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4. リコ先生

 地蔵に拝み終わったぼくは、もう一度夏空を見上げながら、いつまでも木陰で涼んででいるわけには行かないと、ポケットに携帯電話をしまいこむ。不意に、指先に何かが触れ、カサっと乾いた音を立てた。手繰り寄せ、ポケットから引っ張り出してみると、それは一枚の紙切れ。そこには、七桁の数字が走り書きされていた。

 ああ、そうだ。これは、さっきヨンちゃんがくれたリコの連絡先だ。リコとは、二十年以上連絡を取り合っていない。同性の親友であるヨンちゃんと違い、異性の幼なじみとは、どうしても離れ離れになればそれだけの距離が開いてしまった。

 電話をかけるのは簡単だ。七桁の数字をプッシュして、リコが電話口に出るのを待っていればいい。だけど、相手の顔が見えないのは、やはり不安と緊張が過ぎってしまう。もしも、リコがぼくのことを覚えていなかったら? そんなことはないと思う反面、「もしも」は小心者なぼく胸をざわめかせる。それが、二十年間の間に開いてしまった、異性の幼なじみとの距離と言うことなのだろうか。

 そういえばヨンちゃんは、リコが「夏八木小学校」で教師をやっていると言っていたな。どのみち、小学四年生までの母校だった夏八木小学校には立ち寄るつもりだった。どうせなら、下手な緊張感に電話口でドキドキするよりも、直接二十年経った現在のリコの顔をみたい。そう思ったぼくは、木陰から炎天下へと歩みだした。小学校への道筋は、おぼろげな記憶を辿る他ない。その不思議な感覚と言ったらない。あんなに庭のように走り回った街なのに、まるで頭の中にある古ぼけた地図を頼りに、歩く観光客の気分は、違和感ばかりが募った。きっと、二十年の間に一番変わったのは、ヨンちゃんのコンビニではなく、ぼく自身なのかもしれない。

 そんな問答を脳裏で繰り返しながら、県道を跨いで、水耕田の真ん中を走る一本道へと入る。両端の水田は陽炎揺らめくほど広がり、さわさわと風に揺れる青々とした稲が海原を思わせる。例えて言うなら、この一本道は「モーゼの海道」だろうか。だけど、その行く手にあるのは「ミルクの川流れる理想郷」ではなく、夏八木町の住宅地域だ。そして、夏八木小学校は、その住宅地の中心にある小高い丘の上に、建っている。

 ぼくが通っていた頃には、まだ戦前からの木造校舎を使用していて、壁には、遠い昔の夏の日に襲来したアメリカ軍の戦闘機が機銃掃射したという、古傷が残っており、廊下も、昇降口の下駄箱、体育館、教室の黒板もあらゆるものがが使い古され、机や椅子の角は丸く削られ、年代を感じさせた。しかし、現在は同じ敷地に、新しい校舎か建っている。門扉の前にある碑を見れば、八年前に立て換えたようだ。もっとも、見た目は以前と変わらぬ木造の校舎だが、モダンに白いペンキで塗られ、部屋数も子どもの数に合わせて少なくなっているようだ。むしろ、鉄筋コンクリートのビルディング調になっていないことは、却って好印象を与えた。

「ねえ、おじさん。何してるの?」

 生まれ変わった母校を見上げるぼくの足元から、突然の声。驚きとともに視線を落とすと、ゴムボールを抱えた小さな女の子が、疑いの眼差しでぼくを見上げている。

「おじさんか……。キミのお父さんくらいの歳だもんな」

 面と向っておじさんと言われたのは初めてだ。若いつもりはないけれど、それでもまだ三十歳。おじさんといわれるのは、いささか傷つく。でも、六、七歳の女の子からしてみれば、三十の男はみな等しく「おじさん」だ。そう思って、苦笑していると女の子はますます眉をひそめる。

