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3. 木陰の地蔵

 七月二十五日、午前二時。バイク事故で、右脚の脛骨(けいこつ)を開放骨折し、湾南大学附属病院救命救急センターに運び込まれた患者、則本マサキさんに対する手術は一時間もしないうちに、完了の運びとなった。

 レントゲン撮影の結果、脛骨が単独骨折しているに留まり、また外側(がいそく)に位置する腓骨やきん組織を傷つけていないことなどから、所謂金属板などのインプラントを用いた内固定(ないこてい)ではなく、汚染組織の洗浄・除去「デブリドマン」を行った後骨折箇所の観血的整復術及び、ギプスによる外固定(がいこてい)を行うだけの、単純な手術でこと足りた。

 心電図に映し出される心拍数は安定しており、あとは傷跡の縫合と簡易固定を終えれば、処置は完了する。その時だった。処置室の壁にすえつけられた、電話のランプが赤く光り、外線を知らせる。すかさず、平沢さんが電話口に駆け寄り、受話器を取った。

「こちら、湾南大学附属病院救命救急センターです!」

 舌を噛んでしまいそうな長い名前を、平沢さんがスラスラと言ってのける。それを聞きながらも、ぼくは針を操って、患者の傷口を縫合していく。

『こちら、湾東(わんとう)消防局。急患ですっ。患者は三名。二人は夫婦、もう一人は十歳前後の男の子。自宅の火事によって、奥さんは軽度の熱傷(ねっしょう)。旦那さんと男の子はひどい全身熱傷を負っています』

 外部スピーカーから、救急隊員の声がこだまする。看護師たちはみな、色めきたった。すると、どよめきを収めるかのように、平沢さんが受話器に向かって、

「現在、当センターには医師が一人しかいません。申し訳ありませんが……」

『お願いしますっ。すでに五件の病院に断られ、患者の容態は悪化の一途を辿っています』

「ですが……」

 平沢さんは困ったようにぼくに視線を投げかけた。非番の夜に無理矢理叩き起こされたセンター長のいない今、その判断をするのは、医師であるぼくに一任されているということだ。

「受け入れろ。見捨てるわけには行かないだろう。則本さんの処置はもうすぐ終わる」

 ちょうど、その時、縫合が終了する。糸を切るパチンっと言う音にあわせて、平沢さんはぼくに頷き返すと、

「患者三名、受け入れます。直ちに搬送してください」

 と受話器の向こうにいる救急隊員に向って言った。

「完全にキャパシティ・オーバーですよ。大丈夫なんですか? 三人も受け入れて」

 助手を務める、ベテランの看護師長が、帽子とマスクの間から眉をひそめて、ぼくの顔を見る。

「トリアージしろって言うんですか? 災害じゃないんですよ。それに、センター長も駆けつけて来てくれています。二人で手分けすれば、なんとかなりますよ」

 ぼくより、経験も年齢もはるかに上を行く看護師の視線に威圧を感じたが、考えを変えるつもりはなかった。

「平沢さん。センター長に連絡。警察にキップ切られてもいいから、急いで来てくれって伝えてくれ」

 師長の上を通り過ぎるように、ぼくは平沢さんに命じた。「はいっ!」と良く通る声で返事した平沢さんは、シューズのかかとを踏み鳴らして、処置室を出て行く。

「わたしが心配しているのは、野崎先生のことです。もう何日も、ロクに寝てないんでしょう? 倒れられては、困るんです」

 溜息とともに、師長の口から返って来たのは意外な言葉だった。

「大丈夫だ。人間そう簡単にはぶっ倒れたりしませんよ」

 マスクの下で笑って見せたが、それが安請け合いの空元気だということは、自分が一番良く知っていた。そのことは、ベテランである彼女にも分かっていたのか、ぼくの顔を見て、もう一度だけ溜息をついた。


 人口密度より、水耕田の枚数の方が圧倒的に多いこの街は、県道沿いにもかかわらず、家屋はまばらだ。確かに、二十年前には存在していなかった建物や、住居も見られるが、おおよそ数えられるほどしかなく、ヨンちゃんが「発展とは縁遠い」と言ったのは、誇張した表現ではないことを思い知らされる。それは、却って、ぼくの胸のうちにある少年時代の記憶を呼び覚ませ、懐かしさに浸るにはうってつけだと言える。

 だからと言って、この街が、あの大学病院のある都会に比べて、涼しいというわけじゃない。夏の日差しは、容赦なくぼくを焦がし、ヨンちゃんのコンビニから五分も歩けば、五百ミリリットルのお茶の水分なんて、あっという間に汗に変わってしまう。

 はあ、とぼくは溜息をついて、恨めしく空を見上げた。帽子をかぶってくればよかったかな、とおもっても後の祭りだ。ボストンバッグには最低限の着替えと生活用品しか詰めてこなかった。後の荷物は……。

「うわっ!」

 突然、ポケットの中の携帯電話が着信を知らせ、ブルブルと震えた。思わず、声を上げながら、手近な道の脇に生えた老木の木陰に入ると、ぼくは慌ててポケットから携帯電話を手繰り寄せた。ディスプレイに映し出される着信相手の名を確認して、受話器を耳に当てる。

