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28. ヒメからの手紙

 リコから手紙が来たのは、引越しから一週間ほどしてからだった。転校先の新しい学校になかなか馴染めなかったぼくは、故郷からの手紙に嬉しさで胸を一杯にした。

 だけど、その文面に書かれていたのは、目を疑いたくなることだった。ヒメが五日前、静かに息を引き取ったと、涙でところどころ滲んだ文字。すぐには信じられなかった。だけど、冗談で、初めての手紙にそんなことを書くとも思えなかった。

 確かめたい、そう思ったところで夏八木はすでに遠い街だ。小学生のぼくには、電車に乗るだけのお金も、歩いていくだけの体力もない。両親を探してヒッチハイクしたり、野宿したりする、ぼくと歳の変わらない姉弟が旅をする小説を読んだことがあるけれど、ぼくにそんな勇気はなかった。そもそも、毎日のように顔をつき合わせていた幼なじみの家の電話番号も知らない。

 ヒメの突然というか、あまりにもあっけない死の真偽も確かめることも出来ず、ただやきもきするしかない、ただ悲しみにくれるしかないことに、ぼくは胸が張り裂けるような思いがした。

 初めて恋をして、大好きになった女の子のことを助けようと、世界樹の葉を採りに行ったのに。あれがあれば、どんな病気だってたちどころに良くなるはずなのに。やっぱり神さまなんてこの世にいないんだ! リコからの手紙を読みながら、悔しさに震えた。

 ヒメの病気は重篤な難病で、現代医療の術を以って治すことなどできないことも、世界樹の葉っぱが万病に効くというのは、ただの言い伝えで、その葉っぱはただの榊の木の葉っぱであることなんて、その時のぼくは知る由もなかった。

 遠い街で、初恋の終わりと、世界樹への旅はムダだったと、自分の無力を痛感しながら、惰性のような日々がはじまった。

 もともと、少しばかり人見知りしたり、留守さんが感心しないと言った「大人のような口ぶり」が災いしたのか、それとも、田舎っ子が都会に戸惑っていただけなのかはわからない。両親は、都会に引っ越してから共働きになり、忙しい毎日を送っている。時には、顔をあわせないこともあった。学校から帰るとリビングのテーブルに、『今日は遅くなります。夕飯は冷蔵庫の中。母より』という簡素な書き置きがあるだけ。

 友達も出来ず、都会の忙しなさにも慣れず、何も喋らないでも一日を過ごすことが出来る日々が、幾日も過ぎていった。

 リコが言った「シュウくんが、お医者さまになったのは、ヒメのことがあったから?」という言葉。あれに答えるなら、半分はそうだといえるのかもしれない。ヒメを救えなかったことは、大人へと成長しても遺恨のまま、胸の奥に刻まれていた。ヒメを救えなかった反動は、一人でも多くの病に苦しむ人たちを、この手で救いたいという願望に変わって行った。

 残りの半分は、都会での生活がそうさせたというべきだろうか。友達もいない、鉄とコンクリートに囲まれた都会では、夏八木のように遊びまわる場所さえもない。でも、何もしないでいると、頭の中にヒメの顔が浮かぶ。はじめてみたときから好きになった春風のような笑顔と、発作に苦しみぼくに手を伸ばし、「助けて」というヒメの顔。思い出せば、何度だって胸がきつく締め付けられて、痛くなる。それを振り払うかのように、ぼくは勉強に没頭するようになった。医者を目指すようになったのはそのころからだった。

 勉強をしていれば、あの日のように両親に心配をかけることもない。そう自分に言い聞かせて。そうして、無味乾燥した都会の喧騒の中で出来上がったのは、何の面白味もない、無口で笑わない少年だった。少年は、都会の中学、高校と進学し、あいも変わらず友達も出来ないまま、医科大学へと進んだ。医者になる。ヒメの分まで、多くの人を助ける。半ば強迫観念のような思いを抱えたまま。

 確固たる信念や、欲があるわけじゃない。あの日の記憶が、思い出が、ぼくを突き動かしては、振り向く余裕も与えなかった。医者になり、湾南大学の救命救急センターに就職し、ヒメの笑顔を忘れるためだけに、無我夢中で患者を救った。いや、救われていたのは、きっとぼくの方だ。病や怪我の苦しみから、患者を解放するたびに、ヒメの顔を思い出さずに済む、世界樹への旅を忘れることが出来る。多忙に慣れていく体と心は、それに浸り、毎日が猛スピードで過ぎるのが、自然なことのように思い始めた。

