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26. こおろぎ山

 衰えを感じるには、まだ若いつもりだが、それでもここ数年の間、毎日のように仕事に追い立てられ、自分の健康などに気を使っていなかった所為で、体力が落ちていることを自認せざるを得ない。

 子どものぼくがおっかなびっくりで渡った吊橋を越えこおろぎ山へとたどり着いたように、二十年後のぼくも、こおろぎ山の山頂へと向かう。それほど急でもない斜面を、息切らしながら登り詰めると、視界には、朱と藍が交じり合う暮れなずむ空と、悠然とした佇まいでぼくを迎えるような、世界樹が飛び込んでくる。

 あの頃から、何も変わることなく二十年の月日を過ごしてきたのだろうか、世界樹は夕暮れの風に木の葉を揺らしながら、ぼくを見下ろしている。

 この木の正しい名前は「(さかき)」という。木辺に神、と書くように、榊には神さまが宿るという、言い伝えがある。世界樹に神さまが宿る、という夏八木の言い伝えも、そのあたりから来ているのだろう。だけど、これほどまでに巨木に育った世界樹であれば、世界中の神さまを宿していたとしても不思議ではないのかもしれないと、神さまなど信じてもいないぼくでさえ、世界樹の神秘的な姿に見とれてしまう。

 ただ、神さまが宿る、というのはあくまで、言い伝え。榊という木は、どこにでも生えている、何の変哲もない樹木であり、薬学も履修した今となっては、その葉に何の薬効成分も含まれていないことを知っている。だけど、この世界樹の葉に神秘の力があると信じて、一人の少女を助けようとここまで来た日の熱は、まだこの山頂に残っているような気がした。

 ぼくは、そっと世界樹に近づいた。二十年前、三人で肩車してやっと手が届いた枝は、腕を伸ばし軽く飛び跳ねれば届くほどの高さになっている。それは、枝が垂れ下がったわけではなくて、ぼくの背丈がずいぶん高くなったということだ。光陰矢のごとし、とは良く言ったもので、月日の流れは本当に早いものだ。二十年、ぼくは一体何をやっていたのだろう……。

 本当にやりたいこと、本当にすべきこと、それをここで見出したはすなのに、ぼくは迷いを重ね、そして道を見失った。患者を右から左に裁くだけの、機械のような医者になって、それを疑うこともなく、日々を過ごした。ぼくが使命に思っていたことは、こんなことだったのか? ぼくはどうしたらいい? どうするべきなんだ? 教えて欲しい。

 世界樹を見つめて問いかけたところで、世界樹は何も答えてくれない。物言わぬ、神秘の巨木は、ただ黙ってぼくを見下ろすだけだ。そんなことは分かってる。神さまなんて信じない、そう口にしても、結局のところここへ来れば何かが分かるかもしれない、何かが変わるかもしれないなどと思う心の矛盾が、同じように自分の未来にも、矛盾と齟齬を生じさせている。

 何も分かりはしない……。何も変わりはしない……。己が、己自身を見定めない限り、ぼくは変わらない。このまま、矛盾を抱えたまま、医者をただの「仕事」としてこなしていくだけだ。それでいいのか? 良いわけがない。そんな医者を故郷の人たちは待ちわびているはずがない。誰でもいいのなら、二十年の月日を経て、ぼくはこの町に導かれたりしなかっただろう。

 せめて、留守さんのように、自分の進む道を信じることが出来たなら、ぼくにも未来を歩む資格が生まれるはずだ。どうしたら、ぼくは信じられる? 幼い命を奪ってしまった責任を受け止めて、新しい一歩を踏み出すことが出来る。あと、何回、自問自答したら答えが導き出せる。

 それだけでいい、それだけでいいから、ぼくに教えてくれないか?

 ぼくは、深くそして重苦しい溜息を吐き出しながら、世界樹の幹に触れた。ささくれた肌はごつごつとしていて、樹木と言うよりは、岩のようなさわり心地だ。それなのに、硬くなく、ぼくの手のひらを痛める事はない。神さまは、ただ傷つけることも癒すこともなく、人間が己で道を拓くその時を、黙って見守っている、ということなのか。

 ふと、木の向こう側を見ると、小さな駐車スペースと、そこから連なるようにアスファルトの道が、山肌を蛇行しながら駆け下りているのが見える。ここが、「単山展望台」という名前の公園になっていることを、ぼくは知らなかった。そもそも、二十年前にはここは展望台でもなければ、駐車スペースもアスファルト舗装の山道もなかった。その道こそが、おそらくノブさんの言っていた、道路整備事業で作られた新しい道なのだろう。一人で合点していると、薄暮の道に、一条の光がキラリと光った。

 あれは……車のヘッドライトだ。白いオンボロ軽トラックが、唸り声のようなエンジン音を、閑静な山並みに響かせながら、アスファルトの山道をせっせと登ってくる。どうやらこちらに向ってきているらしい。こんな時刻に観光客? 物好きもいたものだ、などと勝手なことを思っていると、軽トラックの助手席から誰かがぼくに手を振った。

「おおーい、シュウくんっ!!」

 その声に聞き覚えがある。リコだ。リコは長い髪を手で押さえながらも、ぼくを呼んだ。そして、駐車スペースまで来ると、眩しいヘッドライトを切って、軽トラックはブレーキを踏んだ。ちょうど、ぼくと軽トラックは向かい合わせになる。