『先生! 約束の時間はとっくに過ぎてますよ! もしかして道に迷われたんですか? 方向音痴だなんて、聞いてませんよっ!!』

 鼓膜に突き刺さるような、甲高い女の声が飛び出してきて、反射的にスピーカーを耳から遠ざけてしまう。

「いや、すみません。道に迷ったわけじゃないんです。駅を降りたら、妙に懐かしくなってしまって、ちょっとブラブラしてたんです」

 言い訳だが、事実は事実として話す。本当は、約束の時刻に間に合わせるつもりなんて、これっぽっちもなかった。ぼくがこの街へ来た、本当の理由はとりあえず「保留」としておきたかったのが、正直なところ。

 要するに、あれから一ヶ月も過ぎていると言うのに、現実を受け止めることが出来ず、ぼくはまだ地に足をつけられずにいる。逃げ出したいとさえ思うこともある。瞳を閉じれば、まだそこに熱を持って存在しているかのような恐怖と絶望に、地面さえ不確かになって、両足がフラつく。そんな崩れかけの心を整理したい。おそらく、それが出来るタイミングも時間的な余裕も、今を置いて他にはないだろう。この街へやって来たのは、そういう意図もあってのことだった。

 ただ、熱心な電話口の相手には、口が裂けてもそのことは言わない。単にぼくのわがままだから。だけど、電話口の相手はぼくの意図に気付く様子もなく、少しだけ声のトーンを落とした。

『そういえば、夏八木町は、先生の故郷でしたね』

「ええ。とはいっても、十歳まで暮らした街ですから、厳密に故郷と呼べるかどうか……」

『いえ、故郷ですよ。寒村ですが、あなたのような方に来てもらえたことは、きっとこの街があなたを導いたんですよ、野崎先生』

 電話口の相手が、柔らかく笑ったような気がした。直接顔をあわせたことがあるのは、一回きりだ。ぼくより少しだけ年上で、少し歯の出た独特の顔付きに良く似合う、ネズミのような矮躯。やせぎすで、お世辞にも美人とは言いがたいが、ちょこまかと忙しなく動き、良く廻る口と手足のおかげで、ぼくは「神経質な女性」というあまり芳しくない第一印象しかもてなかった。

 もちろん、それはぼくの勝手な印象の持ち方で、外見だけで判断するのは、医師として失格だと言い換えてもいい。実際の彼女は、仕事のできる女性で、周りからも信頼の厚い人物なのだ。

「そう言ってもらえるのは、ありがたいことです。それで、荷物の方は、どうなりましたか?」

『荷物は、業者さんが夕方までに運んできてくれるようになってます。だから、後は先生の到着を待つだけなんですよ』

「何から何まで、ご迷惑ばかりかけてすみません」

『遠慮はしないで下さい、野崎先生。無理を言ってるのは、こっちの方なんですから』

 無理ではない。ぼくの方こそ、ありがたいと感謝こそすれ、ふんぞり返るようなことは出来ない身分であるにもかかわらず、相手のやさしい口調に、ぼくは「じゃあ……」言いかけた。

『なんですか? なんなりと申し付けてください』

「ご無理ついでに、ひとつだけぼくのわがままを聞いていただいてもいいですか?」

 と、切り出すと、相手は少し驚いたようだ。

『わがままってなんですか? 大概のことには応じられますけど、限度が……本年度予算の計上もすでに決まっていることですから』

「いやいや、お金の相談じゃないですよ。それについては、合意したじゃないですか。それでも、ぼくには多いくらいです。感謝してます」

『じゃあ、なんですか?』

 訝るような、探るような声音に、ぼくは思わず苦笑した。

「もうしばらく、この街を一人で歩いてみたいんです。望郷っていうんですかね、二十年ぶりの故郷で懐かしさに浸りたいなんて……」

 そう答えると、電話口がしんと静まり返る。あまりにも突拍子もないことを言ったつもりはないが、すでに午前十時半の約束を、三十分も遅刻しているわけで、相手にも予定や都合というものがあるだろう。それに、ぼくはわがままを言える立場でない。

 前言撤回しようと、口を開きかけると、電話口の向こうでクスクスとかみ殺した笑いが聞こえてきた。

『意外とロマンチストなんですね』

 言っている意味が良く分からなかったが、彼女にはウケたのだろうか。

『いいですよ。どうせ、挨拶は明日になるでしょうし、荷物が届く夕方までにこっちへ来てもらえば。それまで、じっくり街を練り歩いてみてください。面白いところも、観光名所もありませんが。何なら、街に詳しい者に案内させましょうか?』

「いえ、大丈夫です。昔の記憶を辿ってみます」

 意外にすんなりとわがままが通ったことに驚きつつも、ぼくは彼女の提案を丁重にお断りした。

『それじゃ、夕方に、町役場までお越しください』

 と、電話が切れる。まだ、電話口の声がキンキンと鼓膜を叩いているような錯覚を覚える。そのくらい、彼女の声は金属音のような甲高さを誇っていたのだ。

 ぼくは受話器を切ると、小さく溜息をついて、木陰からもう一度空を見上げた。枝葉が、夏の風に揺らめき、木漏れ日が降り注ぐ。ふと目をやると、老木の傍に小さな地蔵が立っている。お供え物はないが、色あせていない赤布の前掛けは、きっと近所の誰かが熱心に付け替えているのだろう。思えば、この地蔵も、二十年前からこの場所にあった。あの頃は、そこにあるのが当たり前の、風景の一部でしかなく、気にも留めたことがない。

 ぼくはそんな地蔵に、手を合わせると、小さな声で、

「ただいま」

 と、告げた。それは、地蔵に向ってだけ言った言葉じゃなく、この街に向かって言った「ただいま」だったのかもしれない。

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