25. 夏八木の眺め
長く険しいこれまでの道のりを思えば、最後の山道を登るのなんて、わけもなかった。幸い、こおろぎ山の斜面をぐるりと回り、頂上へと連なる道は、なんら険しいものではなかったのだ。
思えば、ヒメの病気を知ったぼくが「治してあげる」と根拠のないことを口走ったのが最初だ。そして、ヒメは病魔に苦しみながら、ぼくの名前を呼んだ。それは、彼女がぼくのことを信じてくれているからに他ならなかった。その信頼に伸べられた手を、無下に振り払うことは出来ない。例え彼女の信頼が好意でなかったとしても、ぼくはヒメのことが好きなんだ。だから、絶対に彼女を守ってみせる。
そんなずいぶんと格好つけた思いを胸に、ぼくはリコたちの先頭に立って、山道を登った。草木の間からはみ出す岩は、でこぼこしていて邪魔だけど、足を取られることはない。ぼくの足取りは、異様なくらいに軽く、それでいてしっかりしていた。旅の折り返し、その先にある、世界樹の葉っぱを手に、ヒメのところへ急がなければ。はやる気持ちはあったけれど、その岩のほとりに咲く、一輪の白い花に目をくれるだけの心の余裕もあった。
「世界樹だっ!!」
頂上の稜線が切れ始めると同時に、視界に巨大な一本木が見えてくると、ぼくは思わず、いつになく大きな声で叫んだ。樹齢は果たしてどのくらいだろう。太い幹は、両手を目一杯広げて抱きついても余るほどで、広がる枝は、まるで傘のように大きく、まるで体育館の屋根のようだった。すると、山の峰を吹き抜ける風が、その梢を揺らし、木の葉がさわさわと音を立てて揺れる。「霊験あらたか」という難しい言葉が良く似合う、その光景にぼくたちは、額から流れ落ちる汗も、乾ききった喉も忘れて、吸い寄せられるように、巨木を見上げた。時折、木の葉と木の葉の間から木漏れる光がまぶしい。
「着いた、やっと着いたよっ!!」
一番最初に我に返ったヨンちゃんが、嬉しさのあまり飛び跳ねた。大人であれば、一日もあれば往復できるような距離も、子どものぼくたちにとっては、遥か彼方のように思えた。そして、ついにたどり着いたのだ。
電車に追っかけられて、川で溺れて、優しい小母さんに助けてもらったかと思えば、白い浴衣の男の子……あの子の正体は結局分からずじまいだったけど……に、崖から突き落とされそうになって、強面だけど優しい陶芸家のおじさんに出会った。
何のことはない旅だと思う人もいるかもしれない、だけど、ぼくたちにとっては、ゲームや本の中で体験する、壮大な冒険に匹敵するほどの、大冒険だったことは間違いない。一歩間違えれば、ヒメを助けるどころか、自分たちの命さえも危なかった。そう思えば、無茶なことをしたんだと後悔する気持ちと同時に、ヨンちゃんのように飛び跳ねて、全身で喜びを表現したい気持ちも分かるような気がする。
苦労が報われるかもしれない、その希望に胸を一杯にするぼくの前に、リコがずいっと歩みでて、冷静な言葉をくれた。
「喜ぶのはまだ早いわよ。あそこまで、どうやって葉っぱを採りに行くの?」
そう言って、リコが指差す先に、緑色の鮮やかな葉がある。だけど、その葉がある場所は、ぼくたちの背丈の三倍近くも高いところにある。巨木だけに、一番低い枝も、手を伸ばせば届くという距離ではないのだ。
「どうしよう」
思わず、困ってしまう。ここには、手ごろな竿もないし、脚立なんて尚更だ。漫画だと、手ごろなアイテムが落ちているのがセオリーだけど、そんなに都合よくはない。それが現実というもの。すると、ぼくと一緒に春が頭上の枝を見つめるヨンちゃんが、まるで学校の教室で挙手するように、右手を挙げた。
「はいはい、いい案があるよ。三人で肩車して、手を伸ばせば届くんじゃないかな!?」
確かに、背丈の約三倍なら、ぼくたちが協力して肩車すれば、手が届くかもしれない。神様の宿る樹の葉っぱは、一枚でいいのだから。
「じゃあ、だれが一番下になる?」
と、リコが言うと、ぼくたち男子二人は揃って、リコの方を見た。
「わたし!? いやいやいや、わたし、これでも一応女の子だよ。一番下って言うのは、あんまりじゃない? そこは、ほら、体格から言って、シュウちゃんでしょ?」
全力で頭を振りながら、リコがぼくを見る。確かに、女の子のリコを一番下にするのは、男としては何だか情けなく思えるくらいのプライドが、十歳のぼくにだってある。だけど、ぼくは腕っ節の強い方ではないし、運動もそれほど得意じゃない。隣にいる、ヨンちゃんは牛蒡みたいなヤツなので、もっと頼りない。ここにきて、ぼくたち男子二人が、あまりにも頼りないことに気付かされて、ヘコみそうになってしまう。
「でも、この中で最強なのは、リコちゃんでしょ? ほら、ゲームで言うところの筋骨隆々の戦士。ぼくは魔法使いかな。そんでシュウちゃんは僧侶」