「おじさん、変な人?」

 急に女の子がスカートのポケットから、何やらスイッチのようなものを取り出した。それが防犯ブザーだと気付いたぼくは、あわてて女の子をなだめる。

「変な人じゃないよっ! この学校の先生にご用があるんだ。リコ先生って知ってる?」

 リコの旧姓「高瀬」と言ったところで、女の子には通じないかもしれない。今更になって結婚したリコの現姓が何なのか知らないことを思い出した。もっとも、「リコ」というのもぼくやヨンちゃんが付けた愛称だ。でもそれは、ぼくの危惧は取り越し苦労だったらしい。女の子は、そっと防犯ブザーをポケットにしまうと、少しだけ警戒心を緩めてくれた。

「リコ先生? 先生だったら、職員室にいるよ。呼んで来てあげようか?」

「よろしく頼めるかな、お嬢さん。野崎秋人って人が呼んでるって言ってもらえれば、きっと先生分かると思うから」

 ぼくが膝を折って、女の子の目線にあわせてそう言うと、女の子はぼくにゴムボールを手渡して、「待っててね!」と元気良く駆け出した。やがて、女の子の姿が校舎の中に消えると、炎天下で棒立ちするのもイヤなので、門扉の傍にあるポプラの木の下に腰を下ろした。

 右手にはボストンバッグ、左手には女の子のゴムボールを持って、木陰からぼくの知らない新しい校舎を見上げる。広さだけが自慢の校庭では、あちこちに楽しそうな声を上げて遊ぶ子どもたちの姿あった。ぼくも、ここに通っていた頃は、夏休みになるとヨンちゃんやリコたちと、ボール遊びや鬼ごっこ、かけっこをして遊んだものだ。あの頃は、炎天下なんて何のそのだったのにな。やっぱり、ぼくは「おじさん」のようだ。

 しばらく待っていると、再び昇降口から女の子が駆け出してくる。しかし、今度は女性の手を引いて。それがリコであることは、すぐに分かった。背も伸びているし、体つきも女らしくなっているとは言え、ヨンちゃんほど外見が変わってしまっているわけではなかった。

「このおじさんだよ!」

 ぼくのところまで走ってきた女の子は、ぼくを指差して言う。リコは、ぼくの顔を見るなりはっ、と息を飲んで、両手で口元を覆った。

「ありがとう、お嬢さん。でも、炎天下で遊ぶときには、暑くてもちゃんと帽子を被るんだよ。それから、汗をかいたらお水もたくさん取ること。いいね」

 ぼくは立ち上がり、預かっていたゴムボールを手渡した。すると、女の子は不思議そうな顔をして、

「おじさん、なんだかお医者さまみたい」

 という。ぼくは、さすがに「お医者さんだよ」とは返さなかった。ぼくの複雑な顔色を、子供心に感じ取ったのか女の子は不思議そうな顔をしたまま、「うん、分かったよ」と素直に返事をすると、踵を返して友達のところへ駆けていった。後には、ぼくとリコだけが取り残される。

「ホントに、シュウくん?」

 リコは、まだ驚きの顔で、瞳を僅かに潤ませていた。

「久しぶりって言うには、二十年ぶりだからね。上手い言葉が思いつかないけど、リコずいぶん綺麗になったね。見違えるほど美人だ」

「何それ。いきなり、口説き文句? そんな冗談言う男の子じゃなかったでしょ?」

 冗談や、お世辞のつもりはなく、正直に言ったつもりだったが、確かに、既婚者に言うような科白ではなかったなと、思い直す。

「まあ、そのなんだ、雰囲気は、あの頃と変わってないってことだよ」

 と、付け加えると、リコは白い歯を見せて「もうっ!」とはにかんだ。ぼくもつられて笑い出す。すると、皇帝で遊ぶ子どもたちの視線が、ぼくたちに釘付けとなった。

 どうやら、と言うか予想通りというか、リコは生徒に慕われているらしい。ぼくに向けられる子どもたちの視線は、どちらかと言えば、怪訝に「あいつ誰だろ」「何しに来たんだろ」「ぼくたちのリコ先生に何の用だろ」と、口に出さなくても聞こえてくるような気がする。しかし、リコはそんな子どもたちの視線を笑顔でかわすと、木陰に入ってきて、ぼくの隣に腰を下ろした。