 それでいいんだ、そうじゃなきゃ、ぼくはヒメにどんな顔をしたらいいのか分からない。ヒメはぼくに助けを求めた。でも、好きな女の子に何もしてあげられなかっただけじゃなく、最期の一瞬にも、傍にいてあげられなかった。それが、人生で最初の罪だ。

 そして、第二の罪は、強迫観念のような思いだけで、同僚たちにオーバーワークを課して、さらに自らの医療ミスで、一人の少年の尊い命を奪ったことだ。

 二つの罪は、ぼくの肩に重くのしかかり、路を見失った。どうしていいのか分からない。何のためにぼくは医者になったのか、これからどうして行きたいのか、分からない。それが第三の罪だった。

 三つの罪を抱えたまま、世界樹のもとまでやって来た。いくつかの再会を経て。この場所が、十歳からの二十年のぼくの人生が始まった場所だと思うからだ。始まりの場所に来れば、あの日ぼくが何を思い、幼なじみと初恋の人と別れ別れになった後、ぼくが何処へ行こうとしたのかを思い出すことが出来ると思った。忘れようとした、ヒメの顔を、あの日の旅を思い出すことが出来ると思った。

 だが、弱いぼくは、何も思い出せない。なにも思い至らない。結局、足踏みをしたまま、前に進めない。この暗闇のトンネルを抜け出すことも出来ない。


「シュウちゃんが、街を出て行った後も、俺とリコちゃんはお前の代わりに毎日ヒメの様子を伺いに行ったんだ」

 ヨンちゃんがぼくの方を見て言う。それは、ぼくの知らないことだった。

「ヒメのお祖父ちゃんに追い返されるといけないから、ヒメのお母さんに裏口から上げてもらって」

 と付け加えるのは、リコだ。

「あんまり調子は良くないみたいだったけど、俺たちが見舞いに来ると、ヒメはいつも決まって笑顔を見せてくれた。ああ、シュウちゃんはこの笑顔にやられたんだなって、思ったよ。贔屓目でみなくても、ヒメはとてもいい子だった」

「やられたって……。まあたしかに、ぼくはヒメのことが好きだった。遠い昔の話さ。でも結局ぼくは、ヒメを救えなかった。だから、二度とあの笑顔を見る資格なんかなかったんだよ。それだけのこと」

 ぼくは自嘲気味に笑ってみせる。思えば、こういう笑い方を覚えたのも、都会に引っ越してからだった。心底笑うことなんて、二十年来ないままだ。

「それだけのこと、じゃない。ヒメは、本当はお前に感謝してた。この木の葉は、ただの榊の葉だけど……」

 と、ヨンちゃんが背後の世界樹を振り返る。

「ヒメにとっては、間違いなくお前がくれた『世界樹の葉』だったんだよ」

「ヒメはね、最期の日。シュウくんから貰った『世界樹の葉』を握り締めて、静かに息を引き取ったそうよ。ヒメのお母さんから聞いたことだけど、とても安らかな顔をしていたって」

 リコも世界樹の方に振り返った。

「世界樹の葉は、ヒメを病気から救うことは出来なかったけれど、最後の苦しみからは解放した。それだけでも、わたしたちがここに来た意味はあった。シュウくんが、ここを目指した意味はあったのよ」

 リコがぼくに言う傍らで、ヨンちゃんはおもむろに、ズボンのポケットから何かを取り出した。白い封筒。それが何を意味するのか分からないまま、ぼくはそれを受け取った。

「もっと、はやくこれをお前に渡すべきだった。そうすれば、お前は迷わずに済んだのかも知れない」

 ヨンちゃんの言葉を横目に、ぼくは封筒を開き、一枚の便箋を取り出した。仄かに、記憶の底に残るヒメの香りがした。ヒメからの手紙の書き出しは、こうだった。

『わたしの好きな人へ』

 丁寧な文字、発作に苦しみながら書いたのかもしれない。でも、ヒメからの手紙には温かな言葉が綴られていた。ぼくは、その一文字一文字をかみ締めるように読んだ。

『わたしの好きな人へ。

 わたしは、病気で学校へはあまりいけなくて、夏八木のまちに来るまで、ともだちがひとりもいませんでした。

 夏八木のまちに来てからも、転校生のわたしをもてはやす子はいても、わたしのことを本気で心配してくれる子は独りもいませんでした。そういうのを、うわべだけ、というのだそうです。