「誰が、『きんこつりゅうりゅう』の戦士よっ!」
自分の好きなゲームに例えるヨンちゃんに、ガルルっと噛み付きそうな顔をするリコは、やっぱり一番下になるのが相応しいような気がした。これまで、不良中学生を巴投げしたり、街に出没した泥棒を棒術の餌食にしたり、線路下のトンネルを牛耳る神野一味をぶっ飛ばした、彼女の数々の武勇伝を思えば、あながち筋骨隆々の戦士というのも、大げさな話ではない。
ちなみに、幼なじみの女の子の名誉のために言っておくと、彼女は昔から割りと小柄で、腕や足もほっそりとしている。少し丸顔だが、愛嬌もある。ヒメには敵わないけれど、と思うのはぼくのヒメびいきだからで、リコはまさに「柔よく剛を制す」という言葉を体現している。
そんな、彼女の為にぼくは、ヨンちゃんの顔も立てるべく、
「じゃあ、じゃんけんで決めよう。一番最初に勝った人が一番上で、次に勝った人が二番目、最後まで負けた人が一番下ってことで」
と、提案を重ねると、流石に、葉っぱを得るためには、肩車しかないと分かっているのか、二人とも、同意の頷きを返してくれた。
「じゃあ、いくよ。恨みっこなしだよ。じゃーんけーんっ」
ぽい、の合図でぼくたちは、各々の右手を差し出した。結果、ぼくが一番最初に勝ち抜けて、ヨンちゃんが二番目、そしてリコが最後まで負けた。普段の勝負強さが、全く発揮されなかったリコは、しぶしぶ「分かったわよ」と言う。
「今度、ウチの駄菓子屋で、アイス奢ってあげるよ」
と、ヨンちゃんが言うと、リコは「ケーキのほうがいい」とだけ言って、その場にしゃがんだ。三人肩車なんて、やったことがない。去年の運動会で騎馬戦をやったけれど、あれでも、下になる人は大変だったのだから、リコの悲痛さといったらなかっただろう。
だけど、非力な子どもの力でも、踏ん張れば何とかなるもので。主に、それはリコの奮闘によるものだった。ぼくは、一番上で不安定さに不安を感じながらも、必死に手を伸ばした。
枝まで、あと一センチ、あと五ミリ。目一杯手を伸ばす。そして、指先が葉っぱに触れた瞬間、リコがついに悲鳴を上げて、三人肩車はものの三十秒ほどで、からがらと崩れ去った。だけど、ぼくの手には、しっかりと「世界樹」の葉っぱが一枚だけ握られていた。
「ううっ、全身が痛いっ!!」
何故かヨンちゃんがのた打ち回る。崩れた拍子に、お尻を強く地面に打ち付けたらしい。リコも、腰の辺りをさすって、痛そうな顔をしている。何より、その細い両肩にのしかかった、二人分の体重の負担が、リコの顔をしかめさせたのだろう。
「でも、二人のおかげで、葉っぱを手に入れたよっ!」
ぼくは、そのたった一枚の瑞々しい緑色した葉っぱを、まるで宝物でも手にしたかのように、天高くかざしてみせた。それは、どんな黄金の財宝よりも価値のある、たった一枚の葉っぱ。だけど、これがあれば、病に苦しむ、あの子を助けることが出来るんだ。
「やったーっ!!」
と、リコとヨンちゃんが叫ぶ。もちろん、喜びに満ち溢れた声だ。
「よし、これを早くヒメの所に届けようっ!!」
ぼくは、葉っぱをなくさないようにポケットにしまいこむと、勇み足でこおろぎ山を下ろうとした。その段になって、もう一度あの谷間の吊橋を渡らなければならないと思うと、少しだけゾッとした。
「待って! 少しだけ」
突然、リコがぼくを呼び止める。だけど、彼女の瞳はぼくの方を見ていなかった。
「街の景色がとっても綺麗だよ。シュウちゃんもヨンちゃんも見てごらんよ」
キラキラとした視線に映しこむのは、こおろぎ山から見おろす、生まれ育った夏八木の風景。山の麓から、林と田んぼが並び、その向こうに線路がある。線路は、真っ直ぐにこおろぎ山の脇をすり抜けて、隣町へと伸びている。そして、その線路と交差するように、川が流れている。あの。ぼくたちが溺れた川だ。そして、川の向こうには、色とりどり、民家の甍が見えた。そしてその中心に、ぼくたちが通う「夏八木小学校」が、小高い丘の上に建っている。
十年間、走り回ってきた町なのに、はじめて高い場所から見おろしながら見つめる、故郷の全景は、とても美しく、輝いて見えた。まさに、リコの言うとおり、とっても綺麗だった。
これからも、ぼくたちはこの何もないけど、とても綺麗な輝きを持った町で暮らしていく。この町で、嬉しいことや楽しいことをたくさん経験しながら、大人になっていく。そこには、大好きな幼なじみのヨンちゃんとリコがいて、ぼくがいて、そしてヒメがいる。それは、いつまでも変わることはないんだと、夏八木の景色を見つめながら、十歳のぼくは思った。
だけど……。
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