 良く見ると、オンボロ軽トラックのフロントバンパーには、「杉浦駄菓子屋」とかかれており、案の定窮屈そうな運転席から、でっぷりとしたお腹を捩じらせて降りてきたのは、ヨンちゃんだった。

「シュウちゃん。やっぱりここにいたか」

 と、ヨンちゃんが言う傍らで、リコも助手席から降りてきた。二つのドアを閉める音が重なり、大人になった幼なじみたちがそろってこちらに歩み寄ってくる。

「シュウちゃんがウチのコンビニを出た後、どこに行った気になって、リコちゃんに連絡取ったら、世界樹のところにに向ったっていうから」

「ヨンちゃん、わたしの仕事が終わるの待ってくれて、シュウくんを追いかけたのよ。学校を後にする、シュウくんの背中がずいぶん寂しげに見えたから……」

 ぼくは、少しばかり呆気に取られていて、返す言葉も、愛想笑いも忘れて、二人の顔を交互に見つめた。

「聞いたぜ、お前、夏八木診療所に赴任してきたんだってな。どうして、言ってくれなかったんだよ。俺はまた、三十手前になって、望郷の念にでも駆られたのかと思ってたよ」

「いや、その、言いそびれちゃって。悪かった……でも、聞いたって誰から?」

 故郷の診療所に赴任することになったということは、役場の人たちと、乃木さんの娘さん、ノブさんしか知らないはずだ。こおろぎ山を反対から車で登って来た所を見ると、乃木さんの娘さんとノブさんから聞いたという線はありえない。役場の人たち、と言っても、ヨンちゃんたちがぼくのことを調べるために、わざわざ役場まで言ったとも思えない。

 思わずきょとんとしていると、突然リコが「見て、二人とも。街が綺麗よ」と言って、その瞳にこおろぎ山の山頂から見下ろす、夕暮れの夏八木を映しこんだ。それは、二十年前、世界樹の葉を手にして、山を降りようとしたぼくたちを引き止めた時に良く似ていた。

 ぼくとヨンちゃんは振り返るように、世界樹の麓で眺望に目をやった。西の山々に消え行く夕日を受けた街並みは、ここから見下ろす分には、何一つ変わってはいない。二十四時間経営のコンビニに変わったヨンちゃんのコンビニも、護岸工事されたという土手も、リフォームされた母校も、マンスリーマンションが建ったという公園も、ここからでは豆粒ほどにしか見えない。いや、いろいろなところが二十年の月日で変わったとしても、夏八木の町は夏八木のままなのだ。

 そんな当たり前のことを、二十年前、ここから街を見下ろした幼なじみとともに、再び眺めながら思った。

「二十年ぶりだな。ここから見る夏八木の景色」

 と言ったのは、ヨンちゃんだった。その言葉はぼくたちに向けたものだったのか、それとも自分自身に向けたものだったのか。

「ううん、あのときよりずっと綺麗。ほら、山の稜線を境に、夕焼けと夜の帳が交じり合うこの時間帯は、すべてのものを美しくするって言うじゃない」

「そうだな。ぼくにとっては、この風景どころか、夏八木も世界樹もすべてが二十年ぶりだ」

 リコの言葉に応えながらも、ぼくは二人に気付かれないように、そっと瞳を伏せた。まぶたの裏を過ぎるのは、二十年前、この場所までやって来た夏の日のこと。冒険があり、出会いがあり、そして最後にぼくたちを待っていたのは、この風景だった。たしかに、記憶の底で宝石の原石のようにキラキラと輝いている。

「あの後、すぐにシュウちゃんは、この町を出て行ったもんな」

 ヨンちゃんの声に、ぼくは瞳を開いた。

「ああ、父さんの仕事の都合でね。思えば、あの日のお昼、役場から帰ってきた母さんが持ってた書類は、転居届けだったんだろうね。なかなか、引越しのことをぼくに切り出せなかったみたいで、その話を聞いたときには、もうすでに引越しの準備は始まってたんだ」

「そうか……」

「だから、向こうに着いてすぐ、リコの手紙で、『ヒメが死んだ』って聞いて、ぼくは信じられなかった」

 ぼくがそう言うと、一様に暗い顔になる。思い出したくはない事実、信じたくはない事実を目の前に突きつけられた、あの日のことは、忘れようとしても忘れられるようなものじゃない。

「辛かった。初めてシュウくんに書く手紙が、ヒメの死を伝える手紙だなんて」

 と、リコが言う。二十年前、ぼくに手紙を書いたリコの心中は察して余りある。なぜなら、彼女は、ぼくがヒメのことを好きだということを、最初に感づき、そして最後まで応援してくれたのだから。

 ぼくは、僅かに溜息を漏らすと、続けた。

「何度か夏八木へ戻ろうって思ったけど、子どもの足じゃ、あまりにも遠すぎる。たとえ走っても、一日や二日じゃたどり着ける距離じゃなかった。だから、ひどく後悔もした。両親を恨んだ時期もあったよ。でも、どうにもならなかった。ぼくの力じゃヒメを助けることなんか、最初から出来なかったんだよ」

「それは違うぞ、シュウちゃん!」

 一瞬、しんと静まり返りかけた空気を引き裂くように、急にヨンちゃんが大きな声を出す。

「シュウちゃんは、あの後、結局一度もヒメと顔をあわせることなく、この街を出て行ってしまったから知らないんだよ!」

「え? 何をだい?」

「ヒメは、本当は……」

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