 でも、秋人くんはちがいました。本当にわたしのことをしんぱいしてくれて、わたしの病気をなおしてあげるっていってくれたときは、本当にうれしかった。

 だけど、わたしの病気は絶対になおらない。

 わたしは、きっといつか死んでしまうでしょう。

 でも、悲しまないでください。わたしは、いつまでも秋人くんのこころの中にいます。秋人くんが、悲しいとき、つらいとき、まよったとき、わたしはいつもあなたを見守っています。あなたが、あなたでいてくれるように。

 だって、あなたは、わたしの好きなひとだから。

 ともだちになってくれてありがとう。わたしを助けるっていう約束を守ってくれてありがとう。いつか、また出会う日まで、さようなら』

 最後に、「ヒメより」と締めくくられたその手紙を読み終えたぼくの顔は、多分くしゃくしゃになっていた。ありがとう、その言葉が胸に刺さる。二十年の歳月を経て、ヒメから届いた手紙には、感謝の言葉ばかりが綴られていた。

「お前は、医者になってどれだけ多くの人を助けてきた? 何人もの人が、お前のおかげで、明日を生きている。ヒメと同じように、お前に感謝してる。それって、すごいことなんだ」

 ヨンちゃんが、ぽんっとぼくの肩に手を置いた。

「確かに、医療ミスしたのはお前の責任だ。失われた男の子の命は戻ってこない。だけど、その責任を背負っても、まだお前は医者を辞めたいと思ってないんだろう? だから、この街に戻ってきた。医者を続けたいと思ってるからだ」

 幼なじみの言葉一つ一つが、ぼくの内心を悟っているようだった。ヨンちゃんが、やけに事情に詳しいことや、まるですべて分かっているような口ぶりなことよりも、幼なじみのあたたかな眼差しが、少しだけうれしかった。大学病院を辞めて一月あまり、ガチガチに固まってもつれたぼくの心を解いていくような眼差しだった。

「ここで立ち止まったら、きっと、天国で見守っているヒメに怒られちゃうわよ。ねえ、シュウくん。逃げないで。ここには、わたしも、ヨンちゃんもいる。つまづいても、わたしたちはあなたの味方なんだから。あなたがあなたでいる限り、ヒメはあなたの心の中で、ずっと笑顔のままよ」

 リコが、白い歯を見せて笑う。すっかり美人になった幼なじみの顔に、十年前の面影がふと宿ったような気がした。幼なじみ二人の、あの頃と変わらない眼差しに、ぼくは留守さんの言葉を重ね合わせていた。

『好きなことから逃げ出したら、本当の意味で自分はダメな人間になってしまう。自分がそれを使命だと信じ、逃げないことが大切なんだ』

 ぼくは、何のために医者になったのか……。医者という仕事が心底好きだからだ。苦しんでいる誰かが、笑顔を取り戻し、元気になっていく姿を見たいからだ。そうするたびに、少しずつ、心の中のヒメの笑顔が、明るさを取り戻していくような気がしたからだ。

 ここから逃げだせない。逃げ出したら、ぼくは、あの少年に背中を向けることになる。でも、その責任をさえきれるか不安だったんだ。人の命は、たった一つでも、あまりに重く尊い。きっと押しつぶされてしまうかもしれないと思っていた。だけど、もしも押しつぶされそうになったら、幼なじみがそれを助けてくれる。あの日、浴衣の少年に崖から落とされそうになった時、二人が助けてくれたように。ともに、世界樹まで旅をしたように。

 それに、ヒメもいる。ずっとぼくのこころの中で、ぼくをささえてくれる。どうしてそれに気付かなかったのか。二十年の間、自問自答を繰り返した答えは、とっくの昔にぼくの目の前にあった。ノブさんが言ったように、もう答えは見つかっていたんだと、その時、やっと気付いた。