「学校、あの頃と全然違うでしょ?」

「そうか? 確かに校舎は新しくなってるけど、俺たちの頃と変わらず、夏休みの校庭は、子どもの遊び場。あの頃とは変わってないと思うよ」

 そう言いながら、ぼくはリコの隣に腰を下ろし、ポプラの幹に背を預ける。子どもたちは、すでに遊びに戻っていた。必死にボールを追いかける、さっきの女の子。その隣では長縄跳び、更にその向こうでは男の子たちが、ツートンカラーのサッカーボールを追いかけている。

「何でまた突然、連絡もなしに現れたのよ」

「迷惑だったか? そうだよな、仕事中だったんだろう?」

「雑務の処理に辟易してたところ。それに、迷惑なワケないじゃない。二十年間、音沙汰なし、音信不通状態だった友達がやっと、顔を見せてくれたんだもの」

 少し怒ったような、苦笑したような、その真意の読み取りにくい、女の子特有の顔つきをリコがみせる。そう言うところは、本当に何一つあの頃と変わっていない。

「ごめん。あの時色々とばたばたしてて、そうしたら、連絡先を伝えづらくなった」

「伝えづらくなったって、わたしとヨンちゃんはシュウくんの親友で幼なじみでしょ? 何の遠慮がいるのよ。時々、シュウくんってわけの分からないことを言うのね。そうだ、ヨンちゃんには会ったの?」

「さっき。それで、キミがここで働いてることを知って、顔を見たくなったんだ」

 ぼくは何だか気恥ずかしくなって、わざと視線を逸らした。すると、リコは「まあ、嬉しい」と臆面もなく喜んだ。あまりにそれが自然体過ぎたのか、それとも、リコがぼくのことを覚えてくれたことに安堵したのか、少しだけ気持ちが軽くなった。

「子どもたちに人気の先生か。まさか、あのリコが生徒から慕われる学校の先生になるなんて思ってもみなかったよ」

「あら、それを言うならあなただって。わたしは、あのシュウくんがお医者さまになるとは思ってなかったわよ」

「そう言えば、結婚してるんだね。今更だけど、おめでとう」

 医者というワードをあからさまに避けるように、ぼくは話題を逸らした。そればかりだ、今日のぼくは。と、自嘲気味に思っていると、傍らのリコ顔に、翳りがさす。睫毛まつげを伏せがちに下を向くリコの横顔に、ぼくは言い知れぬ不安感に包まれた。そのイヤな予感は往々にして当たるもの。

「リコ?」

「結婚してた……ってのが正解かしら。もう二年前になるわ、いろいろとあってね、離婚したのよ。今は、実家にお父さんとお母さん、それに息子と娘の五人で暮らしてるの」

「あ、いやっ、ごめん! 知らなかったっ」

 慌てて、訂正の言葉を捜したけれど、そう簡単には思いつかない。ずっと、あの薬と血のにおいしかしない建物の中で、毎日運び込まれる患者を見ていれば、人付き合いに大切な何かをどこかに忘れてしまったような錯覚に陥る。それが、悪い方向で体現してしまった瞬間のように思えた。

 だけど、リコはニッコリと笑って、

「気にしないで。大人になれば色々とあるのよ、そういうものでしょ? それに、内緒にしておくようなことでもないし。学校の子どもたちもみんな知ってることよ。それでも、息子と娘はわたしの傍にいてくれるし、生徒たちはいい子ばかり。いまが、とても幸せ」

 と、却って気を使わせてしまう。

「それより、シュウくんはどうなの? お仕事は順調かしら、野崎先生。恋人は? 結婚は?」

「全部ノーだよ。恋人なんて作る余裕がなくて、毎日忙しくしてた。楽しみと言えば、寝ることくらいかな。あと、看護師がたまに気まぐれで入れてくれる、苦いコーヒーを飲むこと。目が覚めるんだよ、カフェインたっぷりでね」

 冗談めかして言ったが、本当に楽しみなんてない。毎日をただ忙しくしているのが当たり前のように思っていた。ただひたすらに、眠い目をこじ開けてでも、一人でも多くの患者を救うことが、使命だと思っていたのかもしれない。こうして、のどかな時間を木陰で、幼なじみとともに過ごすなんて、思いもしなかった。その使命が空回りし始める、今の今まで……。



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