれば、二十四時間死んだように眠ることが出来る。それまでは、一人でも多くの患者を救わなくては……。
不意に、ライトアップされた視界が揺らぐ。足もとから、ふわふわしたとらえどころのない感覚が押し寄せてくる。それが眩暈だと気付いたときには、ぼくの体は左右に揺れていた。
「先生? 大丈夫ですか?」
患者を挟んで向いに立つ、師長がぼくの異変に気付いて、呼びかけた。
「あ、ああ。大丈夫です。ちょっと目の前が眩んだだけです」
「先生、全然寝てらっしゃらないんじゃないですか? 目の下、クマが出来てますよ」
「患者を目の前にして、今更そんなこと言えないでしょう」
笑っては見せたが、疲労に体が限界を訴えているような気はしていた。それでも、手を休めることは出来ない。額には脂汗が浮かび、気を抜けば再び眩暈が襲い掛かってくるかもしれない恐怖に、ぼくは必死で耐えた。
「引き受けなきゃ良かったのよ」
一瞬部屋がしんと静まり返る。その緊張感を帯びた空気の間をぬって、誰かの声がした。ひっそりと、ぼくの耳には届かないように呟いたつもりだろうが、あいにくはっきりとぼくには聞こえていた。
「じゃあ、何か。見捨てれば良かったとでも言うのか?」
ぼくは振り向かないで、その声の主に問いかけた。声の主は、少しだけ驚いたように息を呑むと、鋭い視線をこちらに向けてくる。
「でも、野崎先生。完全にウチのセンターじゃ、キャパオーバーですよ。わたしたち、もう一日近く寝てないんです。それなのに、先生が勝手に何人も患者を引き受けて。このままじゃ、わたしたちの方が先に倒れてしまいますっ!!」
「だったら、今すぐ出て行けっ! やる気のない看護師なら間に合ってる。ぼくたちが弱音を吐いても、患者は待ってくれない。そんなことも分からないなら、医療なんて辞めた方がいいぞ」
食って掛かるような看護師の言葉に、ぼくは苛立ち、ありったけの棘を含んだ言葉で叱咤した。だが、それは却って火に油を注ぐ結果となり……。
「だけど、七尾先生もセンター長も仰ってました。野崎先生がキャパも考えずどんどん患者を引き受けるから、オーバーワークになってるって。他の病院では、受け入れ拒否だってやってるんですよ!」
「野崎先生の方針に口出しするの!? 救急救命センターが急患を引き受けるのは、当然のことよっ」
半ば喚くような同僚の科白に、息子の方のバイタルチェックをしていた平沢さんが声を上げた。すると、一気に処置室は、勢力が二分される。平沢さんを中心としたぼくに味方する者と、ぼやいた看護師を中心とする怒りを露にぼくを糾弾する者だ。処置室は、あっという間に騒がしくなり、言い分と言い分が交互にぶつかり合う。
ぼくは、そんな喧騒を背中に受けながら、手を休めることなく、必死に父親の処置を続けた。そんな、ぼくの姿に視線を送りながら、師長がそのざわめきを一喝する。
「平沢さんっ、みんな、やめなさい! ここは、論議の場所じゃない。目の前で苦しんでいる患者さんを助ける場所よ。野崎先生のいう通り、やる気のない人、手がお留守になっている人は、邪魔になるだけよ。今すぐ処置室から出て行きなさいっ!」
看護師たちから信頼置かれる彼女の一声は、ぼくの叱責よりも何倍もの重みをもって、平沢さんたちをしゅんとさせ、再び、処置室に静けさを取り戻す。すると、まるでそれを待っていたかのように、一人の看護師が自動扉をくぐって、血相を抱え飛び込んできた。
「大変です、野崎先生っ!! 昨日運び込まれた患者さんの容態が急変しました! 心筋梗塞で運び込まれたお爺ちゃんです」
「お爺ちゃん」と言うのは、ぼくがソファで仮眠をとる前に処置した老人のことだろう。身寄りのない一人暮らしの老人らしく、道端で胸を押さえ、倒れているのを通りがかりの人に発見されここに運び込まれた。その時すでに、倒れてから時間が経っており、何らかの予期せぬ事態になることは、大方予想していた。
しかし、両手は熱傷の処理に塞がれている。身動きの取れない状態のまま、とりあえず、師長に向うよう指示を下しながら、猫の手も借りたいと言うのは、こういうことだと心のどこかで思った。
師長が処置室を後にして、その足音が遠ざかったのを確認し、ぼくは先ほどの看護師に向って、
「怒鳴ったりして悪かった」
と、フォローを入れた。尊敬する師長に叱られた所為か、バツの悪そうにしていた彼女も、「すみません」とだけ返し、仕事に戻る。それで、すべてが上手くいくように思えた。
父親の熱傷の処置が一段落したところで、師長がぼくを呼びに来る。やはり、老人の容態が芳しくないらしい。どうしたものかと思案していると、平沢さんがぼくの方に駆け寄ってきて、
「行ってください。あと五分くらいで、センター長も到着するそうです。何かあったらすぐに知らせますから」
という。そのしっかりとした眼差しにぼくは頷いて、師長とともに処置室を後にした。
このセンターへの搬送が遅すぎた所為だろうか。師長に連れられて駆けつけたときにはすでに、病床に横たわる老人は虫の息だった。心電図の波形だけが奇妙なギザギザの波を打ち、まだ新人の看護師が恐怖にひきっつた顔で、ぼくに助けを求める。