 医者をつづける。たくさんの人たちが、ぼくを支えてくれている。だから、ぼくは、自分かしたいことを諦めない。諦めちゃダメなんだ。それが、あの少年にできる、たった一つの償い。そして、なによりも、ぼくの望みだ。

「そうだな……ぼくは、二十年間、ずっと旅を続けていたのかもしれない。あの日の続きを」

 ぼくは、もう一度世界樹に近づいた。悠然とした姿の木を見上げる。ぼくは、言い伝えのような世界樹にはなれない。それでも、ぼくに出来ることは、たくさんある。

「ここが、その旅の終わり。あの夏の旅を、ここで終わらせる。新しい、旅の始まりの為に、ぼくは医者を続けるよ。今度は、この街の人たちの医者になる」

 と、ぼくが言うと、不意にリコが声を立てて笑い始めた。つられたように、ヨンちゃんまで、タプタプとお腹の脂肪を揺らしながら笑う。

 何かおかしいことを言っただろうか? ちょっぴり、クサい科白だったとは思うけど、笑うような場面ではない。と、思っていると、リコの視線はぼくの方ではなくて、「杉浦駄菓子屋」と書かれた、ヨンちゃんの軽トラックの方に向いていた。

 何だ、何なんだ? 怪訝に思ったぼくが、ぼくと正面で向かい合うように止められた軽トラックの方を見ると、荷台の隅っこで、なにかがひょこひょこと動いている。馬の尻尾のように見えるけれど、荷台に馬は収まらないだろう。

「忘れるところだった。お前に、もうひとつ届けものがあったんだ。スマン、スマン。もう降りてきてもいいぞ!」

 ヨンちゃんがそう言うと、狐につままれたような気分のぼくの前に、ひらりと見覚えのあるポニーテイルが揺れた。

「もう、完全に降りるタイミング見失っちゃったじゃないですかっ!! てか、聞いてるこっちが、恥ずかしくなるような、青春ですね、野崎先生」

 荷台から降りてきた彼女は、いつもと違う私服に、ボストンバックを手にして、ニコニコとぼくに微笑んだ。完全にあいた口が塞がらない。ヨンちゃんやりコが、やけに事情に詳しく、ぼくが夏八木診療所に赴任してきたことや、湾南大学病院を辞めたことを知っていたのは、それを話した人物がいるからだということは、うすうす感じていた。だけど、まさか、それが……。

「平沢さんっ! 何でここにっ!?」

 我に返って、ぼくは思わず大きな声を出してしまった。目の前にいるのは、一ヶ月前まで救命救急センターで同僚として働いていた、平沢看護師だった。二十五という歳の割りに、少女っぽい顔つきに、ぼくは平沢さんの平手打ちの痛みと、彼女の淹れてくれる苦いコーヒーの味を思い出していた。

 彼女は、驚くぼくの顔を面白そうに見つめて、笑いをかみ殺している。

「杉浦さんにここまで連れてきてもらったからに決まってるじゃないですか」

「コンビニに彼女がやってきて、『野崎って医者をしらないか』って言うものだから、俺も驚いてね。知ってるも何も、幼なじみだって言ったら、連れて行けっていうものだから」

 と、ヨンちゃんまでも笑いをかみ殺してニヤニヤしている。

「連れて行けなんて言ってませんよ。ねえ、リコさん」

「そうよ。ヨンちゃんが、シュウくんを驚かせようって言ったんじゃない」

 リコがぼくの顔を見る。多分、ぼくは面白い顔でもしていたのだろう。リコはまた噴出した。

「いや、そうじゃなくて。なんで、きみがぼくを探して、夏八木まで来たのかって聞いてるんだ」

「そりゃ、湾南に辞表を叩きつけてきたからですよ」

 事も無げに、平沢さんは言ってのける。

「辞表って……何言ってるんだ。大学病院辞めてどうするつもりなんだよ」

「言ったでしょ、わたし先生と一緒に仕事がしたいって。だから、夏八木診療所で看護師として雇ってもらえるように、役場に交渉したんです。そしたら、オッケーだって言うんで、迷わず、ばばーんとセンター長に辞表出してきちゃいました」

「はぁ!?」

 ぼくのどこにそんな素っ頓狂な声が出せる器官があったのかと思うほど、大げさに驚いた。彼女の大胆すぎる行動と、彼女の真意が分からなかった。

「まったまたぁ。嬉しいくせに。先生、またよろしくお願いします」

 ぺこりと平沢さんは頭を下げた。ポニーテイルがぴょこんと跳ねる。平沢さんはぼくを追いかけてきてくれたということなのだろうか……。それは、嬉しいことに変わりはない。でも、ぼくと働きたいというだけで?

