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24. 吊橋

 双山の中腹西側に広がる、広いススキの野原を越えると、単山との谷を結ぶのは、一本の脆弱な吊橋だけだ。橋脚を設置するには、あまりに高さがあるため、その谷に吊橋が取り付けられたことは、なんら不思議なことではない。ただ、山間(やまあい)の谷には、ごうごと唸る風が舞踊る。

 この国には「夕凪」と言う言葉がある。夕方になると、風が止み、まるで海に波が消える凪のように静かになることからそう呼ばれる。夏八木にもそういった時間帯がある。しかし、山間部ともなれば事情は違う、と言うことなのか。山風は夕刻になっても、止む気配はなかった。

 眼前で、ぎいぎいと音を立てて風に揺れる吊橋。そして、眼下に広がる谷間。二十年経って、充分な大人になった今でも、そこは確かに恐ろしい場所だった。

 しかも、あの頃より、幾分か老朽化の後が見える吊橋は、こおろぎ山の反対側に道が出来た所為だろうか、利用する人もいないため、ひどくみすぼらしい。そもそも、夏八木を一望できる見晴らし以外に、何もないこの場所にやって来る奇特な人など、そんなにはいないだろう。

 そんなことを思いながら、こおろぎ山の山頂を見上げると、夕日をバックにシルエットとして浮かぶ一本の樹が見える。あの頃、あそこまではとても高く、まだまだ道のりは遠いように思えたが、改めて、大人の視線で見れば、本当にそこが旅の終着を知らせる場所であることが、良く分かる。

「世界樹……」

 ぼくは、こおろぎ山の山頂に二十年のときを経ても尚、悠然と立つその樹の名前を口にした。世界中の神さまが宿る樹、だから世界樹と呼ばれるのだ、とヨンちゃんから聞かされたのは、二十年前、この場所を歩いたときだ。

 幽霊を信じないぼくは、神さまも信じてはいない。歳を取るごとにその思いは強くなっていった。奇跡などと言う言葉は口に易く、その実はタダの偶然だと思っている。それを神様のおかげと呼ぶのは、人間のエゴイズムだと本気で考えてしまう。なんとも、リアリズムな考え方だが、たった三十年弱の人生でも、「奇跡なんて存在しない」と言い切れるだけの、経験を何度もしてきた。

 助けられる命、助けることの出来ない命。人の生き死にの最前線である病院は、人がいとも簡単に死んでいく戦場と何の変わりもない。そのなかで、ぼくはいくつの命を救えなかっただろう。大学の救命救急センターに運び込まれたときには、すでに息を引き取っている患者もいた。すでに手の施しようもなく、匙を投げざるを得ない患者もいた。そうして、遺族の涙を何度見ただろう。

 だけど、あの時、たった一人の少年の命を、助かるはずだった命を、みすみす失わせたのは、他ならないぼくだ。少年の母親は、ひどく取り乱し、ぼくを口汚く罵った。大学の教授たちは、ぼくの医療ミスを叱責した。同僚たちは口を揃えて、後ろ指を差した。それらすべてを、甘んじて受け止め、そして、センター長のおかげで、この夏八木に戻ってきたにもかかわらず、ぼくは医師を続けるか否か迷っている。ずっと、ずっと、暗闇のトンネルを行ったり来たりしている。その先に、光明を見出せないのは……いや、見出そうとしていないのは、すべてぼく自身の責任だからだ。

 それを、「あの時奇跡が起きればよかったのに」「神さまはなんてヒドイんだ」と、逃げ口上よろしく思ったところで、あの少年の命は戻ってこない。

 少年は、サッカーの大好きな男の子だったらしい。友達思いで、真っ直ぐな性格は、誰からも好かれた。一人息子で、両親の愛情をいっぱい受けて、育っていたその一握の命を、ぼくは失わせた。ぼくが、殺したのと同じ。「しかたがなかった」と割り切ってしまえば、楽になるのだろうか? それは違う。仕方なくなんかないことを一番良く分かっているのは、ぼくだ。ならば、ぼくが犯したその罪を、どうしたら贖罪できるのか。

 その答えは、神さまにも、奇跡にも頼らない。ぼく自身がぼく自身の力で、光明を見つけ出さなければいけない。すべての始まりの場所で。あの、こおろぎ山の山頂で。


「ゆ、揺らすなよう、シュウちゃんっ!!」

 ヨンちゃんが、悲鳴混じりに言ったその声は、谷間にこだまして散っていった。

「揺らしてないよっ。風だよっ」

 そう返しながらも、ぼくの心臓も爆発しそうなくらい、ドキドキしていた。安全保障のない、遊園地のアトラクションみたいなもので、鉄橋とは違い、後ろから何かが迫ってくることはないけれど、谷に落ちれば、多分助からない。見上げる空には、ピーヨロロと甲高い鳴き声で、鳶が飛んでいる。ぼくたちは獲物じゃないぞ、と睨みつけたところで、遥か頭上を悠然と舞い、谷間に落ちることもない彼には届かないだろう。

「騒がないっ!!」

 ぴしゃりと、先頭のリコが言った。旗よろしく、右手にしていたススキは、橋の入り口で棄てたらしい。今は、硬く橋の両脇のツルを掴んでいる。

 先頭をリーダーでもあるリコが、そのすぐ後ろをヨンちゃんが、そして、一番後ろをぼくが渡る。人が一人渡るのが精一杯の幅しかないこの道を、ぼくたちは一列になって、慎重に進んだ。石橋を叩いて渡る、という諺があるけれど、まさにそれに近い状態で、手すり代わりのツルを掴む手が、ひどく汗ばんでいた。