心筋梗塞の治療には、PCIと呼ばれる、カテーテルを用いた再灌流療法を行う。しかし、ことは人間のエンジンとも言うべき心臓。心筋梗塞の致死率は二割近く、非常に死と隣り合わせな病である。特に、不整脈などの合併症を引き起こす確率は高い。そして、目の前で起きているのはもっとも最悪のケースだった。
「心室細動が起きてるっ!! ぐずぐずするな、すぐにエピネフリン投与っ! 師長、除細動器を持って来て下さい!」
他の患者に見えないように、ベッドを囲むカーテンを閉めながら新人看護師の背中を叩く。弾かれるように彼女は、師長とともに駆け出した。その間に、ぼくは老人の寝巻きをはぐり、心臓マッサージを試みる。そして、二人が戻ってくると、エピネフリンの投与量の指示を新人看護師に与えつつ、除細動器の電源を入れた。
「離れてっ!!」
パッドを握り締め、通電用のゲルを塗りこめると、それを老人の胸にあてがう。チャージが終わるとともに、パンっ! と激しく老人の体が跳ねた。しかし、心電波形は不規則で小刻みな波を打ち続け、改善が見られない。
「くそっ! もう一度。離れてっ!!」
もう一度、もう一度、と何度かの通電を試みる。諦めれば、それで終わりと、心が呼びかける。やがて、ギザキザの不整脈を示していた心電図が、ほぼ正常な心拍の波を描きはじめた。それは、危機を脱した合図。
「まだ予断は許さないな、心室期外収縮の改善は見られない以上、再度心室細動を引き起こしかねない。でも、これでひとまずは落ち着くはずだ。とにかく、キミは、この患者さんの監視を続けて。何か、異常があれば教えてくれ」
「はい、わかりました」と答える新人の看護師にとって、患者が死の淵にに直面するのを見るのは初めてだったのだろう。声は震え、目頭に薄く涙を浮かべ、それほど想いいれのある患者でもないだろうに、苦しそうな老人の顔を見つめ続けている。事務的に、義務的に病の対処を行う自分とは違い、まだ新人の彼女には患者を看る暖かな心があるのだろう。そんな彼女に対しても、無情に指示を下すしかぼくにはできなかった。
「野崎先生っ!!」
またしても突然、ひと時の安堵の空気を引き裂くように、ぼくを呼ぶ声が舞い込んでくる。あのシューズの足音は、平沢さんのものだと分かるなり、彼女は無造作にカーテンを開いた。
「すぐに戻ってください! 津田幸浩くんの容態が……!」
平沢さんは語尾を濁した。今度は、先ほど運び込まれた熱傷の患者、その息子の容態が悪化したと言うのだ。ぼくは、間の悪さに舌打ちしたくなる気分を抑えながら、師長と新人看護師に「後を頼みます」と言い残し、再び処置室へと折り返した。
「先生! 幸浩くんの呼吸が停止しましたっ」
先ほど、ぼくに食らい付いた看護師が、一転した青い顔を見せる。
「ぼさっとするなっ! すぐに、送管用意っ!! 心肺蘇生っ!」
ぼくは一体何が起きているのか状況の把握が出来ないまま、指示を飛ばす。しかし、看護師たちは皆そろって手を止め、呆然としたまま動こうとはしなかった。
「もう、間に合いません」
誰かが、ぼくに言う。心臓マッサージのため手を添えた少年の胸から、五本のコードで繋がれた心電図は、ひどく無機質な直線を描いていた。
ぼくは恐る恐る処置台に横たわる、少年の小さな体に目をやる。間に合わなかった? そんなことはないはずだ。意識は父親よりはっきりしていたし、なにより熱傷の範囲も父親より狭い。手遅れになるはずなんかなかったはずだ。なのに、何故!?
「気道熱傷……!」
頭を過ぎる言葉。少年の口元と鼻腔には、微細な黒い煤が張り付いている。それが何を意味するのか分かった瞬間、ぼくは絶望感に足元がぐら付いた。すかさず、平沢さんが支えてくれたものの、過ちを犯してしまったというぼくの後悔は、頭の先からつま先までがんじがらめにしていく。
火災による熱傷の場合、煤や熱風を吸い込んで、上気道や気管に損傷を負う場合がある。それを、気道熱傷と呼び、熱傷部位は徐々に浮腫を引き起こして、やがて気道をふさいでしまう。その結果、気道狭窄に陥った患者は、やがて呼吸が出来なくなるのだ。特に、火災による熱傷の場合、外見からは判断しにくいため、最大に注意しなければならない。
だが、気道熱傷の有無を確かめる方法は簡単だ。患者の口や鼻腔に煤や灰が付着していないかを確かめればいい。そんな初歩的なことに何故頭が廻らなかったのか……。ひっきりなしに運び込まれる患者にたった一人で、多忙を極めたから? いや、そんなことは患者にとって何の関係もない。万に一つ、見落としがあってもいけない。重篤なのは、外見上熱傷のひどい父親の方だと決めて掛かったぼくの判断ミスだ。その初歩的ともいえるミスが、一人の少年を死なせてしまったことに何の代わりもない……。
直後ぼくはその場に膝を突いて、気を失った。情けなくも、平沢さんの悲壮な呼び声にも答えることは出来ず、ただ絶望の中にわが身を横たえるほかなかった。
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