「よかったわね、シュウくん。可愛い彼女が遠い街まで追いかけてきてくれて」

 突然リコが傍に来て、囁く。

「鈍い鈍い、とは思ってたけどな。彼女の気持ちに気付かないなんて、罪作りだぜ、まったく。でも、まあ、俺の嫁に比べれば、まだまだだけどな」

 ヨンちゃんまでも、ニヤつく。

 べつに平沢さんとはそんなんじゃないよ、と否定の言葉を吐こうとするぼくの前に、ニヤニヤと笑う顔が三つ。ぼくだけ、きょときょとしてしまう。

「ああ、そうだ。役場の女性が、四つ角作ってましたよ。約束の時間になっても現れない、行方不明になったって、心配そうにわたしの携帯に電話くれました」

 と、平沢さんはポケットから携帯電話を取り出して、ぼくに見せてくれた。そういえば、もう約束の時間はとっくに過ぎている。携帯の電波も入らない山の上にいるとは、誰も思わないだろう。説教の一つくらいは覚悟していたが、これは一つくらいでは済まされないかもしれないぞ。

「もう、しっかりしてください、野崎先生!!」

 平沢さんが、いつものように勢い良くぼくの背中をひっぱたく。ぱーん、と小気味よい音が、こおろぎ山の山頂に鳴り響き、誰からともなく笑い始めた。ぼくも、つられて笑い始めた。一度笑いのタガが外れると、何がおかしかったのか分からないくらいに笑いがこぼれた。

 さわさわと、こおろぎ山に夜風が吹きぬける。世界樹の葉っぱが、四人の笑い声に乗せられたように揺れる。ぼくは、心の中のヒメが、ぼくたちと一緒に笑ったような気がした。

 それは、二十年の旅の終わりと、再び夏八木での新しい旅の始まりを告げていた……。


「こんにちわ、夏八木診療所です。春江さん、調子はいかがですか?」

 みかん畑の坂道を自転車で駆け下り、古民家の庭先に自転車を止めたぼくは、縁側から家の中に声をかけた。すると、間もなく家の奥から、にこやかな乃木春江さんが顔を出す。

「あらあら、先生。わざわざどうも。おかげさまで、万年腰痛以外は、すこぶる元気ですよ」

 と、春江さんは言いながら、縁側に座り、ぼくと平沢さんにも座布団を勧めてくれた。

「でも、用心してくださいね。もうじき、気温も下がってきますから」

 ぼくの隣に腰掛ける平沢さんが、フォローを入れてくれる。街の看護師らしくKCに身を包んだ、彼女の姿に、春江さんは目を細めて、

「そうだね、またぶっ倒れて、先生やあんたのお世話になるわけにもいかないからね」

 と言った。熱射病で倒れたことは、春江さんにとっても、ショッキングな出来事だったらしく、みかん畑の仕事は、狩り入れなどの繁忙期以外、娘の春実さんに任せることにしたらしい。

「遠慮なさらないでください。お加減が悪いと感じたら、いつでもわたしたちを呼んでくださいね、春江さん」

 平沢さんがニコニコと微笑みながら言うと、不意に春江さんはぼくに顔を近づけてきて、耳元で囁いた。

「で? あんたたちは、いつ結婚するんだい?」

 もちろんその声は、平沢さんにも筒抜けだった。平沢さんは、縁側から飛び跳ねるように立ち上がると、真っ赤な顔をして、何故かぼくの頭を叩いた。

「痛っ! 暴力を振るうなと、いつも言ってるだろ、平沢さんっ!!」

「わたしと、先生はそんな関係じゃないですよっ! なんで、わたしがこんな鈍い人と!」

 ぼくの訴えを無視して、平沢さんが渾身の否定をする。

「何もそこまで強く否定しなくても……」

「先生は黙っていてくださいっ! まったくもう、何故か町中に変な噂が広がってるんですから。みんな、口を開けば『いつ結婚するんだい?』って、そればっか!」

 腰に手を当てて、プンスカするたび、平沢さんのトレードマークとなったポニーテイルが、ぴょこぴょこと揺れる。そんな彼女の姿を見て、春江さんは「あっはっは」と大口を開けて笑った。