「ねえ、今ツルが切れたら、俺たちみんな死んじゃうのかな」

 ヨンちゃんが震える声で言うと、歩みを止めたリコが振り返り、キッとヨンちゃんをにらみつけた。目は口ほどにものを言う……。ヨンちゃんは、眉を垂れ下げて、情けない顔をして見せた。見かねたぼくは、確証のない安請け合いを口にする。

「大丈夫だよ。ヨンちゃんの祖父ちゃんが渡った橋は、明治時代に作られた木製の橋だったんでしょ? でもほら、この橋はワイヤーと金具で頑丈に出来てるから、簡単に切れたりしないよ」

「でも、でもっ。親父から聞いたことあるよ。金属って、金属疲労って言うのを起こすんだって。時には、木よりも弱いことがあるって。ゲームだと「きのぼう」より「てつのつるぎ」の方が強いのに」

 見れば、ヨンちゃんは爪先まで、小刻みにプルプルと震えている。

「ああ、神さま、ヒメの前に、俺たちを助けてくださいっ」

 ヨンちゃんが祈るように、遥かこおろぎ山の頂上に向かって言った。すると、リコがとうとう頭にきたのか、ものすごく怖い顔をして、

「ヨンちゃんっ!! わたしだって怖いんだからねっ! これ以上ガタガタ言うんだったら、ここでコブラツイストしてあげる。黙って渡るのと、わたしの必殺技食らうのと、どっちがいいのっ!?」

 と上から押さえつけるように言った。リコも内心にかなり怖いのだろう。ぼくたちと同じように、声は震え、膝が笑っている。しかし、ヨンちゃんは、神野たちをシメたあの技の恐ろしさを思い出したのか、しゅんとなって「ごめん」とだけ返した。

 多分、この橋が壊れることはないだろう。現代の技術で作られた橋と、明治時代に夏八木の人たちが架けた橋とでは、明らかに違う。だけど、リコのコブラツイストは、確実に痛い。分がある方を採るのは、懸命な判断と言えた。

 ただ、当時はこおろぎ山に至る道は一つしかなく、世界樹の葉を手に入れたぼくたちは、この道を戻らなければならない、ということに気付いていなかった。

「な、何か歌おう。そしたら、ちょっとは怖くなくなるかも」

 ぼくが提案すると、二人はすぐに同意の頷きを返してきた。言いだしっぺの手前、一番手はぼく。人前で歌を歌うのは苦手だけど、仕方がない。

「アルプス一万尺、小槍の上で、アルペン踊りをさあ踊りましょう。ランララ、ララララ……、つ、つぎリコの番っ!!」

「えっ、わたしっ!? ある日、森の中、クマさんに出会った、花咲く森の中、クマさんに出会った。ううっ、歌下手なのよ、恥ずかしいっ。次、ヨンちゃんっ!!」

「俺もっ!? じゃ、じゃあ、ロンドン橋、落ちる、落ちる」

 ぼくとリコがぎょっとする。人ひとりが座れるくらいの小槍で踊るのも、森の中で突然熊に出会うのも、どちらもイヤだけど、この状況で橋が落ちるのは、かなり縁起でもない。

「落ちてたまるかっ!!」

 と、ツッこんだのは、ぼくが先だったか、それともリコが先だったか、パンチにサンドウィッチにされた、ヨンちゃんが歌の途中で「ぐえっ」と悲鳴を上げ、そして大きく橋が揺れた。

 それから、ぼくたちは黙々と吊橋を渡った。歌を歌うのも、何か言葉を口にするのも、もう怖くて仕方がない。いっそのこと駆け抜けてでも、不安定な吊橋をさっさと渡りきりたかった。ここを渡れば、こおろぎ山の山頂へ上り詰めるだけ。ゴールはもうすぐなんだっ!! 一念に浮かぶのはその言葉だけ。

そうして、たっぷり三十分はかけただろうか。鉄橋で電車に追いかけられたときに匹敵するほどのスリルに浸ったぼくたちは、橋を渡りきると、膝から崩れ落ち、渾身の溜息を漏らした。

「足元が、グラグラする」

 ヨンちゃんが、泣き出しそうな声で言った。確かに、揺れの感覚がまだ頭の中に残っているのか、目の前の景色まで、グラついて見えた。

「や、休んでる暇なんかない。行こう」

 一番最初に立ち上がったのは、リコ。だけど、リコは意識して、橋の方を振り返らないようにしているみたいだった。ぼくは、休憩したいと顔に書いてあるヨンちゃんの腕を取って、起こしながら、立ち上がり、肩に提げた水筒から、昨日留守さんの工房で注ぎ足してもらった麦茶を配った。

 ぼくたちは各々、一杯ずつ喉の奥に流し込むと、誰からともなく頷き合わせて、こおろぎ山の山腹を這う、山道を登った。ここからは、こおろぎ山の山肌をぐるりと廻る、山道に入る。とは言っても、みかん山こと双山の山道のように木々で覆われているわけではなく、背の低い草と、茶色の岩がところどころに露出した道だ。

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