「そりゃ、噂にもなるさ。わざわざ先生を追いかけて、夏八木まで来たんだ。あんただって、少しくらいその気があるんだろう? あとは、あんたの努力次第で、先生を振り向かせれば言いだけのことだよ」

 そう言われた、平沢さんは何故か耳の先まで真っ赤になって、再びぼくの頭を引っぱたいた。ぼくは何が何だか分からず、平沢さんと春江さんの顔を交互に見た。

「たしかに、この人は鈍い男だね……」

 と、春江さんがもう一度、みかん畑中に響き渡るような声で笑った。

 夏八木診療所に赴任して、一週間もあれば、大体の仕事は把握できた。寒村医療は、救命センターのように忙しなくはないが、ぼくと平沢さんの二人だけで、夏八木全体の町民を診なければならない。また、診療所の医師は、リコの勤める「夏八木小学校」の校医も兼任している。それは、救命センターとは違った意味でハードワークと言える。

 しかし、全体的に、ゆったりとした時間が流れている。時間も季節も、日付さえも分からなくなるほど、何かに追われていた日々が、嘘のようだった。回診のついでに、ヨンちゃんのコンビニに立ち寄ったり、町の公園でゲートボールに興じる老人と世間話をしたり、時には子どもたちの遊び相手になってやることも。

 自分がやりたかった、医者の姿は、こういうことだったのかもしれない。患者と同じ時間を過ごしながら、一人一人の人間に気を配り、互いに病や怪我に立ち向かう。その先に、患者にとっても、ぼくにとっても、よかったと言える明日が待っている。

 これから先、困難なことにも出会うだろう。もしかしたら、救えない命もあるかもしれない。でも、迷ったときには、リコが、ヨンちゃんが、平沢さんが、街のみんながぼくを支えてくれるだろう。その分、ぼくは自分の持てる、医術の知識でみんなを支えたい。そうすれば、きっと天国で見守ってくれているヒメも、ずっと笑顔でいられるはずだ。

 ぼくは、この一週間でそう感じた。

「しかし、川で溺れてたあのおチビさんが、お医者さまになるなんてね。あの頃は想像もしてなかったよ」

 白衣姿のぼくをしげしげと見つめ、感慨深げに春江さんが言った。ぼくは、平沢さんに引っ叩かれた頭をさすりながら、苦笑する。

「ぼくも、思っても見なかったです。こうして、故郷の町で医者が出来るなんて……。さて、次の回診へ行かなくちゃ。もしも、何かあったら、すぐ診療所に連絡してくださいね。飛んできますから」

「ああ、お言葉に甘えさせてもらうよ。野崎先生」

 ぼくは、縁側から立ち上がると春江さんと、みかん畑から帰ってきた、春実さんにぺこりと頭を下げた。そして、平沢さんを従えて、再び自転車に跨る。

「次は、双山の麓の、神野さん家のお爺ちゃんです」 

 と、平沢さんが案内してくれる。

「神野か……」

 今頃、あの大不良はどうしているんだろう。噂では、警察官になったらしい。あの日のことを恨みに思ってたりしないだろうか。ふと、そんなことが頭の隅を過ぎった。すると、平沢さんが、

「どうかしましたか、先生。しっかりしてください!」

 と言って、ぼんやりするぼくの背中を勢い良く叩いた。

「まったく、きみは……。いや、何でもない。さて、それじゃ行きますか」

 ぼくは溜息交じりに、自転車のペダルを漕ぎ出した。

 みかん畑に並ぶ、みかんの実が少しだけ黄色く色づきはじめている。もうじき、夏も終わり、秋が来るんだな。ぼくは、そんなことを思いながら、白衣の裾を翻して、みかん畑の坂道を、平沢さんと一緒に登った。


(おしまい)

 


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